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2014年11月22日21:51

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historia【怨霊信仰が生んだ「死」の穢れ】

 平安時代、実は保元の乱と平治の乱以前は公式記録に死刑は無いことに注意したい。奈良時代は何度かある。飛鳥時代に至っては、大化の改新などを見て頂ければ分かるが、皇族が宮廷で血を流すことにさほど抵抗は無かった。時代が落ち着くにつれて、殺戮は自分たち貴族でしなくなった。なぜか。

 それは死に対する考え方が変わったからである。

 実は飛鳥時代から日本は何度も都を変えてきた。これも実は死に対する考え方の違いである。

 難波京・・・孝徳天皇

 飛鳥板蓋宮(あすかいたぶききゅう)・・・斉明天皇

 飛鳥川原宮・・・斉明天皇

 飛鳥岡本宮・・・斉明天皇

 朝倉宮・・・斉明天皇

 大津京・・・天智、弘文天皇

 飛鳥浄御原宮・・・天武天皇

 藤原京・・・文武、持統天皇

 平城京・・・元明天皇〜光仁天皇

 長岡京・・・桓武天皇

 平安京・・・桓武天皇

 
 それにしても多すぎると感じるのは自分だけではあるまい。首都の建設は物凄いお金がかかることで、下手したら、国が傾くのである。日本も首都機能移転の話が出るが、なかなかまとまらないのは、そういう理由である。厳密には遷都と首都機能移転は違う。首都機能移転とは、喩えて言うならば、鎌倉時代のように、首都機能は鎌倉だが、首都は京都のままであるような状態である。

 こんなお金の掛かることをなぜ繰り返していたのか。当時の超大国の唐ですらこれほどはしていないというのにである。

 それは死に対する穢れからである。絶家することを彼らは極度に恐れた。それが持統天皇から段々死の穢れの問題が解決されてきたのだろうと推測出来る。ちなみに持統天皇は女帝であり、日本で初めて火葬にされた天皇である。

 都の問題は解決したと言っていいかもしれないが、死に対する穢れは根強く残った。

 でなければ、貴族が武器を取って戦わないはずがないではないか。

 低空飛行で散々だった、以前大河ドラマの「平 清盛」で貴族や天皇が防衛のサービスを武士に依存していることが活写されている。

 保元の乱では、勝者の後白河天皇が一方の崇徳上皇に従った源 為義を処刑した。平安時代死刑が復活したのはこの時である。戦争やクーデターとはこういうものであり、処刑は致し方ないかもしれない。しかし後白河は何とその死刑執行責任者を息子の義朝に命じたのである。これは非常に不味い政策だったと思う。貴族は源氏か平氏に防衛を依存せざるを得なかったからだ。なぜこんなことをしたのだろうか。

 それは死に対する穢れがあったからだ。武士とは死に対する穢れに触れる職業である。

 或る意味当時の日本は世界的に見ても奇妙な政府だ。

 支配階級が常備軍を持たなかったからである。しかしの奇妙さの最大の理由は穢れだろう。
 
 島崎藤村の『破戒』を読まれたことがあるだろうか?

 舞台は明治初期の長野県。主人公の丑松が元々属していたのは農民でもなく、新平民だった。この人達は江戸時代に携わった職業が革製品を作っていたり、屠殺業に携わったりしていたのである。

 ちなみに京都の政治家の野中広務さんもこの階級の出身である。関西の精肉業者から支持が強いのも頷ける。

 日本人とは食に対してかなりいい加減なところがある。

 「米は農家の人が精魂込めて作ったのだから、一粒残さず食べなさい」

 と躾をしながら、

 「お肉は屠殺業をしている人が血まみれになりながら作ったのだから、ひと欠片も残さずにちゃんと食べなさい。」

 とは言わないのである。

 屠殺や革製品をつくる人たちは動物の死と触れるから、死の穢れがある、だから新平民にやらせておけばいい、これが当時の「当局」の考え方だった。
これがドイツだったら、優れた革職人はマイスターとして尊敬されるぐらいなのだが。

 ただ南北朝の時代のように、背に腹は代えられないとなると、貴族でも革の鎧を着る。北畠顕家がそうだ。しかし彼も矢張り貴族だと感じるのは武士に対して批判を続けている点である。

 穢れの思想が貴族が言うところの「不浄役人」である武士を産んだ。これが結果的に古代と中世を分かつことになった。

 尤も平家の滅亡はその重大性をあまり理解出来ず、貴族化してしまったことにある。もし清盛が平 将門のように武士政権を樹立していたら、ああもあっさり滅ぼされはしなかっただろう。

 そう考えると関東という当時としては僻地を根拠地に選んだ頼朝には深謀遠慮があったと思う。

 連休のお寛ぎの折、最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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