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2015年02月17日07:40

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こんなところに、、、、



2015年 2月 15日 (日)

昨日15kmほど歩いてその終わりに運河の向うに我が家が見えるあたりまで来た。 そこには9階建ての養老院があり天気のいい日には年寄りたちが日向ぼっこを楽しんでいるのが家の窓から小さく見える。 そこの草地を回り込んで運河にかかる橋を渡れば300mほどで我が家に着く。  毎日この建物を見て暮らしているけれどここを通ったのはこの25年ほどで2度ほどだ。 その橋に来れば3時間ほどまえに始めた15kmほどのループが結びつきもう一周するならそちらの方向には公園があってそちら側は普段に何回も通るところだ。 けれどこちらの方向に来るのは稀だ。

運河を前に見る小さな草地に銅像が一つあった。 遠くから見ると鳥の姿で、長い尾の形からすると燕のように見えるのだが近づくにつれて翼の形が鳥のものではなく人間の男の腕のように見える。 特に印象的だったのは人間の背中上部、肩甲骨のあたりの筋肉の形がそのままにあってその部分からはファンタジーなり鳥を思わせるものがちょっと遠のき男の背であることに印象付けられる。

何とも奇妙な形であることか。 これは人の形をした鳥ではなくて鳥の形をした人間である。 自分は鳥が近くにいれば暫し眺めることがある。 バードウオッチャーとまではいかないけれど怠惰なウォッチャーだ。 普段見る鳥はその翼が広がって羽ばたき、枝から枝へ、若しくは空を横切りのんびり上空を飛び去るような鳥たちなのだが目の前にあるのは鳥ではない。 その証拠にこれでは飛べない。 寧ろ両手を後ろ手に括られてはいないもののそんな様子であり不自由さとこのような形になったことを恨んでいるようなふしも感じないでもない。 人間の上体が鳥に現れたのだしおまけにその筋肉のつき方が急に重量感を与え1mほどの小型のオブジェであるにもかかわらずその筋肉質がまるで等身大かのようにも見えるのだ。 

テレビの自然番組でハチドリの生態をみた。 生命を維持するのに毎日その体重の30倍の重さのネクターを花から花へと吸いに回らねばならない、というのを聴いて小さな軽い鳥を空中で支えるエネルギー源が体重の30倍の蜜か、と驚いたもののその量にはさして驚かなかった。 例えば鳥一般にそういう食餌が必要だとするとこの鳥か人間かわからぬ生き物の体重の30倍には少々うろたえ気味にならざるをえない。 その時には鳥ではなく人間の食餌を頭に浮かびあげるからで、考えてみてもこの生き物には羽根が、翼がないから飛ぶエネルギーなど必要ではなくせいぜい草地をノソノソ動き回るぐらいのエネルギーがあればいいのだろうから体重の30分の1ぐらいで十分なのではないか。

それにしても養老院の年寄りたちが来るであろう場所にこのようなオブジェを置くというのはどういうことなのだろうか。 自分がここに住んでいたとしてここに毎日来てこれを眺めるとすると気分が滅入るだろうと思う。  ここからは何の希望も鳥の長所も見い出せずただ不自由さだけが目につくようで自分なら耐えられないだろうと思う。 鳥というのは大空を飛べるから救いがあるのであってダチョウや七面鳥など人間と同じように地面に張り付いて生きる鳥にはあまり親和力も湧かない。 始祖鳥の化石というのがあって鳥と恐竜の枝分かれの部分にあった生き物だと説明されていたような気がする。 目の前にあるのは始祖鳥ではなくて人から鳥に、若しくは鳥から人の過渡期の生物なのだろうがなんとも不自由なものだと嘆息する。 飛びたいけれど飛べず人のように走りたいけれど走れずというようなフラストレーションにさいなまれるのだろうだし、一方、このようにこの世に生を受けたとするならばなまじ人のことも知らず鳥のことも知らずそれを当然のこととして受け止めこのように金属の椅子の縁にずっと停まって一日中運河を眺めながら鬱陶しい空の下で青銅のオブジェとしていられるかもしれない。 但しそれもこの生き物には鳥も人も見えていないと考えての話だ。
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