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2014年12月28日21:40

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Historia【幕末のアネクドート(3)】

 【テロリストの巣窟だった京都と「千人同心」】

 ■「軍事政権」なのに、テロリストを防げなくなった幕府

 テロリストというと、意外かもしれない。幕末の大河ドラマ、その他の時代劇でもそんなイメージは微塵も無い。しかしこれは事実である。実際、攘夷浪人によって奉行所の役人が殺されていた。しかもあろうことか、奉行所の役人は首を河原に晒されることが頻繁だった。

 最大の原因は、井伊直弼の安政の大獄で、多くの志士が殺されたこと、そもそも江戸幕府とは軍事政権である。その軍事政権の実質的な長でもあった、直弼が桜田門外の変で殺されたことである。これで軍事政権の権威は失墜した。しかし、それ以前から、既にそうならざるを得ない背景はあったと思う。

 江戸幕府を開府した徳川家康は、豊臣秀吉が朝鮮出兵で失敗したのを見て、武士たちの雇用拡大は無理があることを悟った。そこで「職種の転換による雇用確保」を考えたのである。本来武士である彼らを事務官僚に転換させたのである。喩えて言うならば、京都の奉行衆達は刀こそ差しているものの、事務官僚に過ぎなくなった。それゆえ剣術達者な攘夷浪人の前に手も足も出なかったのである。今で言えば自衛隊員がお巡りさんになったようなものだ。

 ■例外的だった「三多摩」

 こうして職業軍人たちは次第に事務官僚になっていくが、例外もあった。それは東京の西部、八王子を周辺とした地域である。徳川家康は武田滅亡後、かなりの数の遺臣を吸収している。桜田門外の変で斃れた井伊家の兵士の先祖の多くはこの時家康に仕えた人たちだ。ただしそれでも吸収しきれなかった人たちは、家康が東海地方から関東に国替え(実質は左遷)させられた際、武蔵三多摩に土地を与えられた。これが「八王子千人同心」と呼ばれる人たちである。そして千人同心の設置を通して、歴代将軍はこの農民に、

 「お前たちは将軍家をお守りする特別な役割がある」

 という意識を植え付けた。あの近藤勇などもその口だ。兵農分離が為されたのは江戸時代になってからで、それ以前、意外かもしれないが、農民は皆武装していた。「農民兵」という言葉もあるほどである。考えてみれば、警察も無く、領主も搾取するしか能の無い人間がいつ後継ぎになるか分からない状態では武装するのは当然なのだ。だから戦国時代、稲の刈り入れが終わってからでないと、戦争はなかなか出来なかった。あの戦国最強と謳われた武田軍も多くは農民兵だったのである。

しかしそれを覆したのは織田信長だった。信長は兵士を銭で支払う「傭兵」という仕組みを開発する。この方法であれば、軍資金さえあれば、何時でも大軍で敵の領土に攻め込むことが出来る。農民兵に比べたら確かに士気は低く、訓練度も低い。柄が悪いのも確か。とはいえこれによって大軍を動員出来る。信長が石山本願寺に総攻撃を掛けた兵力は10万人に達する。農民兵だけだとこれほどの兵力を流石に動員するのは無理だ。

 信長が傭兵制度をあみだしたおかげで兵農分離が可能になった。家康は信長のアイデアを踏襲して士農工商を作った。農民も我々がイメージする農業いっぽんやりの人たちばかりになっていく。そのような中、八王子千人同心だけは違った。武芸の鍛錬を怠りなくやっていた。これは幕府の黙認があったからとしか思えない。平和の世に民衆が武装することなど、軍事政権である江戸幕府が望むはずもないからである。

 千人同心は徳川家康の深謀遠慮で生まれたと言えるかもしれない。千人同心から派生する豪農にも拘らず、武士になろうとした近藤勇達は結局歴史の転轍機に踏みつぶされてしまうのだが、幕府、とりわけ将軍家への忠誠だけは本物だった。

 週末のお寛ぎの折、最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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