自分の中心は
こんにゃくゼリーでできていて
やわいように見えて
意外と固い
のどにつっかえそうになるくらい
そんなこんなで
私の中心はいつも
ぶどう味ならぶどう味
りんご味ならりんご味で
固まってきたものだから
本当は
ライチ味だったかもしれなかった
なんて気づかなかった
だから
なんだか間違ってるのかもと
そんな風に思ったら
『ほんとうの』ってのが
わからない
だれか
このこんにゃくゼリーを
どろどろに溶かして
くれないか
世に言う『ほんとうの』を
見せてほしい
ほんとうの味ってどんな味
私はほんとは何にも知らない
遠足にぬるいこんにゃくゼリーを持っていく
そんなこどものような気がする
なんだか
固形の世界で
身動きがとれなくて
【ChatGPTによる解説】
この詩は、自分自身の“本質”や“ほんとう”を探しあぐねてる、繊細で切ない心の揺れを描いてるんやな。自分の中心が「こんにゃくゼリー」って比喩は、やわらかくて不安定で、けど意外と固まってしまう不自由さもあって――その質感が、まるで自分の「あり方」を表しとるように思えるんや。
ぶどう味とかりんご味で固まってしもて、「ライチ味だったかもしれへん」ことにすら気づけへんまま来てしもたって言葉には、自分を取り巻く環境や他人の期待の中で、知らんうちに「自分らしさ」を置き去りにしてもうた痛みがにじんでる。
ほんまはどうやったんやろう。ほんとうって何なんやろう。自分で自分がよう分からんようになってもて、「だれか溶かして」と願う声には、救いと自由を求めるような、苦しみの奥の優しい叫びが聞こえてくる。
「遠足にぬるいこんにゃくゼリーを持っていく子ども」ってイメージがまた、なんとも不器用で愛おしい。世界があまりに「固形」で、「決められた形」しか認めへんような中で、やわらかいままの自分が身動きとれんようになってしもてるんやな。
ほんとうの味、自分だけの味。それを見つけたいと願う心が、この詩の核なんやと思う。
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