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2015年05月30日06:17

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橋本治 著  暗夜 Black Field



橋本治 著    暗夜 Black Field

河出文庫 

1995年 5月 4刷  260頁



本書は1981年10月に単行本として刊行されたものに加筆した作品だと末尾にしるされていて、鈴木貞美が「夢の底の底への旅」と題してして後ろに解説が加えられている。 その題から見ればルイ=フェルディナン・セリーヌの「夜の果てへの旅」になぞられているのだろうし読了後本書の更なる理解のために役立つかと解説を読んだのだが鈴木の文は自分が感じたのと同じく読了後に、例えばローラーコースターに乗って降りてきた後にどのようにローラーコースターが上下してその周りに見えるその模様と如何にその軌道に翻弄され、その感情の起伏が他の橋本の諸作品とくらべると意外であったかといことに加えて、自分も今さっきそのコースターを降りてきたところであるからそのスペクタクルを単になぞった記述では何故橋本がこのようなローラーコースターを構築したのか、その意図は何だったのかを考える糸口を示していないことに少々の落胆も感じたのだったけれど、それもローラーコースターから下りて出てきてすぐの感想であるのだったらそんなものだろうとも思い直しもし、おいおいとまたそのうちコースター体験の非日常の瞬間を思い出しつつそれを反芻することになれば自ずから答えも出るかもしれないだろうという少々投げやりな解説者の心遣いからこうなったのかもしれない、と同じような感情の起伏を経験した自分のこととあわせて鈴木の橋本に沿ったような散文調の付録は忘れることとして、自分の想いは、どうして、、、、ということに戻る。 1981年の橋本が世に出した文学作品であるというところにその鍵があるのかもしれない。

橋本の作は、デビュー作の68年東大駒場祭のポスター、77年の「桃尻娘」には時間を於かず接している。 それ以後は評論、随筆などで目を通すだけという具合で特に身を入れて読むという方ではなかった。 2002年の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮社、は三島由紀夫に関して書かれたものの中では野坂昭如の『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』文藝春秋 1987年と並んで至極まっとうな佳作だと思った。 それにそのころ毎月目を通していた文芸雑誌の連載で小林秀雄のことを論じそのメモを記していたこともある。 2005年だった。 それにそこのころ橋本の「橋」を文学雑誌で読み、それを初めて橋本の「文学作品」に接したと感じた。 それではそれまでの評論、随筆は別にして桃尻娘はなんだったのだろうかとも思う。

この何年か毎年年末年始の時期に帰省しそれまで帰るたびに続けていた書店通いでめぼしいものをまとめ買いし、多くなれば船便でオランダに送る、ということを続けていたのだがこの数年めぼしいものがめっきり少なくなり、自分の思考能力、知的好奇心が衰えたのか心のどこかで読みたいと思っているような著者の名前、作品、好奇心をくすぐるような題名のものが見つからなくなり本屋めぐりもお座成りになってきていた。 それにもう本を買ってもわざわざ別便で郵送することもなく乱読の気ままに買ったものでもスーツケースに入る量ほどにしかならない。 今年の正月あけに戻ってきてスーツケースを開けてでてきたものの中には橋本治のものが多かったことには少し驚いた。 

『橋本治と内田樹』 内田樹共著、筑摩書房、2008年

『浮世絵入門 恋する春画』 早川聞多・赤間亮・橋本麻里共著、新潮社(とんぼの本)

『ひろい世界のかたすみで』 マガジンハウス、2005年

『風雅の虎の巻』 作品社、1988年、ちくま文庫

2011年『窯変源氏物語』1–14のうち1−3 原作:紫式部『源氏物語』、中央公論社、1991–93年、中公文庫

『その後の仁義なき桃尻娘』 講談社、、1983年、講談社文庫

『夜』 集英社、2008年 

『初夏の色』 新潮社、2013年

それに加えて本書である。 別に橋本のものを集めようとも特に初めからこれをと目指して買ったものではない。 たまたま本屋の書架にあったものを見て買ったものだ。 上のリストの作品はオランダに戻ってからもう既に読んだものもあるしまだ途中のもの、手も付いていないものもあるけれど読了したものについてはまた別項で記すかもしれない。 取敢えず本作について。

