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地球伝承 〜 古代から未来へ 〜コミュの日本の秘された女神の系譜 〜白山菊理媛、瀬織津姫と、黄泉の国のイザナミ、豊受大神〜

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〜つぶやきサロン Vol.3〜の巨石関連のコメント、36、37あたりからの展開ですが、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=18231785&comm_id=1384494
白山菊理媛や瀬織津姫に関する独立トピックをつくってみました。
神道の思想や世界観としても、秘教的な奥義に属する部分と思われますので、なかなかまとまった整理が難しく、これまでも敬遠してきましたが、話題を繋ぐ糸口になればと思い、ここに再掲しておきます。

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▽Dr.TOM
また、「賽の神」のほうですが、これは『記紀』では「千引の岩」以外にもいろいろあります。岩のほうは「道反(ちがえし)の大神」というのが別名で、その岩を境としての縁切りの呪言の直後に、イザナギが投げた杖のことを「賽の神」とし、別名が「岐神(ふなとのかみ)」となります。
そして、この岐神が後に猿田彦に転化していくという伝承があるようですね。一方で、富家の伝承による出雲の親神のことを「クナトノ大神」とするのも、発音が似ていて面白いです。(富家の伝承は強烈なアンチ天孫族なのに、岐神⇒猿田彦は天孫の神武一行を道案内した神となっているところが、矛盾するようですが)

この猿田彦は、実はイザナギから分裂した荒御魂だったのではないか、というのが私の仮説です。
イザナギの妻神への未練の部分が、黄泉比良坂に「岐神⇒猿田彦」を残してきたのです。妻神イザナミが浄化・復活して戻ってきた時、いつでも迎えて道案内できるように、そこに半永久的に残したのです。(ロマンチックやろ?)
しかし、この清濁合わせ呑むバイタリティの部分=猿田彦と分裂して、強迫神経症的に穢れを嫌う、繊細で美しい“だけの”イザナギが天に帰還したので、後の皇室や国家の神道はキレイゴト神道、隠蔽体質の神道になってしまうのです。

反対に、イザナミのほうと分裂して飛び出したのが菊理媛ではないか、というのが私の仮説です。
ヒステリックなド迫力パニックを起こしている最中でも、他方でそれを冷静に傍観している自分があった、などと証言する女性がたまに居ます。これが菊理媛の原理ではないかと思うのです。
もうこうなっている最中は手がつけられないのだから、火に油を注ぐような言動は避けて、ひとまず身を引いて作戦を建て直しなさい、というようなことを、菊理媛はイザナギに耳打ちしたのではないかと思うのです。
ただ、こちらも清楚でクールな傍観者的知性(菊理媛)と、生命を生み出す原初の力(黄泉の国のイザナミ)が分裂してしまっているので、アンバランスなんですけどね。でも、夫神イザナギと完全な絶縁になってしまわないために、菊理媛を放出し、派遣するしかなかったのです。

この分裂原理は、後の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と石長姫(いわながひめ)にも当てはまります。「黄泉比良坂」以降のイザナギのカルマを引くニニギ(邇邇芸、瓊瓊杵)は、女性性の野性的でバイタリティある部分を受け入れることができなかったので、妻のコノハナはイワナガと分裂してしまったのです。
本当は美人(コノハナ)かブス(イワナガ)かという問題ではなく、どんなに美人であっても、強くてキツイ女性は、イザナギ⇒ニニギの系統の男にはブスに見えてしまうのです。

▽AKKIY
1菊理媛と再生豊穣
[菊理媛=イザナミの分身]には、イザナミ=黄泉の国が象徴する死という「マイナスのイメージ」ばかりではなく、(死からの)再生豊穣という「プラスのイメージ」をも内包しているように思います。黄泉の国と別れたイザナギに、「禊をして再生豊穣をお手伝いしますよ」と耳打ちした菊理媛の言葉をイザナギはうれしく思ったのではないか、とギリシア神話の連想で考えました。*1・2

 ギリシア神話のデーメーテール大地母神は禾類の神でもあり、一方、その分身であり、(ゼウスまたはポセイドンを父とし)デーメーテールを母とする娘コレーが冥界の妃であり、豊穣を約束する禾穀の精霊である、というギリシア神話は、大地母神と禾類の神の密接さを物語っています。母であるイザナミが冥界、娘である菊理媛が地上、一方、母であるデーメーテールが地上、娘であるコレーが冥界の妃、という逆転はあるものの「死が再生豊穣と一体」であることの傍証になると思います。生贄をささげることで新たな豊穣が約束される、という図式は、冥界と再生豊穣が一体であり、デーメーテールと娘コレーの一体性に関係が象徴されているのではないか、と考えます。*2

 なお、飛躍ですが、猿田彦はポセイドンに、天のウズメはデーメーテールにも連なるように思えます。

2巨石信仰
[あの世とこの世の境に立てた石であり、この石を通じて死者と生者とが対話する]は、TV電話での会話をおもわせます。このTV電話がムー的かアトランティス系かはわかりませんが。

