黒澤明(1910〜1998年、享年88)の晩年の作品に『夢』(1990年)がある。彼が撮った作品にしては珍しいオムニバスで、8つのエピソードで構成されている。タイトルに「夢」とあるように「こんな夢をみた」ではじまる、全て黒澤の創作したファンタジーである。劇場公開時、『夢』を観た私は第4話「トンネル」に大きな衝撃を受けた。それ以来、何度となく繰り返し「トンネル」だけを観ている。私にとって映画『夢』とは、第4話「トンネル」を指すと言って良い。
「トンネル」は終戦後、ある陸軍将校が体験する不思議な出来事を描いたものだ。ひとりの男が復員時の姿のまま、夕暮れ時の山道を歩いている。軍服に外套、星の徽章が外された戦闘帽をかぶり、足元は将校用の長靴。雑嚢(ざつのう)を左肩から提げている。おそらく、戦地で死んだ部下達の最期の様子を伝えるため、彼らの家々を訪ね歩いているのだろう。男がトンネルにさしかかると、突然、暗闇の奥から獰猛な軍用犬がうなりをあげながら、彼に迫って来た。軍用犬は柄付手榴弾が何本も差し込まれた弾薬嚢を背中に負っている。軍用犬は担当の飼育兵の命令にしか従わないように訓練されている。戦地では、飼育兵が戦死したあとの軍用犬は何も口にせず、衰弱死したといわれているほど忠実な存在だ。いくら、元将校とはいえ、軍用犬に命令をくだし、襲撃をやめさせることは不可能である。激しく吠えかかる軍用犬に怯えながら、男は用心深く後ずさりすると、軍用犬を刺激しないよう静かに背を向け、トンネルに入って行った。いつ、襲われるかわからない恐怖を背中に感じながら、男は足音を響かせながら、トンネルの中を進む。いつの間にか、軍用犬の唸り声は消えている。
男はトンネルの反対側まで歩くと、出口でふり返る。軍用犬は追って来なかった。諦めて、どこかへ去ったようだ。男がほっとしてため息をつき、歩きはじめると、トンネルの中から人の足音が聴こえてくる。こんな夜更けに山道を行く者があるとはと男が訝しんで足を止めて、トンネルの中に目をやると、足音がどんどん近づいて来る・・・・。
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ご承知の通り、黒澤明には従軍経験がない。したがって、「トンネル」の不思議な物語が彼の実体験ではないことは明らかである。
戦地で部隊を全滅させた陸軍将校(寺尾聡)の前に、戦死した野口一等兵(頭師佳孝)があらわれ、「中隊長殿、自分は本当に戦死したのでありますか? 除隊になって家に帰り、お袋にぼた餅を作ってもらって食べました。それを自分ははっきり覚えているのであります」 男は中隊長だった。おそらく歩兵大尉だろう。「それは聞いた。お前が弾丸に当たって気絶し、その気絶から覚めた時に介抱している私に言った話だ。それは、お前が気を失っている間に見た夢だよ。あまりに生々しい話だからよく覚えている。その5分後にお前は本当に死んだんだ」
男の話を静かに聞いていた野口一等兵は直立不動の姿勢をとる。「わかりました! しかし、親父やお袋はまだ自分が死んだと思っておりません」 野口の言葉に、男は呆然とし、かける言葉を失う。野口一等兵は歩兵銃を両手で大事そうに抱えると、崖の方に歩き出し、遠くに見える民家の灯りを懐かしそうに眺めて、男に言う。「あれが、自分の家であります。親父やお袋はあの家でまだ自分の帰りを待っております」 男は堪らず、野口のそばに歩み寄って、「しかし、お前が死んだのは事実なんだ。可哀想だが、はっきり言う。私の腕の中で、お前は死んだ」 上官の言葉を聴き、野口一等兵は泣き出しそうな微笑むような複雑な表情を浮かべ、両親の待つ家の灯りを見つめながら一歩二歩、前に歩を進めたが、やがて、観念したのか、トンネルに向かい、とぼとぼと歩き出した。男は去って行く野口の背中に思わず「野口!」と声をかける。その声ではっと我にかえった野口一等兵は男の方に正対すると直立不動の姿勢をとり、捧げ銃(つつ)をする。男は肩の雑嚢を降ろすと姿勢を正し、答礼。野口一等兵はしばらく捧げ筒をし続けたあと、歩兵銃を下ろし、名残惜しそうにトンネルの中へ静かに去って行った。
男が野口の去ったトンネルを見つめて、ほっとしていると、今度はトンネルの奥から大勢の足音が聴こえてくる。それは明らかに歩兵部隊のものだった。靴底に鋲が打たれた軍靴独特の足音、銃剣や飯盒などの装具がぶつかってガチャガチャと立てる金属音。やがて、真っ暗なトンネルから完全軍装の一個小隊が行進してあらわれると、先頭の小隊長(山下哲生)の命令で停止した。「小隊、停まれ! 中隊長殿に敬礼、ささげ〜、つつ!! なおれ〜!」 小隊長は抜き身の軍刀を右肩に担ぐと、男に向かって報告をする。「第三小隊、ただいま還りました。全員、異状なし!」 中隊長に報告する第三小隊長の声には、無事に帰投できたという誇らしげな響きが感じられる。
