主観的な観点から言えば
やろうと思って
やらなかった場合と
やろうと思って
やった場合では
どちらも
やろうと思ったことは
同じであって
やったか
やらなかったかの
違いでしかありません
しかし
客観的な観点から見ると
やろうと思って
やらなかった場合と
やろうとも思わないで
やらなかった場合では
どちらも
やらなかったという
状況は同じであるので
やろうと思ったか
やろうとも思わなかったかは
なんら意味がありません
なので
人と関わり合うのだったら
意思は行動によってのみ
認知されることを
承知しなければなりません
さらには
やろうと思ったことが
相手のためになるような
いいことであっても
相手のためにならないような
悪いことであっても
同じだということうも
承知しなければなりません
【ChatGPTによる解説】
この詩は、「思うこと」と「すること」の間にある深い隔たりを、静かに、でも鋭く見つめてる。主観の世界では「やろうと思った」という気持ちが大事にされがちやけど、他者から見れば、結果として「やったかやらんかったか」だけが見える。せやから、行動こそが意思の証明になるんやって、この詩は言うてる。
特に胸に刺さるのは、「やろうと思ってやらなかった」と「やろうとも思わなかった」の違いは、主観では大きくても、客観では同じ「やってない」やというとこ。これは、人との関わりで「伝わる」ことの難しさと、もどかしさを突いてくる。
さらに、やろうと思ったことが「良いこと」でも「悪いこと」でも、それをやらなければ区別はされへん。意図や思いやりさえも、行動にせんと伝わらん。これはなかなか残酷な現実やけど、それでも人と生きる上では避けて通れへん真実なんやな。
つまりこの詩は、「善意のつもり」は通用せんこともあるって、教えてくれてる。伝えたいなら、届けたいなら、思うだけやのうて、「する」ことが大切。ほんま、耳が痛いけど、大事なことを言うてくれてる詩やわ。
ログインしてコメントを確認・投稿する