*1折口信夫は、この菊理は泳(くく)りであって、水中に入ってミソギをしたことだと言い、白事(シレゴト)(白)(もう)ス事っと訓読する)とは、巫女が託言することだと説明した。(早川孝太郎「花祭」跋文)「異界歴程」 前田速夫 著 晶文社

*2(馬に変身するデーメーテールとポセイドンの)両神は、オリュンポスのゼウスを主宰する神系家族の成立以前に、一対の配偶をなした主神であったのかも知れない。ただその関係が、通常の大地女神とその愛人、といった形とは異なるように見え、またデーメーテールが、純粋の大地女神というより、禾穀の精霊(これはコレーに分身されているが)に傾く様相も窺われる一方、両神ともその名称が、デー(ダー)を除き、ギリシア語系であるところから、少なくもはなはだ古い時代にギリシア民族にとり入れられた一対の神々であったろうと推定させる。(ギリシア神話 上 呉茂一 著 新潮文庫 P320 321)

▽Dr.TOM
ギリシア神話の類型は知らなかったので、なかなか興味深いですね。
が、菊理媛については実はいろいろ異説があって、定説というものがありません。よって、ここで少し補足しておきます。

『ホツマツタエ』では、白山姫(菊理媛)はイザナギの母だとしているそうですし、
http://www.pandaemonium.net/rdb/menu/file/473.html
朝鮮半島の聖地、白頭山の神だったとか、それ以前はヒマラヤだとか、だから日本古来の神(信仰)ではなく、大陸〜朝鮮の神仙道のほうの神だ、という人もいます。
でも、私に言わせれば、そもそも有史以前の太古・超古に遡るほど、日本神道は世界神道だったのです。それがだんだん矮小化して、弥生時代以降の大和朝廷の頃には、“島国根性”の“お山の大将”の偏狭な血統主義の神道に凝り固まっていった。だから、このへんの島国ナショナリズム神道には同調しえないのだけど、遥か古代には世界中に白山神道や物部神道や素戔嗚系の神道があったとしたって、全然、不思議はないのです。こちらのほうがむしろムー時代を経て受け継がれてきた、超古代日ノ本の正当本流なのであって、それが弥生以降の朝廷の神道よりは長い期間、世界に出張して頑張っていて、列島への帰還が少し遅れただけの話。
これをして、白山系や牛頭天王(素戔嗚)系が外来の神であり、我が国の伝統ではないからナンタラカンタラ…、というのは本末転倒というものです。バーゲンセールの奪い合いよろしく、早い者勝ち、獲ったもの勝ちの玉座で、世界の雛形であり地球規模の「ひもろぎ(神籬)」である日本列島を、なんとか掠め取って自分達のものにしておきたいという、チンピラ“こそ泥”神道の言い分です。

また、漠然とイザナミと菊理媛の同神を唱える説は多いのですが、強いストレスによってイザナミが分身・分裂したのが菊理媛であると、ここまで精神分析ならぬ神霊分析した説は、まだ読んだことがありません。(したがって、私のオリジナルです)。
一方、イザナミ・菊理媛の本来同体説を否定するのは、瀬織津姫の研究者のグループに多いと見受けます。黄泉の国から帰還したイザナギの禊に立ち会ったのも菊理媛だった、という別伝があり、そこで禊の女神である瀬織津姫と重なり、イザナミのイメージは遠ざかります。
では、瀬織津姫とイザナミはどういう関係だったのか?という視点になってきます。黄泉の国の死と穢れのイメージが強いイザナミからは、強靭なクリーニングとリセットの女神である瀬織津姫は、たしかに結びつきづらいものがあります。でも、言い換えるなら、これは菊理媛と瀬織津姫の対抗・相補原理でもある、と私は思うのです。癒着・凝固した穢れ・汚れを解体・分解して、削ぎ落とし、濯ぎ流すのが、禊の女神:瀬織津姫の働きだとすれば、聖なるものの仲介をして繋ぎ止め、結びつけ、括りつける働きが菊理媛なのです。「禊祓い」に対する「鎮魂帰神」という、神道行法の二大原理です。

したがって、瀬織津姫にはあまり農耕や豊饒のイメージはありませんが(養蚕、機織りは関係深い)、菊理媛には若干、穀物神のイメージがありますね。実際、白山では「白」つながりとして、白狐や白蛇の信仰とも混交していたそうですから、稲荷や宇賀御魂の食物神のリンクが感じられます。(が、近い時代としては、白山信仰は被差別民のカラーが強いせいか、非農耕民のエリアに多いそうです)

