■6本指の英雄■
豊臣秀吉と言えば、天下統一を成し遂げた戦国武将である。小説『太閤記』
は彼の人生を輝かしいものに描いている。
しかしながら、物事には裏と表が在る。その光輝がまぶしければまぶしいほど、その陰も濃い。
このコーナーは軽い歴史の雑談だが、先ずはこの秀吉の意外な陰についてみたい。
彼は外見に苦労した人物だった。周囲からは申年にして猿面ゆえ、「サル」とあだ名され、その程度ならばまだ御愛嬌もあろうが、主人信長からは「禿げネズミ」とあだ名された。何しろこの主人はアダ名で部下を呼ぶことが多かった。勿論悪意は全くなく、親しみを込めたつもりだったのだろう。ちなみに明智光秀には「禿げ」とか「キンカン頭」と呼んでいた。何しろ本能寺の変で、敵軍が桔梗の旗印だと知り
「是非もなし(しょうがねぇ)・・・禿げ(光秀)に間違いはなかろう」
と言っているほどアダ名は多用していた。
だが、秀吉にはもう1つの呼び名があった。
「6つ」
主人信長は秀吉を時々このように呼んだ。6つ・・・これは何を指しているのか?
実は秀吉は多指症という一種の奇形だったのである。意外にも秀吉の親友だった前田利家の前田家にある文書にもしばしば「6つ」という言葉が出て来る。『国祖遺言』という史料である。ここでははっきりと右手の親指が1つ多かったという記述が出て来る。
利家と秀吉は敵対関係ではない。賎ヶ岳の戦いでは、信長の後継者を巡って、秀吉と柴田勝家が戦うことになった。利家は当時北陸を任された勝家の部下だったが、戦場で事実上寝返った。義理をとるか、友情をとるか、迷った末利家は後者を取ったほどなのだ。秀吉の死後も徳川家康をのさばらせないために最後は病をおして伏見で家康と会見し、牽制したほど秀吉思いだった。その
前田家が盟友だった秀吉にとって名誉とは言い難いことを喜んで書くとは思えない。
それ以外にも秀吉を好く思わなかった、ルイス・フロイスの『日本史』にも矢張り秀吉が多指症だったとしか思えない部分が出て来る。自分は最初、キリシタン弾圧を秀吉は後に加えたため、フロイスが戯言を書いたのだと誤解していたが、前田利家の言行録を記した『国祖遺言』にも同様の記述があった以上、信憑性は高いと思うようになった。
それにしても、秀吉という人物はなぜ指を切り落とさなかったのだろうか。
常に殺し合いをしていた戦国の世に於いては、そのようなことは容易だったはずだ。これは心理学のテーマとしても興味深い史実といえる。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
ログインしてコメントを確認・投稿する