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2015年04月03日17:51

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連翹忌、それから

 医師の診断では躁鬱病じゃないらしいのだが、気持ちの張りが強い日と弱い日がある。この波は交互にやって来るのではなく、生きることに倦んでテレビのバラエティなどをちらっと目にしたらそれだけで厭世観が爆発してしまう状態が3日くらい続いたかと思うと、日々つつがなく送っていること自体に感謝したくなるほど愉快な気分がずっと続くこともある。昨日は、どちらかと言うとウツな気分だった。簡単に言うと、なんか外に出たくないのだ。が、連翹忌があって日比谷の松本楼へ。
 早めに行って、100袋ほど用意されていた紙袋に本のちらしを入れる。そうこうしているうちに少しは知った顔が現れ、挨拶以上懇親以下の立ち話をしていると会が始まった。
 女優の渡辺えりさんがご自身の「還暦コンサート」パンフレットを着席している各人に一所懸命配っていらっしゃって、私ももらった。その際、「偶然なのですが」と前振りをして、この1月に渡辺さんのHPを見たことを話した。沖縄旅行の際、辺野古を訪ねたこともあって、しばしば辺野古関連の記事を探しては読んでいる。それで渡辺さんのブログに行き着いた(http://ameblo.jp/eri-watanabe/entry-11979020668.html)。ご多忙な渡辺さんが辺野古を訪ねられるというのは意外でした、と言うと、彼女はやや不服そうな顔で「そうかしら」と答えた。

<基地が予定されている穏やかで美しい海。
一度作られてしまったら、もう永遠に動かせなくなってしまう。
地元の方が言っておられました。>
 
 渡辺さんが訪ねた場所と私が訪ねた場所は、すんぶん違わず同じ地点だった。
 不思議な縁だな、などと思いながら、その場で『森の詩人』を献本した。読んでくれたら嬉しいな。
 が、そこそこ調子がよかったのはここまでで、あとは席でジュースを飲みながら壇上のスピーチもあまり聞かず袋の中に入っていた「高村光太郎研究」を読んでいたら、突然、自分の名前が呼ばれた。
 今回はそんなこともないだろう、と思いつつ、しかし一応光太郎の詩集や『岩手の四季』などを事前に読んでいて、万が一、あてられたら厳しい自然のなかで一人研鑽を積む暮らしの素晴らしさを語ろう……なんて思っていたのだが、いきなり指名されて、まったくそのことを喋る余裕を失い、さんざんに下手くそなスピーチを2分くらいして降りた。ああ、なんてことだ。穴があったら入りたい、死ねこの馬鹿、と自分を責めたが、どう反省したってあとの祭りだ。『流星ワゴン』に乗って5分前の現実に戻りたい……。
 そんなこともあって、本は売れず。
 ああ、よりによってこんな日にウツ状態、というのはなんとも慘めな気分だ。
 会場を出るのが最後だったので、連翹の花枝をひとかたまりもらった。容易に枝挿しで増えるというので、せめてこの枝で来年、連翹を咲かせたい。うちに戻ってすぐに水揚げをし、花瓶に挿した。絶対に負けられない戦いがここにはある、というテレ朝のサッカー中継で使われるコピーが思い浮かんだが、時すでに遅し(笑)。

 4月1日から朝刊(朝日)の連載小説2本が始まった。
 漱石の『それから』と沢木耕太郎の『春に散る』だ。

<4月1日から漱石「それから」を再連載します。「それから」は106年前の1909(明治42)年6月から10月まで朝日新聞に連載されました。職に就かず、親の援助で裕福に暮らす主人公・長井代助が、親友の妻への愛に苦しむ姿が描かれます。前後に執筆された「三四郎」「門」と合わせ、漱石の「前期三部作」といわれる作品です。当時と同じ全110回を掲載。当時の世相を伝えるコラムなども随時掲載し、作品の魅力を多角的に伝えます。連載を切り抜いて貼ることができる「それからノート」を3月中旬以降、販売予定です。>(2015年3月3日)