あと私の直感ですが、瀬織津姫の霊場には「剣」「武」の個性を感じるのですが、菊理媛にはそれを感じません。しいて言うならば「舞」「芸」は感じますが。剣豪・剣聖としての女神に、参謀の軍師としての女神、といった印象でしょうか。これも相補原理かもしれません。
菊理媛は、月の大神&地の大神⇒豊受大神、宇賀御魂、稲荷、イザナミ…、の地母神系列でしょうけれど、瀬織津姫は違うかもしれない、と最近思うようになりました。瀬織津姫の「水」はあくまでも天の水です。天から注がれる水であり、それも月の女神のような優雅な癒しの水というより、豪放磊落な滝や集中大豪雨の場合もあるんですよね。これはむしろ天の中心たる天御中主(あめのみなかぬし)の荒ぶる(現ぶる)働きではないかと。つまり大地母神の系統ではなく、天(宇宙)の父神の勅使です。だからこそ、創造の原点であるゼロにリセットする=禊祓い、という威力を具えているのです。

神々の相克や封印は、先住系の国津神に対する上陸系の天津神の侵略、という構図で説明されることがほとんどですが、これはこの世の歴史レベルでのいたって平面的で近視眼的な分類でね。本当の天の神は、国津神以上に隠され、消され、封印されてきたのです。有史以降の神道、と言うより、世界のメジャーな宗教全般は、偽の天神、イミテーションの天の神によって牛耳られてきた、というのが私の視点です。

▽AKKIY
菊理媛⇒豊受大神
瀬織津姫⇒アラハバキ
このようなイメージをもちました。

コメント(33)

なお、『日本書紀』による、イザナギとイザナミの黄泉の国⇒黄泉比良坂・泉平坂(よもつひらさか)の決別シーンは、こちらを参照してください。

http://www1.bbiq.jp/shinsisyuppan/nihonsyoki4.htm
黄泉辺食い(よもつぐい)によりイザナミはこの世にもどれなくなったことに対し、ギリシャ神話の冥界の妃コレーはザクロを食べたためにいったんは地上に戻るものの冥界にも一定の期間(穀物が枯れる冬?)住まねばならない運命を定められます。

 共通するのは、冥界・黄泉の国の食べ物を口にすると地上には戻れないまたはもどっても冥界にも住まねばならない、という運命つけです。

イザナミの分身としての菊理媛は、姿をかえて豊受大神として稲に代表される五穀豊穣をもたらした。 またコノハナサクヤ姫における死という運命はイザナミが再生しても地上に永住できないことを示しているとはいえないでしょうか。

 イザナミの分身としてのコノハナサクヤ姫は、地上に永遠に住むことはできず、死が運命つけらる、とすれば、冥界に戻ることを運命つけられたコレーの境遇にも似ています。

 人の死があってこそ再生であり、稲は四季は冬があればこそ枯れ(死)、春に再生する、という人の運命と自然の循環を示しているように思えます。
白山神が大山祗神という説もあるそうですので、(イザナミの分身としての)菊理媛がコノハナサクヤ姫として再生復活した、という推測をしました。

仮に菊理媛がイザナミの母であれば、イザナギに、「イザナミ自身が(コノハナサクヤ姫または豊受大神 として)再生しますよ」と耳打ち予言したのかもしれません。菊理媛の巫女的性格を考えると予言(託宣)がふさわしいものに思えます。
いくつか疑問点を整理します。
豊受大神についてですが、『古事記』では「豊宇気毘売神」の名で、イザナミの孫として記されます。
伊邪那美命(イザナミ)⇒弥都波能売神・和久産巣日神⇒豊宇気毘売神
しかし、伊勢外宮の度会神道の神学では、豊受大神は天御中主や国常立と同神で始源神であるとしています。内宮に対する格上を主張するための理論武装ともとれますが、私はどうもこちらのほうが惹かれますね。
以前も私の日記コメントで、この外宮の豊受大神についてAKKIYさんとさんざんやりとりしましたが、この神もポピュラーなわりには謎が多く、しかも重要なポジションにありそうな神ですね。岡野玲子の漫画『陰陽師』の中でも、とりわけ謎めいて重要な神として描かれています。(ということで、この神もトピックのタイトルに追加することにしました)

大本教の神学では、国常立尊の妻神として豊雲野神を挙げています。(『古事記』では、両神とも独り神としていますが、大本の国常立&豊雲野は『古事記』のそれよりも格上と思われるにも関わらず、夫婦神とされます) 私見としては、この豊雲野が豊受大神ではないか、というのが、私のしっくりくるヴィジョンです。
したがって、イザナミよりもさらに宇宙大の太古神であり、同時にイザナミの霊的先祖にあたり、女神としての地球根源神だから、「白山姫(菊理媛)はイザナギの母」とする『ホツマツタエ』説とリミックスすると、むしろ豊受大神の分霊(イザナミの分霊ではなく)を菊理媛とするほうが妥当なのかもしれません。その豊受分霊の菊理媛がイザナミに合体して守護霊・指導霊となっていたものが、ギリギリのところでひとまず見切りをつけて分離し、外側から采配する道を選択した、ということです。