男は第三小隊に答礼することも忘れ、眼前に出現した第三小隊を呆然とみつめ、わなわなと震えている。「聴いてくれ! お前達の気持ちはよくわかる。しかし、第三小隊は全滅した。お前達は全員戦死したのだ。すまん・・・。生き残ったわしは、お前達に合す顔がない。お前達を全滅させたのは、このわしの責任だ。わしは、全ての責任を戦争の不条理と軍律の非人間性に転嫁して、自分の無定見と過ちを認めない卑怯者ではない・・・。しかし、生きながらえて捕虜となったわしは、その抑留生活で死ぬ苦しみを味わった。そして、今、またお前達を見て、同じ苦しみを舐めている。・・・いや、お前達は自分達の苦しみに比べて、そんな苦しみはなんだと言うだろう。しかし、正直に言う。・・・わしは、お前達と一緒に死にたかった。このわしの気持ちを、信じてくれ。お前達の無念な気持ちはよくわかる。戦死とはいえ、犬死だ。しかし・・・、そのようにこの世を彷徨って何になる。頼む、帰れ。帰って、静かに眠ってくれ・・・」 第三小隊は微動だにせず、直立不動の姿勢のまま、男の言葉を傾聴している。
男は彼らの姿を見つめながら、意を決して外套の襟を合わせてボタンをかける。そして、直立して、姿勢を正すと、号令をかけた。「第三小隊!! まわれ〜、右!!」 小隊長以下第三小隊の将兵は一斉に回頭、トンネルの方に正対する。男は再び、号令をかけた。「前へ〜、進め!!」 第三小隊はやって来た時と同様に軍靴と装具の音を響かせながら、行進をはじめ、トンネルの奥に向かって進んでいく。どこからともなく、喇叭譜「國の鎮め」吹奏が聴こえ、男は去って行く第三小隊の背中に向かい敬礼をする。軍靴の音が遠ざかって行き、男はがっくりと膝から崩れ落ちる。すると、トンネルの反対側で出遭った軍用犬が再び目の前に現れ、男に激しく吠えかかる。男はあわてて立ち上がると、獰猛な軍用犬と向き合うのだった・・・。
私は『夢』の第4話「トンネル」が黒澤明の完全な創作だと思っていた。出征し、戦地にいるはずの軍服姿の息子、夫、父の姿を見た直後、戦死公報が届いたとか、夜中に誰かが扉を開けて入って来る気配を感じたとか、戦中戦後を通じて、このような話はとても多かったようだ。軍務経験のない黒澤明は各地に伝わるそういった伝承逸話を基に、「トンネル」の着想を得たのだろう。ところが、先日、川口泰英著の『雪の八甲田で何が起こったのか 〜資料に見る”雪中行軍”百年目の真実』を読んでびっくりした。第3章「捜索」の196頁「屯営異聞」の中に、第4話「トンネル」とよく似たエピソードが書かれていたからだ。長くなるが、下記に引用する。
「行軍隊が帰営予定の1月24日を過ぎても戻らず、ほぼ遭難は間違いないとされた頃から、聯隊の営門に立つ兵士を震え上がらせるような事件が起きていた。雪の降る夜、それは八甲田山の方からやって来るという。中隊規模の一群が、隊伍を乱さず整然として帰営を目指しているらしい。当初は、嬉しい誤報とでも言えるものであった。しかし、時日が経過し、行軍隊の死体が続々と発見されるに及んで、それは言い知れない恐怖に変わった。
田代街道の彼方にはじまるその気配は、次第次第にはっきりと感じられるようになり、帰営を告げる喇叭の音が聴こえると、これを察知したのか、近くの犬が盛んに吠えた。部隊を率いる指揮官の声も聴こえ、一行には到着間近という安堵の雰囲気まで広がっていたという。
この衛兵の報告はすぐさま聯隊内を駆け巡り、噂が噂を呼ぶ事態にまで発展した。そこで聯隊長は意を決して自らその収拾を図ることにし、一夜、衛兵の詰め所に待機してその出現を待った。底冷えのする夜であった。雪が盛んに降りしきり、凍雲月を覆い隠した闇の奥からその気が漂って来たのは、夜更けも過ぎ、夜明けも間近かと思われる頃であった。血相を変えた当番兵の報告を受け、聯隊長は覚えず急行して営門に立った。はたして衛兵の告げた通り、田茂木野方面から部隊が近づいてくるような気配がする。喇叭の音に混じって軍歌も聴こえた。先頭に立つのは某大尉であろうか、足音と共に隊員達の息づかいまで感じられ、そして、今まさに姿を現さんかと思われた時、聯隊長はおもむろに抜刀するや、闇に向かってこう言い放った。
『雪中行軍隊の兵士達よ、よっく聞け。お前達は勇戦奮闘して見事な最期を遂げた。今や無情雪裡の鬼と化すとも迷ってはならぬ。お前達の死は決して無駄ではなかった。軍装及び厳寒期の戦術には一大改革が施されることになったぞ。来るべき戦役に於いて未然に軍の損失を防いだその功績は大きい。行軍隊員はみな戦時死亡の扱いを受け、�編⊃声劼帽艫�されることになったのだ。迷うな。心安く眠れ。ここはお前達の来るところではない。帝国軍人として見苦しい振る舞いはこの聯隊長が許さんっ』と叫ぶなり、指揮刀を大きく振りかざして、『青森5聯隊の雪中行軍隊、回れ右!! 前へ進め!!』と号令をかけた。
すると足音はぴたりと止まり、折り返し八甲田山に向かって静かに遠ざかって行った。それからというもの、二度と屯営に現れることはなかったという」(引用終わり)
『夢』の第4話「トンネル」ととてもよく似ている。このエピソードが「八甲田山雪中行軍隊遭難事件」にまつわる怪事件が由来であるかどうか定かではないが、妙に腑に落ちた。ちなみに、旧陸海軍の施設を継承する自衛隊諸隊でも同様の怪綺談は少なくないそうだ。
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