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2015年02月04日07:20

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ジムの帰り月を見ていて思い出したこと






毎週月曜の夜ジムに通って1時間ほぼ同年齢の爺さん連中とインストラクターの指示に従って汗を流す。 14,5人のグループなのだが体を動かしてよかったか悪かったか済んだあとあちこちを撫でながら5分ほど息を整えてから階段を下りてきてそのまま更衣室からシャワーへ向かうもの、一旦カンティーンに腰を落ち着けて何かを飲むものなどいろいろいるけれど一様に額に汗してその後それぞれ夜の通りに消えていく。 自分はシャワーは家で浴びようと着替えをしてマフラーを首に巻き毛糸の帽子を被って零度近くの暗い通りに出るのだが11月ごろまでは寒くないからショートパンツにTシャツとジムの格好にジャンパーを着て5分程自転車を漕ぐ。 けれど今、大寒の時期には流石に防寒に心掛けなければ風邪をひく恐れがあるからまだ生暖かい体を厚い衣服で覆って外に出るわけだ。

今までいろいろに体を動かして汗もかき、その熱がまだ厚いジャンパーと毛糸の帽子の下に残っていて自転車を漕ぎながらいつごろ又ショートパンツのまま帰れるのだろうかと考えながらふと雲に隠れたほぼ満月を眺めていると子供のころ銭湯帰りの火照った体が外気の寒さと混ざって気持ちのいい感じがしたことを思い出した。 ただ違うのは銭湯帰りには石鹸の匂いがしていたことで、今体を密閉した厚い防寒具の隙間からは汗くさい熱気も漏れず昔の記憶をよみがえらせたのは体の熱と外気の寒さのブレンドそのもののようだ。

生まれ育ってずっと家には風呂があったから町の銭湯に行くようなことは自分にとっては特別な経験だった。 特に思い出すのは小学校の中学年のころだったろうか、祖母の一番下の弟、母にとっては叔父にあたる人の八百屋に年末の忙しい時期に一週間ほど母と一緒に手伝いに行ったことだ。 時には祖父も来ていた。 大阪阿倍野の商店街にあり阪和線南田辺の駅で降りてそこから歩いた覚えがある。 祖母のことは今回の帰省のおり祖母の生家のそばを通ったこととそのうちのことについて少し書いた。 長女の祖母は歳下の長男に慕われていたようだが末っ子の弟であるこの大叔父についてどう思っていたのだろうか。 この人は戦時中上海の日本大使館か領事館に勤務しており自分のベンツに乗っていたと聞いたのが数少ない大叔父についての情報で、もともと田舎の貧しくはない農家の一番下だから早くから家を継ぐことは期待されていなく、学校をでてからは徴兵され上海で終戦を迎え大阪に戻ってきたものの田舎には帰らず大阪市内で八百屋を始めたようだ。 泉南の農家の出であり農家の情報にも敏く家の古くからの関係を伝ってあたり一帯の農産物を畑ごと買い、あたり一帯に畑に点在する玉ねぎ小屋につるしておいたり家族が経営する低温倉庫に保管しておき市場の値を見ながら売り買いするのが主な仕事で八百屋は体を動かし実際に巷の野菜の動向をみるための付け足しの仕事とみていたような気配がある。 