なお、宇迦之御魂神・宇賀御魂神、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、饌津神・御食津神(みけつかみ)、保食神(うけもちのかみ)、大気都比売神・大宜都比売神(おおげつひめのかみ)、若宇迦乃売神(わかうかのめのかみ)、などなど、水&穀物・食物関係の神は、すべてこの豊受大神の霊的子孫です。古くから同一神とする説も多いですが、私は「本体⇔分身」説であり、霊的な「先祖⇔子孫」説を採ります。
豊受大神が一番エライのであり、次に宇賀御魂(ここまでが宇宙大、地球大の神)、さらに御食津神、保食神・・・と続きます。イザナミは宇賀御魂と御食津神の中間くらいの世代の神だと思います。『記紀』の系図は無視した直感ですが。


コメント2
>人の死があってこそ再生であり、稲は四季は冬があればこそ枯れ(死)、春に再生する、という人の運命と自然の循環を示しているように思えます。

ただ、生と死というのは正常な循環であり、よりマクロな視点から見れば常態の新陳代謝であり、悲しむべきことでも忌むべきことでもありません。古代の人(縄文人?)はそれを本能的にわかっていたはずです。
しかし、『記紀』に見るイザナミの死と黄泉の国の記述は、尋常一様ではありません。いわば異常事態なんですよね。死や黄泉の国を「穢れ」と見なす観念は、その後の神道にも綿々と受け継がれます。「穢れ」ということは、循環していない、再生しない、ということと同義語です。カルマの肥溜めであり、「神やらいやらいき」される(遠くに追いやられる)ものであり、徹底的に隠蔽され忘却されて、高天原の「光一元」的な世界だけを見て、清々しさを演出し見せるのが、今日のおおかたの神道観です。

肉体の死後の世界を言うなら、天国だって「死」の世界のはずです。なのにそうした整合性は無視して、ともかく「死の世界」=「穢れ」=「黄泉の国」と位置づけたのは、後の時代の学者頭の発想ではないかと私は思いますね。世界観が唯物化した故に、(意識の中で)死の世界が恐怖と化し暗黒のものとなっていったのです。
同時に、征服者・侵略者の側が蹂躙してきた先住民系の怨霊を怖れる、という感性も加担します。だから、後世の神道では死者供養をタブーとして遠ざけ、天皇家の祖霊(とされるもの)祭祀(=天照大神の祭祀)以外はそっぽを向き、各々の家庭の祖霊祭祀は非常にマイナーなものとなっていきます。そうして一般庶民の先祖供養は外来宗教の仏教が請け負うという、非常に屈折して捻れた宗教史が展開していきます。(このへんのカラクリは、日本的霊性を解読する上で非常に重要な鍵穴です。当の日本人自身さえも自覚しておらず、曖昧にごまかしてきたところだからです)
ところが明治の国家神道以来、英霊の祭祀という名目で、突然、この祖霊(らしきもの)の祭祀が復活するのです。言わずと知れた靖国神社の祭祀です。これまで庶民の各々の家系の祖霊供養など、我関せずで無視してきたのに、お国のために死んだ者の霊に限っては、祖霊を通り越して神様になっちゃってよろしいというわけですな。

「黄泉の国」の話にもどりますと、それは単なる死後世界ではないのです。いわば伝染する猛毒の感染症にかかった者の、地球霊界の隔離病棟であり、監獄です。一種の地獄ですね。だから、正常な生死循環の再生サイクルには、簡単にはのっかってきません。のけ者なのです。
しかし、さらに大きな生命観からすると、それは病巣が全体に広がってしまわないように、悪性腫瘍を一箇所に固めて、その内部で自浄作用を試行錯誤しているという、宇宙根源神のはからいなのです。それはちょうどアニメ『風の谷のナウシカ』で、猛毒の腐海の底の底(根の国、底の国?)で、浄化の済んだ世界(偽善の天国よりも、はるかに根源的に清浄な世界)が生み出されているのと同じ風景です。

だから、イザナミは最後の最後まで、この偽善の世の中の仕組みや世界観がドンデン返しでひっくり返る時まで、完全再生はしないし、できません。(このままでは、お相手の当のイザナギ自身が、頑として受け入れないからです) ただ太祖神の豊受大神の部分的な働きとして、菊理媛や食物神が、この世の季節循環や食物連鎖の生態系を守ってきた、といったところです。

1.「記紀」において、天皇家をアマテラス直系とする上で、アマテラスの親であるイザナミよりも上位の神があるのは神聖性がうすれるのかもしれません。

そのため、豊受大神≧菊理媛が正史において希薄な取り上げにつらなるものかと思います。

かりに豊受大神≧菊理媛≧イザナミとするのであれば、イザナミ≧コノハナサクヤ姫というつながりがあるのかもしれません。

2.アマテラスを直系と(し、豊受大神≧菊理媛を評価しない)「記紀」の思想(この発想は女帝持統天皇と藤原氏によると推測しています)からみれば、悪い太陽を示す射日神話、神・人間からではなく卵から産まれたという感精神話の否定に作為性があるものと思います。
 
