第77回 舞台芸術講座
シリーズ・クラシックバレエの魅力(3)
ユカリューシャが語るロシアバレエとオネーギンの魅力
ご存知の方には説明するまでもないけれど、
門外漢にはなにがなんだかわからないのが趣味の世界。
というわけで、本題に入る前に若干補足説明を。
まずユカリューシャとは、
東京バレエ団を代表するベテラン・プリンシパル、斎藤友佳里さんのこと。
ダンナさんがロシア人で、洗礼名もお持ちのことから、
ロシア風のニックネームというわけです。そのあたりの経緯は、
ご本人の著書「ユカリューシャ」に、たしか記述があったような...。
「オネーギン」は、もちろん大元はプーシキンの韻文小説ですが、
ここでは来たる5月14日に開幕する、
東京バレエ団の公演演目をさします。
http://www.nbs.or.jp/stages/1005_onegin/index.html
上記アドレスのサイトには東京公演のことしか載っていませんが、
彼女は横浜出身ということもあり、
5月23日には県民ホールでも主演の舞台があります。
http://www.kanagawa-kenminhall.com/event/event-40303.html
* * *
始まる前は、ユカリューシャさんと、
ナビゲーター長野由紀さん(舞踊評論家、「バレエの見方」等の著者)
のかけあいを想像していたのですが、実際はユカリューシャさんが、
話題をあっちにとび、こっちに戻りしつつ、ひたすら話し続け、
ときおり長野さんが解説を入れる、というものでした。
聴講者用の入口から突然入ってきたユカリューシャさん、
舞台メイク姿よりもずっと綺麗な方です。
声も可愛らしく、舌っ足らずなしゃべり方は初めて聴くと、
だいじょぶかな、この人〜? とちょっと不安を覚えますが、(^^;)
語る内容は聴衆の心をぐいぐい惹きつけます。
長野さんによる彼女の紹介、ご本人の挨拶に続き、
長野さんがOHPを使いバレエ「オネーギン」の物語の解説。
バレエ「オネーギン」は、
シュツットガルト・バレエ団の芸監にして20世紀の著名な振付家のひとり、
ジョン・クランコの最高傑作とも言われる作品で、1965年に同団で初演されました。
(オペラにも同題の作品がありますが、音楽はオペラのものではなく、
主にチャイコフスキーの様々な作品を組み合わせていることは、ご存知のとおり)
クランコ作品というと、その物語性が有名ですが、
彼の作品は語り口がとても上手で、表現は大袈裟にならず、
音楽と踊りが融合しているのが特徴。
彼が芸監に就任する前は、シュツットガルト・バレエ団は、
ドイツの田舎バレエ団のひとつにすぎなかったのですが、
彼のおかけで世界に名の知られるバレエ団に成長しました。
(先任にアシュトンがいたため)英国では名声を得られませんでしたが、
(物語バレエの振付で著名な同世代の)マクミランや、
(同じく物語バレエの名手で後の世代の)ノイマイヤーに、
多大な影響を与えました。
クランコ自身は1973年に45歳という若さで急死してしまい、
作品は彼の名を冠した財団が管理を引き継いでいますが、
上演の許諾を得るのが非常に難しく、
ひととき彼の作品はシュツットガルトでしか観られないほどでした。
(リード・アンダーソンが同団の芸監に就任してからは、
クランコ作品を演じるバレエ団も増えてきました)
以上は、ユカリューシャさんが散発的にお話されたことをまとめたものですが、
(本筋の中に、ご本人にとってのキーワードがあると、
お話はどんどん枝道にそれてしまいます。それはそれで面白いのですけどね)
なぜこれを前振りにもってきたかというと、
シュツットガルト以外のバレエ団がクランコ作品を上演するのは、
とても大変だということを、最初にお伝えしたかったからです。
さて、ユカリューシャさんの「オネーギン」との出会いは、
いまから20年以上も前、1989年のことでした。
当時東京バレエ団では、ベジャール、ノイマイヤー、キリアンという、
世界の3大振付家を招聘し、その作品を上演したのですが、
(ノイマイヤーさんが「月に寄せる七つの俳句」を
同団に提供したのがこの時でした)
ベジャールさん、ユカリューシャさんの踊る様子を観て、
「彼女は“タチヤーナ”を踊るべきだ」とササチューさんに進言したのだそうです。
そこでササチューさん、1991年の「世界バレエ・フェスティバル」において、
「手紙のPDD」を演目に加え、彼女に踊らせようと準備を始めました。
「オネーギン」というと、シュツットガルトのマリシア・ハイデさんですが、
(クランコは彼女のためにこの作品を創ったとも言われます)
ベジャールさんは彼女とも話をつけてくれたため、
舞台衣裳や髪飾りを携えて、少し早めに来日したハイデさんから、
ユカリューシャさんは直接指導を受けることができたのでした。
相方は、ハイデさんと初演の舞台を飾ったリチャード・クラガンさん。
タチヤーナを踊るのに、これ以上、何を望んだらよいのでしょう。
そして準備万端、出番を待っている時、ササチューさんから意外な言葉が!
「もしかしたら、踊れないかもしれない」
彼が何を言っているのか、最初は理解できなかったそうです。
どういうことかというと、公演当日に至ってなお、
財団からの上演許可が下りていなかったのです!
舞台衣裳も付け、待つこと2時間。
渇望するファックスは届きませんでした。理由は、
「全幕を踊ったことのないダンサーに許可はできない」
それから18年、その間、何度か「オネーギン」上演の話が出ては消え、
そのたびに一喜一憂するユカリューシャさんでした。
2008年のシュツットガルト来日公演では、
もし予定のダンサーがアクシデントで踊れなかった時は彼女に、
という話も出たそうですが、結局それもかないませんでした。
このときユカリューシャさんは、
タチヤーナを踊ることは諦めよう、と思ったのだとか。
というのも、夢や希望に執着しすぎると、
本当にするべきこと、やりたいことが、見えなくなってしまうからです。
そして覚悟を決めた彼女は、この時の舞台を、
「観納め」という思いで観ていたそうです...。
バレエ・ダンサーを引退した後は、指導者としてバレエ界に尽力すべく、
本場ロシアで資格をとろうと勉強も続けていたユカリューシャさん、
無事国家試験にも受かり、その報告を東京バレエ団にした時、
事務局から「もしかしたらタチヤーナ、踊れるかも!」のしらせが。
でも、この時は、「また?」の思いが先行したのだとか。
そればかりか、
当時東バは「ラ・バヤデール」(昨年9月上演)の準備を進めていて、
彼女はもう踊らずに、振付指導にまわることも考えていたのだとか。
しかし迷いがあったのも事実で、恩師のマクシーモアさんに相談したところ、
彼女にとってもタチヤーナを踊るのが夢で、それを果たせたのは、
54歳(!)になってからのことだったとか。
「あなたは何歳? (この役は)ユカリにもぜひ踊ってほしい。
踊ることによって何かが変わるけれど、それは踊った人にしかわからないの。
だから、(タチヤーナを踊る日のために)『バヤ』は踊りなさい。」
(つづく)
*その2
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1462934083&owner_id=3210641
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