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2015年04月27日22:54

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山中湖で映画『めがね』を見て思ったこと

 夜になると摂氏5度前後に冷え込む山中湖で迎えた朝。
 午前8時に起きて最初におこなうアクションは、石油ファンヒーターのスイッチをオンにすることだ。極寒地用の大型ヒーターなので、点火するのに5分ほど待たねばならない。
 その間にお湯を沸かして、コーヒーを淹れる。ファンヒーターから熱風が吹き始めたらそのすぐ前で正座をするように座り込んで、コーヒーを一口二口すする。タバコに火を付けて、頭が目覚めるのを待つ。
 顔を洗って歯を磨いて心身が人心地ついたら、クルマで湖の対岸にある「ガスト」へ行く。距離にして6キロくらい。フロントガラスの半分が富士山で占められ、4分の1は山中湖という湖周道路を走っていると、視線が道路状況に集中しづらい。
 午前11時を過ぎると、観光地の安いファミレスは家族連れと若者集団がフリードリンクを求めて右往左往する煩わしい生活感で溢れ返る。が、朝食時間は別荘族やバイクのツーリング者らが主な客層なので、リゾートホテルのカフェと少し似ている、山中湖の「ガスト」はなぜだか讀賣新聞の無料配布サービスがあって、ゆっくり新聞が読める。
 499円+税というメニュー価格をやめて欲しい。下層民とて馬鹿ではない、500円+税というキリのいい数字でいいじゃないか、4(し)と9(く)だぜ、私はいっさい数字の
語呂合わせに関心がないけれど。
 スープ、目玉焼きかスクランブルエッグ、まあまあ美味いウィンナー2本、付け合わせのサラダ、トーストかライス。これに野菜ジュースやコーヒーなどのフリードリンク。
 野菜ジュースを口に含むとニンジンの味が爽やかに感じられ、コーヒーをやめてこちらをおかわりした。まだわずかながら理性が残っている。
「ガスト」からクルマで数分のところに山中湖情報館という名の図書館がある。内部は木肌剥き出しログハウスで香りがいいのと、雑誌が豊富に揃っていることと、村が民間に外部委託していることでサービスの品質がいいので、個人的には山中湖でいちばん落ち着ける場だと思っている。
 出来て以来ずっと通い続けているのだが、今回、初めて貸し出しカードを作ることにした。MacBookを別荘に持ち込んだらDVDで映画を観たくなった。
 大してDVDの数はない。ざっと見たところ200本くらいだろうか。
 トルストイの『復活』とか「ゴダールのマリア」といった作品が並んでいる。古い名画は価格が安いのだろう。
 邦画の棚で『めがね』というタイトルがあった。ケースを見ると、南の島を旅した女性が村の人たちと接していく内に人間性を取り戻していく、というような紹介が書かれてあった。主演は小林聡美と市川実日子、もたいまさこ、とある。昔、テレビでやっていた『猫が好き』みたいな退屈さがあるのだろうか? 夜になるとホーンテッド・マンションのようなところで、文豪の名作だとかハリウッド系の感動ヒューマン・ストーリーなど観たくない。得るものがなく、スリルも感動もなく、美人が登場しない映画を欲している私向きではないか? 
『めがね』を手に持って受付へ行き、図書館カードを作ってもらう。カード作成まで5分くらい時間がかかるので、本でも読んでいてください、と言われて、ソファーで芸術新潮を読んでいたら、小林聡美を20歳くらい若くしたような女性がカードを持って来てくれた。
 昨年秋に買ったMacBookで映画を観るのは初めてだった。これまでに日本のジャズ界にあっていちばん美しい山中千尋のライブDVDを観たことがあるだけだ。まだ観てはいないけれど地味な佳作とおぼしき映画を幕開けとするのは、自分にふさわしい気がする。
 夜6時。スーパーで買っておいた質素な弁当でそそくさと夕食を済ませ、風呂に入って冷えた体を暖める。
 日が暮れた。
『めがね』を見始めた。傍らにキャラメルコーンの袋を置いた。ときどきスナック菓子でもつままないと退屈をやり過ごせないのではないか、と思ったからだ。
 どうして与論島までひとりで旅してきたのか(最後まで)わからない中年女性が、曖昧な地図一枚を頼りに民宿に向かっている。途中で道がないせいなのか、最後は砂浜の上で旅行ケースを引き摺りながらたどり着いた。
 どうも自分が描いていたイメージと違うらしい。中年女性(小林聡美)は都会から離れ、人間関係や仕事からも離れたがっているらしい。が、宿の主人と謎の女(もたいまさこ)が妙に人なつっこく、この人たちと一緒に食事をとるのは耐え難い、と最初から拒否反応を持ってしまう。
 どこか観光に行きたいのですが……、と宿の主人に質問をすると、「観光? 観光だって? ここに観光地なんてまったくありませんよ」と応える。失望しつつも中年女性は気力を振り絞って次の質問をする。
「じゃあこの島で何が出来るんでしょうか?」
 宿の主人はこう言った。
「日がな、たそがれるくらいかな」
 たそがれる、という答えに女はたじろぐ。
 女はすでにたそがれている。それを自分では理解出来ていないことが視聴者の目に明らかになっていく。
 島にはなにもない。女は海辺で毎日毎日、毛糸の編み物をやった。
 宿に居着いているもたいまさこが「編み物は空気も一緒に編んでいるんですよね」というような呼びかけをしてみたり、十二分にたそがれている島の女教師・市川実日子のあまりに惚けた生き様がだらだらと展開していくのだが、ストーリーらしきものはないと言えばない。気の利いた台詞や場面があることにはあるのだが、映画というより絵画集のような単調さが最初から最後まで貫いていた。
 まさに私が観たかった映画だ。ネットもなければ美味しい食い物もない。退屈な空間で観る退屈な映画。映画が30分くらい過ぎた頃、部屋に掛けていた時計の電池を抜いた。100均で買った安時計で、時を刻む音が耳に触ったからだ。こんなうるさいものは、もう要らない。台詞も動きもない海辺のシーンが多々出て来る。波の音だけに集中したかった。海の色を静かな目で見たかった。
 たそがれることがいいことだとは思わない。
 しかし、まるで悪霊に取り憑かれて動き回る躁病患者のような滑稽さよりはましだ、自分の在り方にまともな自覚がある分だけ、だと感じた。
 山中湖から今日、鎌倉に戻ってきた。
 日常と非日常の段差。小さいほうがいいのか、大きいほうがいいのか、そんなことを漠然と考えながら、クルマを運転した。正答なんてあるわけがない。
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