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2022年12月20日00:41

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今こそエンパシー

 今日は国連総会で制定された国際デーの一つである“人間の連帯国際デー”(International Human Solidarity Day)ということです。
 ネットの説明によれば、「多様性の中での人類の連帯を祝い、2000年に定められた貧困撲滅などの「ミレニアム開発目標」の達成に向けて団結の重要性を思い起こす日」なのだそうですが、この「多様性の中での人類の連帯」に不可欠と考えられるのが、エンパシーです。
 エンパシーについては、私も今年最初の日記(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981277893&owner_id=22841595)で、ブレイディみかこさん著の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の本文を引用しつつ、触れました。
 その日記のタイトルにもなっていますが、エンパシーとは、“自分で誰かの靴を履いてみること”です。それは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味です。
 似た意味の言葉にシンパシー(sympathy)という言葉がありますが、これはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く同情や共感等の「感情」のことであり、自分で努力をしなくとも自然に出て来ます。
 これに対し、エンパシーは、自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのかを想像できる「能力」のことです。シンパシーのように自然に出て来るものではないので、ある程度理解力の付いた年齢からの教育活動等を通じて(教え込まれるものではなく)「自ら培っていく」他ないものなのです。そして、このエンパシーを使うからこそ人々は異なる立場の人とも連帯できるのです。

 でも、このエンパシーという概念は日本では非常に理解されにくい概念であるようです。
 実際、ブレイディみかこさん自身、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を出版してすぐの頃、「道徳の教科書に使いたいので」メッセージを書いてほしいと依頼されたことがあったそうです。エンパシーという言葉が「他人にもっと優しくしましょう」といった意味で取られてしまったわけです(https://bunshun.jp/articles/-/586093頁)。
 そうなのです。上述のようにエンパシーは相手が何を考えているかを想像できる「能力」なのであり、それ自体は道徳とは何の関係もないものなのです。
 これは決して、他人に優しくしてはいけないということではありません。それは道徳の問題であって、エンパシーの問題として論じられる話ではないという、それだけのことです。
 もっとも、至る所で多様性の進む今日、相手が何を考えているのかを十分に想像できる力(=エンパシー)なしには、これからの世界を主体性を持って立場の違う人たちと連帯しながら行きぬくのは困難です。だからこそ、エンパシーを鍛え育て上げていくことが必要になるのです。

 と、ここまで読んで、「でも、相手の考えを想像するって忖度と同じじゃないか」と思った人もいるかもしれません。
 確かに、エンパシーと忖度には似たところがありますし、すべての忖度が悪いわけでもありません。でも、両者は似て非なるものです。目的が真逆と言っていいくらい違うのです。
 エンパシーは上掲対談記事の5頁目に触れられているとおり、最終目標である自分の意見が言えることを実現するために必要な能力として位置づけられます。これに対して、忖度には、それほど明確な目的がないというのか、とにかく波風を立たせないために(周囲との調和を保つために)相手の顔色を窺って行われることが圧倒的に多いように感じます。
 この差は大きいです。
 忖度社会の日本では、とかく波風を立たせることは嫌悪され、したがって波風を立たせる原因となることが多い対立もその種類を問わず好ましくないとされる傾向があります。
 これに対し、エンパシーを大切にする社会では、人が何かを主張する限り、反対意見は付き物と言ってよく、むしろ反対意見がない方が不自然と考えるので、反対意見による対立自体は認め、ただ、エンパシーによって連帯を図ります。エンパシーを前提とする限りで、対立にも十分存在価値が認められるわけです。強い同調圧力によってその存在自体が危ぶまれる(=匿名でなければものが言えない)といった事態にはなりにくいのです。
 また、エンパシーを前提とした対立と、これを前提としない対立とでは、質が異なります。前者であれば、反対意見は主張内容に対してなされますが、後者であれば、主張内容がどうであれ、その主張をしている者の属性(=反対意見の論者にとって気に入らない属性)に対してなされます(主張内容そのものに対する反対意見になっていないので、単なるレッテル貼りの悪口になっているだけで、議論が最初から噛み合っていない)。前者は連帯に繋がりますが、後者は相手の考えを想像しないので連帯の仕様がなく、分断しか生み出せません。
 このエンパシーを前提としない対立を米国の政治の世界に平気で持ち込んだのがトランプです。例えば、CNNの記者というだけで(記者の質問や主張には耳を貸さず)フェイクニュース!と決めつけ、対立を煽ったりしたことを記憶している人も多いことでしょう。
 先日の米国の中間選挙でトランプと彼に賛同する候補者が予想されたほどには圧勝できなかったのも、彼らが持ち込んだ対立が分断しか生んでいないことに気付いた有権者が案外多く、エンパシー(とそれに基づく連帯)の大切さが再認識されたからかもしれません。

 翻って、日本の現状を考える時、この国にはいまだエンパシーを意味する人口に膾炙した適切な単語すらありません。匿名性の強いSNSには、パヨク、ネトウヨ等の自分の気に入らない属性を貶す言葉(ヘイト)が溢れ、エンパシーのエの字も感じられません。
 忖度なら世界一上手くできる国民であろうと思われるのに、それは波風を立たせないためにしか用いられず、それを自分の意見を言えるようにするために使おうとは考えないようです。
 こんな状態で、これからの世代は、多様化が進む社会を主体性をもって連帯して生き抜いていくことが出来るのでしょうか?
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