その前に本作を読んでいて印象に残ったことがある。 それは他の作品でも感じられること、ことに評論、随筆を読んで感じたことに共通していてそれは橋本の思考に関係があるかもしれないと思うので記しておこうと思う。。 そのことが徐々に明らかに感じるようになった材料が対談集「橋本治と内田樹」で、自分は内田と同い年、橋本は我々の二つ上ということがあり、我々が過ごしてきた時代背景の違い、それに内田と橋本の村上春樹にたいする態度の違いに興味と驚きをもった。 橋本も村上も日本の文壇から距離を置いているといわれている点では共通しているけれどその文学に対する態度、文体等にはほぼ正反対のものを見る。 特に橋本の村上を論じないというより何事のようでもない、という態度にもそれが明らかで、そこには内田が村上に煎れこむような態度には、自分にとってはその意外と映りこの対談集は甚だ興味深かったのだが、この対談集が自分を本書に向ける後押しとなっていたことは確かである。 対談集で見られる橋本の自己言及に於けるその奔放な論理と自分の論を述べるときの筋道の建て方にこの人の特徴を見るようだ。 論の途中、筋道を補強する材料提供の緻密さはただ微細なものを積み上げるだけのものではなく必要最小限でもこうなった、という形のものである。 

自分はファンタジーやSFは苦手である。 描かれている世界が現実から離れている場合にはそこに描かれている世界について行こうという辛抱が足りなく、ああこれは本当ではない、と匙を投げてしまいがちだからだ。 自分には想像力が足りないとも思う。 けれど隠喩なり譬えは分かろうとするしある程度分かるつもりではある。 本作の世界は現実ではない。 けれど、そうすると文学世界は現実かというとそうではない。 写実的であるものが多くともそれは現実ではなくどちらも虚構世界であってそれぞれの世界が現実とどれほど距離があるかの違いである。 ある場合には現実から思い切り距離がある場合に現実に近づける、という場合があるかもしれないし本作がその試みの例かもしれないと思ったのは飽きやすく投げやりになりやすい自分が本作の中で途中で突飛なもの、ついていけないものとして放り出さなかったことと、いつもなぜなのか、というような疑問に引っ張られて読み続けたということからも想像できる。 そのなぜ、という餌に食いついて初めからファンタジーのようなSFのような本作を口から離さないで消化しようとついて行ったのはその餌の種類と量、餌を引っ張っていく釣り人の竿さばきの上手さの故だったのだろう。 だから自分は最後まで食いついて釣り人に釣られたのだ。 前に本作をローラーコースターに例えたけれどそれは適切ではない。 ローラーコースターならば乗ったら安全ベルトで縛られ、いやでも終点まで自分でそこから下りることはできないが釣りの餌で引っ張られる場合には嫌なら吐き出す、釣り糸をかみ切る、ひっかけられているとしてもそれと争って自分を傷つけても離れる、諦める、などの選択肢がある。 自分の感じでは奇妙な餌に誘われて喰いつき引っ張られるままに海底の様々な景色を愛でたあと餌を喰い終わった後は針が消え重い釣竿は釣り糸とともに暗い海底に沈んでいくのが見えるような体験だったと思う。

解説で鈴木は鶴屋南北の世界を想起させることを言っている。 古典、特に歌舞伎を出発点としてきた橋本世界には当然のことではあるけれど、ことに終盤、本作の題ともなっている暗夜の章での記述はヒエロニムス・ボッシュの世界を思わせる。 それに三島なら好んだであろう主人公の大学生と眠れる美女との交感、その女が彼女を看取る医師の眼前で朽ちる様子は平安時代の絵巻物にある小野小町変化の図を見るようで古典の視覚美術やものを編むことに長けた橋本の材料を選び自分のデザインに従って練った作品であるから何も知らずに喰いついた自分が途中で嫌になったり諦めたりして吐き出すこともせず最後まで辿りつけたのだろう。 この文庫全体のものか本書だけの装丁なのかはっきりしないけれど少々レトロな粟津潔のデザインが合うようだ。 そこに何かのぐあいに指を切った時に染み出た血か苺の大粒を齧ったときに付いた果汁か判別しがたい汚れをつけたまま本書を閉じた。

暗夜と漢字で書かれていて読みが出ていない。 アンヤであるのかヤミヨであるのか声に出してみても落ち着かないような気がする。 それをそのままにしておいて Black Field とあるものをそばに置いて重ねるとそこには本作のイメージが広がるようでもある。
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