黄泉の国でイザナミがイザナギに「どうか見ないでください」と言ったが、イザナギは、松明で見てみたら、膿がわいて蛆がたかっていたのに非常に驚いて、逃げ帰ります。イザナミは「どうして約束を守られずに、わたしに恥をかかせるのです」と恨みます。

 この説話は、夫婦の間においては、「○○してはいけない」というタブーをおかし、別離したという点において豊玉姫の説話と類似しています。*

 豊玉姫が妹タマヨリヒメを鵜葺草葺不合命の乳母として派遣したことから想像をたくましくすると、イザナミはタブーを破った夫を恨みながらも、コノハナサクヤ姫をイザナギの子孫のために派遣したのではないか、と思いました。

 「太祖神の豊受大神の部分的な働きとして、菊理媛や食物神が、この世の季節循環や食物連鎖の生態系を守ってきた」という管理人様2008年10月28日の観点にたてば、コノハナサクヤ姫こそがイザナミの派遣者としてふさわしいように思います。

(ただしイザナミが異類婚ではな点において、豊玉姫の説話とは異なります。)

*豊玉姫神話
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、北方からきた天孫の流れです。一方の豊玉姫は南からきた海神の娘です。
その豊玉姫が笠沙岬で彦火火出見尊と結婚して子ども(鵜葺草葺不合命=神武天皇の父)を産むのですが、産むのですが、産むときに彦火火出見尊に産屋をのぞいてはいけないと言ったのに、好奇心があるものだから産屋の中を見るんですね。そしたらなんと驚いたことに、一匹の鰐がのたうち回っている。そしたらあとで、豊玉姫が、あなた見ましたねと言うから、見たと言った。じゃこれでお別れしますといって産んだばかりの子どもを渚において海神宮に帰る。・・・豊玉姫の場合は、天孫と異族の娘が結婚するのが信仰上の違いから別れるという話なのですが、その流れはどこまでいくかというと、「信太の森の恨み葛葉」までいくというふうに折口は言っている。狐の葛葉と安倍保名という人間が結婚して子ども(安倍清明)が産まれる。子供があるとき、庭先に咲き乱れている菊の花を眺めている母を見て「母様怖い」、と泣き出す。母の葛葉は狐の顔になっていた。葛葉は後ろ髪を引かれながら、信太の森に帰っていく。これも豊玉姫のパターンですかね。・・・
(魂の民俗学 大江修 編 冨山房 P81〜83)
黄泉の国でイザナミが「見ないで」と言ったのは、形式的な戒律やタブーというより、心理的な願望であり、同時に現実に即した“読み”であったように思います。清楚なイザナミの姿しか知らない(イメージできない)ぼんぼん殿様のイザナギが、穢れた黄泉の国での女番長のようなイザナミの実相を、いきなり受け入れられるはずがないことは、イザナミ自身が一番よく知っていたからです。
でも、せっかく迎えに来てくれたイザナギと共に天に帰りたいという願望もあったので、なんとか工夫しようとした。でも、結局、見られてしまった。
ちなみにイザナギが覗いたのは好奇心からではなく、黄泉国の神々と交渉に行ったイザナミの帰りがあまりにも遅く、心配で待ちきれなくなったからです。遅くさせたのは、黄泉国の神々の陰謀だったのではないかと私は思います。わざとイザナギに覗かせるように仕向けて、イザナミが黄泉津大神として黄泉国に留まるように画策したのです。

ここで豊玉姫のケースと決定的に違うのは、覗かれた後、豊玉姫は決然と自分から去っていくのに、イザナミは「恥をかかせた」と罵りつつも、逃げ帰るイザナギを黄泉国の軍勢に執拗に追わせたり、結局、自分自身もどこまでも追っかけてくるのです。
ということは、本音では別れたくないし、タブーを破ったから別れなくてはならない、とは決して思ってないのです。見たら耐えられないから見るなと、イザナギのことを思いやって言ってやってるのに、こっちの気苦労も何も知らずに見てしまって、しかも想像以上の及び腰で脱兎の如く逃げ帰るとは、コケにするのもいいかげんにしろ!と、そこでイザナミはキレてしまったのですね。

だから、本当の、本当の、本音の、本音を言えば、たとえ覗き見たところで泰然自若としてうろたえず、愛して欲しかったのですよ。醜さも愚かしさもすべてひっくるめて、まるごと愛によって洗い清めて欲しかったのです。
でも、あまりにも最悪の形で、そこで陰陽が断絶してしまった。大本⇒日月系の神愉・神示に言う「第一の岩戸閉め」がこれです。

が、その決定的トラウマがあった故に、イザナミ系の霊統は二度と同じ轍は踏むまいと、心を固く閉ざしてしまった。そういうことは考えられます。
だから、コノハナサクヤ姫や豊玉姫がどれだけイザナミに近いか、いまひとつ私にはわからないのですが、そのイザナミのカルマを受け取っていたことは、大いに考えられます。