『それから』は未読なので、沢木耕太郎はファンなので、久々に新聞連載小説を読もうと思った。朝、いちばん始めに目にする文字が漱石、次が沢木だ、と想うと、希望が湧く(ような気がするだけ(笑 )。
 今朝で3日目になった。
 今日、注文していた「それからノート」も配達員から受け取った。これが好みのデザインで、連載小説の切り抜きを貼るのが一瞬、もったいなくなった。
 日々のルーティン・ワークが多いと、生活の質が締まるので、これから半年1年、新聞小説から一日がを始めよう。あ、その前に「まれ」も見るんだけど。
 昼から図書館へ行った。
 とうとう戻って来た、『文藝2014年冬号』。この号はずっと借りたかった。

=====朝日2014年10月28日=====
■片山杜秀(評論家)

 セックスと説教。文藝賞を受けた李龍徳(イヨンドク)の「死にたくなったら電話して」の中身はこの二語に尽きる。同志社大学を目指して三浪中の青年。彼が大阪の十三(じゅうそう)で京都大学中退のキャバ嬢に出会う。
 彼女は彼の「宿命の女」。破滅に誘う女。虚無性と否定性の塊。この世を見限っている。よほどの挫折を経験しているらしい。あの世への道行きの連れ合いを探している風情。そこに浪人生がはまる。
 キャバ嬢は浪人生から生きる力を奪ってゆく。時間をかけて周到に。肉体で虜(とりこ)にする。それから説教。彼女の南森町の部屋は書物で溢(あふ)れている。細井和喜蔵の『女工哀史』など。古今東西の虐げられた女性の絶望をぶつけて、浪人生の知識レベルをノック・アウト。青年は知性的な彼女のネガティヴな世界観の奴隷になる。「死にたくなっ」てくる。
 彼女が青年の電子メールを代書して彼の周囲の人間関係を最終的に破壊するくだりの凄(すご)み。物もろくろく食べずにやせ衰えた彼女とのセックスに、彼が陶酔しきる場面の倒錯美。これぞ死の衝動と性の結合。どこまでも生の豊饒(ほうじょう)の逆を行く。三遊亭円朝の『牡丹灯籠』で、男を訪れる女の幽霊を思い出した。
 かくして二人は彼女の部屋で枯れてゆく。現代の関西を舞台にした、見事なまでに古典的な破滅小説である。
 すばる文学賞を受けた足立陽の「島と人類」も、セックスと説教の小説だろう。ただしこちらはすこぶる陽性。筒井康隆調のスラップスティックだ。大学教授の人類学者とその妻の霊長類学者。高学歴夫婦が、裸体生活と性の解放を唱える。過激に実践する。社会とぶつかる。そして、大島渚監督の「マックス、モン・アムール」もびっくりの展開に。あの映画はチンパンジーと外交官夫人の恋愛物語だったけれど。「島と人類」はもっと強烈。しかも、ヒト科の生き物同士の愛の新世界は、尖閣諸島とおぼしき島。溜(た)めに溜めた鬱屈(うっくつ)が一挙にはじけた。そんな破壊的小説だ。
 李と並んで文藝賞を受けた金子薫の「アルタッドに捧ぐ」。主人公は大学院入試に失敗して浪人中の青年。小説家への夢も果たせない。恋人とも別れた。将来が不安。「ねえ、なぜ僕は生きていかなければいけないの?」。答えが出ない。死にたくなる。
 だが金子は、李の逃避路線や足立の破壊路線とは一線を画する。主人公は、アルタッドと名づけられたトカゲを飼う。その超然とした姿に接しているうち、転機が訪れる。ある日、主人公はトカゲを元恋人と一緒に写生する。点描画にする。二人は一心不乱に膨大に点を打つ。打ち続ける。そのとき主人公は悟る。なぜ生きるのか。その「問いの中に己が身を没入させ、問いと共に燃え上が」り続けるのが、本当に生きることだと。
 未来は誰にとっても不確定。将来が不安なのは当たり前。なぜ生きる? トカゲを描くために点を打つことにどんな意味がある? 答えのあろう筈(はず)もない。でも問い続ける。問うことで日々燃焼する。そこに生の充実がある。その積み重ねが人生だ。
 小説の結句は、トカゲを描き終わった「二人は笑った」。素敵な終わり方。今を生きるしかない。全力で。笑いを忘れず。この作品には倫理的な気高さがある。
 それにしても、高学歴者や高学歴を目指して挫折し煩悶(はんもん)する者の出てくる小説が、新人の作に目立つ。京大中退者、学者、大学院浪人生。書き手の世代的経験と関係がありそうだ。1990年代には知価社会という言葉がはやった。これからは物より知識が富を創造する。高学歴者が多ければ多いほど国は豊かになる。大学院も拡充された。しかし、この国策には問題があった。高学歴者の働き口が不十分。博士になっても正規雇用されないポスドクと呼ばれる人々の存在が、社会問題化して久しい。もちろん修士などにも浪々の人は多い。小説家予備軍もそこに大勢いるだろう。とにかく高学歴者が鬱屈している。破壊に走るか。逃避するか。そこから回心するか。言わば「ポスドク文学の時代」が来ているのかもしれない。
 佐々木中の「神奈備」もセックスと説教。さらに一種の「ポスドク文学」でもある。表題は神道用語で「かみさまのいらっしゃる場所」を意味する。東京の男性が関西の女性と出会う。「大阪の大学の日本史学科の博士課程に在籍」するクラブのDJでキャバ嬢。彼女が彼に神道を教えまくる。DJ調で饒舌(じょうぜつ)に。言葉の海に彼を沈める。さらにセックス。その果てに神道思想のひとつの核心が浮かび上がる。
 小説の結びは古代の宮廷歌謡「安名尊」の歌詞。「あな尊(たふと) 今日(けふ)の尊さや」。今を生きるしかない。そのことのみが尊い。そんな意味だろう。「あしたのことは、わからないのだから」。不条理な災害に満ちあふれた日本列島のはぐくんだ思想と言ってもよい。
 今日を生きよう。たとえそれがどんな今日であろうとも。
=====こんな記事だ=====