それでもその商店街の歳末の時期には通りが身動きもとれないくらい人で埋まり威勢のいい売り声があたりに響いて間口の大きい八百屋には売り手が7,8人忙しく働き、代金はゴムでつるしたかごに入れた小銭や紙幣で商いをし、1時間に一回以上はそこに溢れるほど一杯になった金を大叔母が集めて回るというような活気一杯の店だった。 自分は見様見真似で売り子となり声をあげて客を呼び売った野菜を新聞紙に包み引き換えに代金をもらいゴムでつるしたかごから釣銭を渡すというようなことを繰り返した。 男たちは売れて空になったスペースを次々にどこからか運ばれてきた野菜で埋めたり大きな荷物の運搬に従事しては食事や何かで抜けた売り子の場所を引き継ぎ太い声をあげていた。 50年代の終わりであるから店の奥には電話はあるけれど大叔父の元には頻繁に電報が届いていた。 それは日本各地の生鮮卸市場の値段で、値段が合えばすぐに売ったり買ったりを電話で指図して野菜を取引しているのだった。 先物取引にも手を染めていたのではないかと後年になって母から聞いた。 大叔父の印象は当時の子供にはただの薄汚れたシャツを着た言葉少なでいつも少し怒ったような表情の気難しそうな男でしかなかったのだけれど後年いろいろなことを思い出しつつ辻褄を合わせてみると大叔父の肖像が少しは浮かび上がってくる。 大叔父は中国から引き揚げてきたとき潤沢な金を持っていたそうで、それが青物を取引する資金になったようだが、地の利と情報収集に長け驚くほど商売で儲けたようだが日ごろは貧相な薄汚れた格好で商売を続けていた。 上海で自分のベンツを持っていた男はスーツを着てネクタイを締めていたことが普通に想像でき、そこで知り合った竹下夢二の絵に出てくるようなひ弱そうな大叔母との間に大叔母に似たこれもひ弱そうな中国で生まれたKちゃんがいて、Kちゃんは店に出ずずっと勉強をしていた。 大叔父も彼の兄と同じく歌舞伎役者のような美形なのだがそれもやつれたように見え、同じく服装に斟酌しないまま忙しく立ち働く大叔母と同じく薄汚れような服のままで店にでていた。 kちゃんは下には降りてこなかった。 

Kちゃんは自分より5つ6つ年上だったろうか。 後年国立大学の薬学部に入り大阪の大きな製薬会社に勤務したものの80年代の初め大叔父が癌で逝去したあと製薬会社を辞めて父親の後を継いだ。 大叔父はKちゃんが大学を卒業して製薬会社に就職したとき大学に研究施設の建物を寄付し、生家の近くに豪邸を建ててそこで申し訳程度短い間住みその後亡くなった。 母親の後ろ盾があったとはいえ事業は大叔父が一人で采配をふるっていたからサラリーマンだったKちゃんにはとても商売などできず、性格の優しさから手形の保証人となりそれがいくつか焦げ付き80年代後半には店も売り、資金も底をつき豪邸も借金のかたとなってそこを老母とともに貧相な長屋に移り住んだ末に中国から引き揚げてきて働き続けた大叔母はそこで亡くなった。 Kちゃんは今まだ生きていればそろそろ80の声が聞こえるころではないか。

銭湯のことだった。 歳末一日中忙しく青物を売り、店の後ろにある小さな茶の間で近所の同じく商店街のてんぷら屋で買ってきたカツやらかきあげのてんぷらでそそくさと食事をしたあと出かけた銭湯だった。 10歳、11歳ではだいぶ体も大きくなりそろそろ母親と一緒に女湯に入るのが憚られる気配を感じるのだがなにせ銭湯の経験がないから母親に頼るしかないようなことだった。 それでも初めて経験する銭湯は新鮮であり湯上りのあと小さな庭を眺めながら冷たいコーヒー牛乳や仄かに甘酸っぱいフルーツ牛乳を飲むのが楽しみだった。 そうして木の札を入れて下駄箱からとりだしたスリッパをペタペタさせて表の通りを歩くとき、石鹸の香りとともに先ほどの熱と表の冬の寒さの混ざった感触の心地よさは深く心に残るものだった。 それは直に店の上階に何人も雑魚寝同様に敷かれた冷たい布団に潜り込むまで続く暖かさでありそれがあるから安らかに翌日まで眠ることができたのだ。 

妙なことに湯にも浸かっていないし石鹸の香りもないのに遠い昔の銭湯の帰りのホカホカした暖かさを思い出したのは偶然に体の暖かさと外気の冷たさがシンクロしたからで、それならこういう状況は何度もあるのだが特にこのような思い出が蘇るというのは何故だったのだろうか。 これまで祖母の生家のことを書いてきたことがどこか底にあるからなのかもしれない。
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