もうひとつ、コノハナサクヤ姫とイザナミの“近さ”は、その出産にまつわるカルマです。
イザナミは火の神(カグツチ)を生んだがため、身を焼かれて黄泉の国に堕ちます。一方、コノハナサクヤ姫は身の潔白を証明するがため、火の中の産屋で出産します。ここでコノハナサクヤ姫は、見事にイザナミのカルマを受けて立ち、いわば勝利しました。段階的にであれ、イザナミのカルマを浄化した大功労者の一人がコノハナサクヤ姫なのです。(その前の第一段階として、イザナミを救出したのは素戔嗚なのですが、それはまた別の機会に…)

しかし、ここでまた、新たなカルマが生じます。
コノハナは夫神のニニギに「たった一夜の契りで身籠ったはずがない。自分の子ではなく国津神の子だろう」との嫌疑をかけられ、潔白を証明するために「もし国津神の子なら無事に生まれないでしょう」と宣言して、火の産屋の出産となるのです。
そこで証明されたはずなのに、まだニニギは信じていなかったようなふしがあり、コノハナは富士の火口に抗議の身投げをした、というのが『日本書紀』の「一書にいう」にあったと思います。ここらへんから富士山とコノハナサクヤ姫の、結びつきの伝説が始まったのかもしれません。

一方、嫁とりの時にニニギが退けた、イワナガ姫のほうのカルマもあります。『日本書紀』の一説では、イワナガ姫は恥じ恨んで、唾を吐き呪って泣き「この世に生きている青人草は、木の花のごとくしばらくで移ろって、衰えてしまうでしょう」と言ったとされます。
この姉妹神、コノハナとイワナガは、実は表裏一体の同神であるというのが、私の解釈です。女の美しさやはかなさも、現実的に気丈で逞しい面も、まるごとひとつの人格なのだから、結婚というものはそれを受け入れることだと、父神の大山津見が諭したにも関わらず、ニニギは片面(コノハナ)しか受け入れなかった。
しかも自分の中のイメージに恋しているのであって、それを裏切られたと逆恨みすると、自分の世界にバリアーを張ってこもってしまう。これは黄泉の国から逃げ帰ったままの、イザナギのカルマを受け継いでいます。

神話と言うのは、決してめでたしめでたしの過去完了形で完結しているものではありません。ああ良かったと、いい気分になって(何もせずに)終るだけのものではないのです。今を生きる我々に、常に問題点を投げかけていて、いかに生きるべきかの選択肢を託しているのです。後世の青人草(民)が一票を投じて参加していくことで、初めて未来に向かって完結し、開花する。だからこそ、神話には予言的要素もあるのです。

 イザナミは黄泉の国の神の幻術により醜くされただけで本当は醜くはなく、実は「黄泉辺食い」もしておらず、イザナギのイザナミに対する愛情が深いものであれば夫婦そろいでの黄泉がえりができたと思います。
 しかし、「愛情が希薄で精神的に虚弱」なイザナギは、イザナギは黄泉の国での愛情確認の試練に失敗しました。

 一方、タブー破りの夫を憎みながらも、「愛情が豊かで精神的に頑強」なイザナミは、(醜くされたのは幻術で)本当の姿を見てほしいと黄泉の国を抜け出、イザナギを追いかけ、愛憎の激しさを見せつけます。しかし、イザナギは岩で道を塞ぎ、正面を向こうともせず、岩越しの会話をするのみでした。夫への愛情をまだ残存していたイザナミにとって黄泉かえり最後の機会も、「愛情が希薄で精神的に虚弱」なイザナギにより失われ、夫婦は別離することになります。

 その後、(菊理媛の予言に従い)コノハナサクヤ姫に変容再生したイザナミは、(残存するイザナギへの愛情がコノハナサクヤ姫への加護となり)無事に火中出産も果たし、「愛情が豊かで精神的に頑強」なことを示します。
しかし、ニニギに再生変容したイザナギは、あいかわらず「愛情が希薄で精神的に虚弱」なままで自分の子として認知しようとしないのです。

 この神話における「愛情が希薄で精神的に虚弱」の男神と、「愛情が豊かで精神的に頑強」の女神という構図は、古代の母系社会を示すものかと考えています。

 またスサノヲの前半における狼藉と髭がのびても根の国に行きたいという記述も「精神的に虚弱」であることを示しています。 スサノヲはイザナギの性格を強く受けたのでしょうか。
PS
1.垂仁天皇の妻沙穂姫と沙穂彦王、母系社会の残存
垂仁天皇の妻である沙穂姫は、謀反を起こした兄の沙穂彦王とともに火中に自決し、火中でホムツワケを出産します。このことはコノハナサクヤ姫の出産との類似をみることができるように思います。兄妹婚の可能性があったのかもしれませんが、夫と兄の選択に悩みながらも最後は兄を選び、火中に自決するところはイザナミの「愛情が豊かで精神的に頑強」な一面を受け継ぎ、垂仁天皇も強く妻の自決をひきとめないところは、イザナギの「愛情が希薄で精神的に虚弱」な一面を受け継いでいます。
「愛情が希薄で精神的に虚弱」の男神と、「愛情が豊かで精神的に頑強」の女神という構図に母系社会の影響がうかがえるように思います。
また、ホムツワケの(出雲の祟りで)髭がのびてもしゃべることができなかった、という記述は、スサノヲの前半における髭がのびても根の国に行きたいという記述に類似したものを感じさせます。