 興味本位で読むにはいい小説な気がしたのだが、私のような変人は存外多いらしく、貸し出し期間が始まって半年、ずっと誰かが借りていた。この「文藝」は他にも読みたい寄稿が多いので、楽しみだ。
 高校時代の恩師は『文学界』を愛読している。先生がツイッターでときどき自分が読んだ小説や散歩で見た花々をつぶやいているので、必ず月1、手に取るよう努めている。今号は特集が「図書館に異議あり!」だったので、せめて特集は全部読んでみようと、雑誌コーナーの机で読み始めた。特集のトップは尊敬する与那原恵の「武雄市図書館ルポ」だ。TSUTAYAに運営委託した図書館が全国的に注目を浴びているが、それは公共図書館にとっていい傾向なのかどうか、というテーマだ。彼女は武雄図書館へ2日行き、さらにいろんなデータを集めて、これは見せかけの繁栄でしかない、と断じていた。図書館で本を借りてTポイントがつく、なんてシステムは訪ねるまでもなく異様でしかない。与那原さんのルポを読んでいて、この人は図書館の良さを十二分に自分の畑として、生きていらっしゃるのだということがよくわかった。
 林真理子も寄稿していた。このひとはTSUTAYA的図書館が大好きらしい。さすが文壇の美女でありオシャレな作家だ。林のリニア賛成論を読んだときにも感じたが、これほどいじましい感性が国民に受け容れられるというのは日本文化の衰退、というより、転落であり堕落であろう。あまりに無邪気な林のご様子を見て、いまの日本がどうしても好きになれず、自分のウツはもう永遠に治らないことを確信したのであった。
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