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2014年12月30日22:46

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Historia【幕末のアネクドート(4)】

【「そうせい候」は惰弱で暗愚か】


 幕末史で登場する「そうせい候」とは長州藩の藩主・毛利慶親のことを言う。彼は政治的決断などは殆ど「そうせい」(良きに図らえ)と答えていた為、「そうせい候」と揶揄された。まさに究極のイエスマンという訳だ。鍋島直正(カンソー)や島津久光と比較して、1ランクも2ランクも劣る人間と言われる。しかし実像はそんなに愚かな人物だったのだろうか?

 1863(文久3)年、一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)が朝廷に攘夷(外国船、外国人を攻撃すること)を朝廷に確約したが、その決行日を5月10日とした。勿論そんな企てに乗る藩がいるはずもない。

 しかし、長州藩だけがその企てに乗った。あろうことか、青銅の大砲で関門海峡を通過する外国船に無差別発砲を始めた。これが馬鹿正直にも5月10日だった。青銅の大砲では玩具に過ぎない。現にこの無差別攻撃で長州軍は一隻も外国船を撃沈出来なかったのである。最初に狙われたのはアメリカのペンブローク号だったが、これは丸腰に近い商船である。しかし弾はかすりもしなかった。慌てて逃げ出したのを久坂玄瑞ら、光明寺党(長州で最も過激な攘夷派)が

 「大勝利なり。夷狄(いてき、野蛮人の意)どもは我が藩の武威に恐れを為して逃げ去った」

 と自画自賛した。

 これに対して異を唱えたのは長崎から来ていた砲術家の中島名左衛門だった。彼は自前でアームストロング砲を開発する能力を有する佐賀藩でノウハウを学んでいた。その「軍事専門家」から見たら、時代遅れの長州の兵器でやったことは、まるで大人に向かって石をぶつけて、当たらずとも、相手が逃げ帰ったのを面白がるようなものであり、そのようなことは愚かなことだと軍議で唱えた。

 しかし攘夷浪人と思しき連中に彼は家に帰って行水した直後をメッタ斬りにされて殺されてしまう。卑劣極まりない殺害方法である。

 或る意味、第二次大戦前夜の日本と長州は似ていると思うのは自分だけだろうか。あの当時、正論を述べれば排斥される可能性は誰しもあった。現に山本五十六ですら、

 「陸軍が考えているほど、アメリカは甘くはありません。戦争は避けるべきだと思います。しかし1年半くらいであれば、大いに暴れてみせましょう。」

 と答えた。その彼が開戦後、意思決定の無い連合艦隊の提督に配属されたのは周知の通りだ。

 この時、高杉晋作は何をしていたのか?

 彼は正論を言えば抹殺される雰囲気を察知し、萩で独り酒をあおっていた。彼は形だけとはいえ、出家していた。

 その名は「東行」(とうこう)。

 まさに何れ倒幕するぞ、という予告を感じさせるものだ。勿論彼の政治思想を示す史料は一切ない。しかし行動を見れば自ずと無言のうちに、雄弁に物語っているのは確かだ。

 高杉が決起しなかったことからも分かるように、長州は暴走していた。フランス軍を中心とする列強の軍隊に完膚なきまでに叩きのめされたのである。

 この時、長州は見逃せない動きをしている。

 無差別攻撃を開始した5月10日からわずか2日後、藩主・慶親の内命を受け、5人の若者がイギリス留学に向けて出発していた。

 伊藤俊輔(博文)、志道聞多(井上馨)、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉(井上勝)の5人。

 いわゆる「長州ファイブ」だ。

 5人はいずれも高杉晋作の弟子であり、英語達者であるだけでなく、吉田松陰を神のごとく崇めている点では共通している。

 この敗戦で慶親も目覚める。

 萩で出家していた高杉を呼び寄せ、6月6日、「奇兵隊」創設の全権を任せる。

 「長州ファイブ」の留学も、高杉晋作の抜擢も、藩主・慶親の許可無しには絶対に出来ないことである。

 果たしてこのイエスマンは愚か者だったのだろうか?

 自分はそうは思わない。

 ただ、発揮するには、空気が変わることが先決だった。機が熟すまで待っていたというのが本当のところではないだろうか?

 最後までお読み頂き、ありがとうございました。
 
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