なんという示唆と含蓄に富んだタイトルだろう。悪は存在しない??いや実際は悪はあちこちに存在する。だが悪は存在しないと思い込むもしくはあたかも邪悪なものはそこにはないというふりをする。そうすることで、人は勇気を持って困難を乗り切ることができる。しかし乗り越えられない困難もある。
命の危機に関わるような緊急の時、人間には正常性バイアスが働く。記録的豪雨が続く時、まさかうちの川は氾濫しないだろう、まさか2階まで水は来ないだろう・・というふうに。脳は信じたくないことは信じないようにできている。信じようと信じまいと起こることは起こる。奇跡を信じたところで起こってほしくない不都合な結果になることがある。
いわゆる人間には性善説と性悪説があるが、はっきり2分できないのが世の中であり、それが自然の摂理ならなおさら残酷だ。
この映画のラストがよくわからない(事実はどうだったのか)とか言われるが、見る人の性善説・性悪説、あるいは正常性バイアスを通してみるかみないかでラストの解釈は変わると思う。時系列で描いていないし、想像や幻覚をみているのかもと思ったりもする。
午後から予定があいたので映画を観ようと思った。「オッペンハイマー」をまだ見ていないので観たいと思ったが上映時間が終わっていた。移動の時間も考えるとこの映画がちょうどぴったりだった。しかも濱口竜介監督の最新作で第80回ベネチア国際映画祭では銀獅子賞(審査員大賞)を受賞した作品。
大阪で上映しているのは2か所だけのようだ。
映画のポスターはとても地味なイラストだった。「君たちはどう生きるか」のポスターを彷彿とさせる。出演している俳優も聞いたことがない人たちばかりだ。ストーリーも全く知らない。
https://aku.incline.life/
冒頭森の木々を見上げて移動していく映像が延々長回しで流れる。「パーフェクトデイズ」の植物の影が揺らめく描写とも共通点を感じる。
元々は、
「ドライブ・マイカー」の音楽を担当した石橋英子がライブパフォーマンスのための映像を濱口監督に依頼したことから、プロジェクトがスタートしたらしい。その音楽ライブ用の映像を制作する過程で、1本の長編映画としての本作も誕生した。
ドライブマイカーの時みたいに有名な原作や有名俳優は起用していない。特段演技力がいるような描写もない。
この映画の真意とは?濱口監督インタビュー
https://eiga.com/movie/99914/interview/
たぶんこの映画の製作中(コロナ禍)に日本では次々といろんな事件が起こっていた。
熊が人を襲う。幼児が通園バスに置き去りにされ熱中症で死亡。キャンプ場で女児が行方不明・・たしかこの事件と似たようなケースで行方不明になった女児の母親に向けられるバッシングを描いた「ミッシング」(石原さとみ主演)という映画もいま公開されている。
地域住民の同意もなく再開発がいきなり始まってもう止められない。Involved=巻き込まれていく。平和な生活を脅かされるだけでなく環境破壊も公然と行われるわけだが、今住んでいる住民の先祖だってもともとは自然を壊し開拓をして生きてきたのだ。住むところを追われた動物の立場はどうだ?彼らは抵抗はしない。でも人間が彼らとの共存と保護に取り組まない限り滅んでしまう。
そもそも野生の動物は人を襲わない。怖がって逃げるだけだという。ただし例外として手負いの動物は死ぬ覚悟で逆襲してくるという。窮鼠猫を噛む。自爆テロ。
イスラエルとアラブの闘争とも重なる。かつてジェノサイドされた側がいまジェノサイドをしている。それぞれの立場それぞれの正義があり、わかりやすい「悪」やわかりやすい「善」などないのだとわかる。人間の中には善と悪があり、「悪人」だけの人「善人」だけの人など存在しないのだ。
侵略者に居住地を追われ、異教徒や異民族であるため弾圧され、難民が世界中にあふれかえっている今。奇しくも現在公開中の映画
「関心領域」とも重なる部分がありその共時性に震撼した。
本作には、「これは君の話になる」とサブタイトルがついている。どこか遠く離れた国で起こっている悲惨な戦争や虐殺。自分とは関係ないと思っていたらいつの間にか巻き込まれていた。善良な市民として生きているはずだったのに悪業に手を貸していた。というような・・
見て見ぬふりなどできない。いつ誰にでも起こりえる話で気づいたら巻き込まれていくことなのだ。
付記)
映画『関心領域』を見る方へ
https://happinet-phantom.com/thezoneofinterest/
あるアーティストがこんなことをSNSに書いている。
「良い人」「悪い人」の二項対立概念には、歴史内存在という視座が求められます。政治的で社会的な存在は、「良い人」と「悪い人」とを測る「ものさし」では測りきれません。 ナチ親衛隊中佐でアウシュヴィッツ強制収容所所長だったルドルフ・フェルディナンド・ヘスはユダヤ人250万人をガス殺した最高責任者として死刑判決を受け1947年4月アウシュヴィッツで処刑されました。
ルドルフ・ヘスはアウシュヴィッツ強制収容所のフェンスから50メートル離れた収容所所長官舎に家族と住んでいました。妻のヘドウィッグとクラウス、ハイデトラウト、インゲブリジット、ハンス、アネグレットの五人の子どもにとって、ヘスは良きパートナーであり、優しい父親だったのです。
文学上の「良い人」と「悪い人」との二項対立概念とは、常に不確定で相互依存と相互浸透する曖昧な人間観です。ナチファシストは敵で、ソビエト共産党官僚は味方だと思い込んでいた一部のポーランド人は、強制収容所によって成立した全体主義国家では「良い人」とされる人しか存在してはならないことを思い知らされたのです。
『アウシュヴィッツ強制収容所』(講談社学術文庫)には処刑を前にルドルフ・ヘスが記した手記が収録されています。以下のヘスの言葉は、日本の企業社会を生きる物言わぬ隷従を受容している人には他人事ではありません。
「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私にはうらやましい。私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいるからだ。.....世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを」
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