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2015年01月11日21:41

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庭のお片付けと、心の荒廃に対する恐怖心

 1月11日、1の3並び。朝起きて、掛け時計を見て気が付いた。
 午前9時前。朝メシをしっかり食ったラズリとコーヒーしか飲んでいないオレとで散歩。15分ほどで切り上げて戻った。10時前に肉屋さんへ行って日曜限定販売のすじ肉を買う予定なので、その時にまたラズリを歩かせよう。
 一昨日、虐待の疑いがある犬の家に塀を乗り越えて侵入、その時に見た犬のうつろな目と庭というか敷地全体に漂う荒廃感がいまだ忘れられず、恐怖感にも似たいやな気分を今日もときどき思い出している。
 午前9時50分にラズリと肉屋まで小走りで行って、すじ肉1キロ弱をゲット。
 帰宅後、去年からまだ庭の隅に置きっぱなしだったトウガラシ栽培用ポリバケツを片付けるべく、土を裏山に捨てに行く。で、新たに新鮮な土を同量すくって来て、リサイクルセンターの堆肥と混ぜ合わせ、その上に鶏糞をばらまいた。1カ月半くらい、牛乳パックを洗った水とか米ぬかとかをその都度振りかけて、少しでもいい土になればと願う。3月中旬あたりで土の中にミミズの姿が視認できれば成功だ。
 4月になればゴミの有料化が始まる。これを機会にゴミを減量化して、野菜など生鮮食料品の屑もなるたけ堆肥に出来ればと誓う。エコ以前の次元で、やたらめったら日々エネルギーを消費する自分という存在が、ときどきうとましかったり、偽善っぽい気がする。こういう仏教に通ずる抑制力は年齢のせいなのだろうか。
 庭をきれいにしたら、すっきり気分になった。よほど一昨日の経験が堪えたのだろう。世間的には申し分のない家族。100坪の敷地に建つ豪邸、メルセデスのステーション・ワゴン、あり得ないような高学歴でしかも人格者……。外面と内側の事情にぎくしゃくとした齟齬がある、というのはどこの家でもどんな人間でもあるだろう。そんなことはわかっているのに、いまなお釈然としない。
 昨夜遅く、3度も聴いたスパルタ・ローカルズの『水のようだ』を今日もまた、パソコンを起ち上げて最初に聞いてしまった、歌詞を見ながら。
https://www.youtube.com/watch?v=seoADdtvSwU
 こんなに強烈なラブソングもそうそうはないだろう(当社比)。
 
今日も苦しそうな 君の眼には何が見える?
ずっと何もなくて 夜を喰い荒らしてた君は 水のようだ

ただ固まって 宙を眺めて何が見えた?
百あるうちの 一つだけでも僕に聞かせて

君から 涙が こぼれ落ちてくるまで
僕は唄うだろう 声が枯れるまで ぐるぐる廻って
君に届くまで 叫んで

空から 明日が 降りて来なくなるまで
僕は君のもんだ 失うものなんか 最初から無かった
今も未来も まるで水のようだ

 午後2時、MacBookで高倉健主演の映画「完全版・八甲田山」を見始めた。小説も読んだし、映画もテレビで見ているのだが、ストーリーや構成はともかく、初めて見るのと変わらないくらい、何も覚えていない。
 1時間が過ぎる頃まで、亡くなった健さんには悪いが、演技も滑舌もあまりよくないなと思っていたのに、そんなことを思うこと自体が失礼だ→役者の極限がここに在る、と考えが180度変わった。結局、17時20分まで見続けてロールエンド。途中から、ただただ画面に釘付け状態だった。
 終わって脱力。が、強風吹きすさぶなか、いやいやラズリのためにまた散歩。
 自分の裡で、イスラムの過激派やこのたびのテロについて、少しずつ考え方が変わって来始めた。事件が発生した当初、彼らの行為はもちろんのこと思想やイスラム教まで許容度はゼロだった。怒りと憎しみだけ。が、自分はイノセント(無知)なだけで、このたびのテロは千年に及ばんとする歴史的帰結のひとつであって、二進法のごとくどっちがよくてどっちが悪いと単純に決めつけるべき問題から最も遠いのではないか、と思い始めている。……オレ、ひょっとして、あっち側かも。あっち側というのはイコール、イスラム過激派ではないのだが、欧米の一見まともな良識と違う立場かもしれない。
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