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2015年02月20日19:50

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胡桃を喰う



スーパーの食料品売り場の隅に胡桃がたくさん積み上げられていたので小さなショベルで2回ほど掬い上げそれを紙袋に放り込んだ。 一年の中で栗の出る時期は短いけれどどういうわけか胡桃は比較的長く出回っているから時々気が向けばこのようにして買う。 特にこれがスーパーで目につくのはクリスマス前ごろからだろう。 今年になってからポテトチップスや他のつまみを止めたので口寂しくなりそういうときはバナナやリンゴなどの果物かこういうどちらかというと加工以前のものを摂るようにしていることもあってだからこんな胡桃に手が出るようにもなったという経緯がある。 いちいち殻を割り手間をかけて少量の実を口にもってくる効率の悪さがダイエットの効果にもなっているものと見做すとこれも年寄りの身体速度とも相まって少々のノスタルジアも湧いてくるというものだ。

胡桃のことを書こうと思ったのは胡桃割りで殻を挟んで割る作業をしていてほんとに久しぶりに中身を砕かずに実を取り出せたのでそれを記念写真に撮っておこうとしたことによる。 脳のしわのように見える実で構成されていて脳と同じく左右に分かれているようでそれぞれが二つに分かれているので大まかな左右対称が全体には4つに分かれている。 比較的小型のこれはだから中央の境を中に四方に耳たぶかイボが尖ったような形をしていて脳といった丸い形にはまだなっていないように見える。 

大阪南部の農家に育ち小さい時から一年に何回か餅を搗くのを習慣にしていた。 そしてそのとき柔らかい餅を喰うのにそこには大抵小豆の濾し餡や醤油を落とした大根おろしと共に「くるみ餡」というものがあってそれは大豆を煮てそれを潰し砂糖を加えたもので胡桃の味とは共通するものがないようで妙だと思っていたのだがこれを書くのにウィキペディアの胡桃の項をみて初めて「くるみ」が胡桃ではなく包む、「くるむ」のくるみだと書かれているのに接してそんなものかと思った。 それならその言葉は大阪南部にはいつのころか外から入ってきたものなのだろう。 大阪南部では包むは包むで「くるむ」という言葉は使わないからだ。 それに胡桃にしても山にも林にも胡桃の木はほとんどなかったのではないか。 栗の実は普通に山でも林でも見たし栗林もあったけれど胡桃の木を見た記憶はない。 大体胡桃があったとしてそれを喰うのに子供たちがどこかから胡桃割りを持ち出してきて胡桃を割ったという記憶もないし、胡桃だけがあって胡桃割がなければ猿が学習するように石かレンガを叩きつけて割るようにでもしなければ子供には割れるものではないのだからもしあったならそういう記憶もあるはずなのにそれがなかった、ということは胡桃が普通には間近になかったという証になるのだろう。 友人の家族がどこかに行った時の土産で胡桃をニスで固めて繋いであって手の中でグリグリ転がすと中風のまじないになる、と言ってまだ中風からほど遠い子供がグリグリしていたのをかすかに思い出す。 そんなことを思いながらこの胡桃の一塊を口に放り込む。 



ウィキペディア; クルミの項;

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9F
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