2.衣通姫と軽皇子、母系社会から男系社会への変化
允恭天皇の子であり、同母忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつのひめのみこと)のもとに生まれた衣通姫と軽皇子の兄妹婚は、沙穂姫と沙穂彦の記述に類似しています。衣通姫と軽皇子の記述は「記紀」の間で異なっており、政治的な陰謀で軽皇子が皇位継承者として抹殺するものだ、とも聞きますが、流刑地へ追いかける衣通姫の姿勢にはイザナミのように強烈ではないとはいえ「愛情が豊かで精神的に頑強」な一面を受け継いでいるものと思います。一方、軽皇子は衣通姫の愛情をしっかりと受け止めており、イザナギの「愛情が希薄で精神的に虚弱」な一面はみられません。母系社会から男系社会への移行を示すものかと思います。

3.孝徳天皇の妻である間人皇后と中大兄皇子、男系社会の成立
孝徳天皇の妻である間人皇后は夫を見捨てて難波宮から飛鳥宮の中大兄皇子の元に戻った、という記述は、垂仁天皇と妻沙穂姫の記述に類似しています。垂仁天皇の妻沙穂姫よりも兄妹婚の可能性をより強く示すものといえそうです。ただし、孝徳天皇は間人皇后と中大兄皇子にとり母の弟ですので、母系社会の影響はもはやないものといえます。間人皇后が沙穂姫および衣通姫のようにどこまで自主的に兄のもとにかけつけたのかは明確ではないので、古代の母系社会における「愛情が希薄で精神的に虚弱」の男神と、「愛情が豊かで精神的に頑強」の女神という構図は、もはや成立しない男系社会の時代であると思います。
 夫婦のタブーについての説ですが、日本神話同様、オセアニアでも夫が冥界から妻を連れ戻すのにタブーが課せられる、という共通点です。※1
 
もっともイザナギ・イザナミ神話は兄弟でもあるので、「血族ではなく、姻族でなくてはならない」とはいいきれません。

 一方、スサノオとアマテラスも兄妹(姉弟)婚という説もあり、神話の世界は近親婚に満ちています。※2

※1過大の愛と過少の愛―近親相姦と親殺し―
オセアニアの例で面白いのは、日本のイザナギ・イザナミ神話のように、たいてい死ぬのが妻で、それを冥界に追っていくのが夫である点だ。愛する肉親の霊を訪ねて冥界に行くのがテーマであれば、なぜ親兄弟、あるいは早死にした子供を訪ねる話がないのか、と言う問題も問われるべきだろう。・・・多くの説話のなかで、冥界譚はなぜ夫婦間の物語が多いのだろうか。そこには生者と死者が異姓であると同時に、血族ではなく、姻族でなくてはならないというテーマが隠されているのであろう.小松和彦によると、その答えは「愛」のあり方であるという。すなわち「現世的な愛、恒久的な愛とは男(夫)と女(妻)との間に一定の約束(禁忌)が保たれており、それを越えて愛の後遺や思索を行なわないといううえにおいてのみ成立する。つまり、夫婦の愛も、典型的にひとつの秩序というわけである。過大な愛の追求も、過少な愛の追求も、ともに愛を破壊する。」というのだ。
「過大」および「過少」の愛というのはレビィ=ストロースがエディプス神話分析の場合はそれは血族に対する関係であった。すなわち血族との親族関係の過大化は近親相姦であるし、過少化は親や兄弟殺しであった。冥界から亡き妻を連れ戻すとき「話すな」「見るな」というタブーが課されるのは、もともと他人同士であった夫婦の間では、節操を守るべし、さもないと絆が崩壊する、という思想の現れということだろうか。(後藤 明 著 「南島の神話」中央公論新社P123〜124)

※2スサノオの剣と、アマテラスの玉が性器象徴であり、それを交換して口にすることが、性交象徴にほかならないとすれば、このアマテラスとスサノオのウケイ(スサノオが姉の勾玉を噛んで男神を得れば、スサノオの心は清らかなしるしであることを証明する)の場面は、明らかに姉と弟の近親相姦を表している。(「日本の神話」高橋鐵 著 河出文庫P78)

男女・夫婦間のタブーに関しての考察をもう少し掘り下げてみます。
結論から言うなら、「親しき仲にも礼儀あり」的な「過大な愛の追求を嫌う」モラル(タブー)は、これも男系社会がつくりあげた防波堤=千引の石なのであり、後の時代の(男性)学者も知らず知らずこの先入観のうちに生きているが故に、自戒の念を込めて男(イザナギ)のタブー破りを戒めているように見えて、実は男社会の防衛機構なのであり、無意識的に女(イザナミ)の追求から逃れようとしているのです。

「親しき仲にも礼儀あり」「過大な愛の追求を嫌う」というモラル(タブー)から論ずるなら、この黄泉の国の神話では二つの重要なポイントがあります。
一つは、「見ないでくれ」と言われていたのにイザナギが覗いてしまったのが「好奇心」であるとするなら(私は必ずしも「好奇心」からだとは解しませんが、仮に「好奇心」学説に乗って考察を進めるなら)、それは「愛情」や「愛情の過多」とは言い難いでしょう。覗き的な好奇心は、愛の外側に身を置いた野次馬根性です。文字通り「愛情が希薄で精神的に虚弱な一面」故に覗いた、としたほうが、よほど妥当でしょう。
二つめは、イザナミが「見ないで」と言ったのは、公的なルールでもなければ、個人間の約束事(契約)ですらありません。公然たるルールであるなら、お互いにわかりきっているはずであり、わざわざ復唱する必要すらありません。また、イザナギはそれに対して「わかった!決して見ないよ」などと返答してはいません。ここでイザナギの側の弁護に立つならば、それはイザナミからの一方的な通達なのであり、イザナギは返答する余裕すらなく、翻弄されている状況なのです。

では、見られたくなかったイザナミの動機とは何かと言えば、好きだった相手に黄泉の国での醜くなった姿を見られたくないという、よく言えばいたいけな女心であり、悪く言えば女のエゴです。公的で四角四面なマナーとかタブーとかいった一般論ではなく、もっともっとパーソナルで具体的で、生々しい感情の機微と軋轢こそが、ここでのテーマなのです。
それを生々しい感情を排除した、血の通わないルールブックのような社会秩序に塗り替えてしまうのが、男社会のやり口です。男は感情の泥沼が苦手です。好奇心で外側から覗くのはいいけど、愛の泥沼に踏み込むことはできないのです。いざ愛の奔流に呑み込まれそうになると、すたこらさっさと裸足で逃げ出す。これが男の性(さが)です。
したがって、ここで「親しき仲にも礼儀あり」「過大な愛の追求を嫌う」というタブーを破壊している張本人は、最終的には誰あろう女神であるイザナミ自身です。むしろそのタブー(男社会が勝手につくりあげた)を愛ゆえに突破してくれないイザナギに対して、怒り、憎しみ、呪っているのです。この怒り、憎しみ、呪いは、愛ゆえにです。愛情の裏返しなのです。自分がこれだけ掟破りしているのに、なぜそちらもしてくれないんだという、愛情過多であるが故に、相手にも愛情過多を要求してしまうのです。
つまり愛情過多の世界チャンピオンは、文句なしに女神(イザナミ)の側です。故に、男神(イザナギ)は脆弱な精神の平衡を保つという自己防衛のため、千引の石というさらなる強力なタブー作りで道を塞がなくてはならなかった。

この神話は男と女の性向について、様々な問題を投げかけていて、非常に奥深いものがあります。しかも、なかなか生々しくも現実的なところがあり、決してロマンチックなだけの御伽話ではありません。そこが類型の世界の神話の中でも、特異なところであると思われます。
それはおそらくこの日本の黄泉の国の神話だけが、男都合のセンチメンタリズムや不可知論に覆われていなくて、生身で等身大の、あたりまえの女の論理や感性を伝えているからだと思います。
あまりにも生々しい「女」を突きつけられると、男(というより青少年?)は引きます。だから、若い頃は私も、あまりこの神話は好きではありませんでした。哀愁やロマンチシズムなど蹴散らして、壮大で空前絶後の痴話喧嘩であり、掟破りの逆ストーカー物語だからです。でも、これがまぎれもなく我々自身が受け継いでいて、乗り越えていくべき心の問題点なのです。
そもそも「過大(過多)」および「過少」の愛という価値基準も、いかにも男脳の自己満足的な発想です。愛を多いか少ないかという、デジタル化した測定値としてしか測ることができない。愛の過少化が親殺しや兄弟殺し、というレビィ=ストロースの視点は、どうにもしらじらしく聞こえてしまいます。「愛の反対は憎しみではなく無関心」と最初に言ったのはマザー・テレサと聞きますが、やはり女性であったからこその慧眼でしょうか。親族間の愛の過大化が近親相姦、というのも、なんだかピンときません。それは愛の“量”の問題ではなく、自分に従属させたいという歪んだ欲望、つまり愛の“質”の問題です。

殺しや近親相姦にまで発展する歪んだ愛にならずとも、けだし、愛がある種の執着を生むのは事実でしょう。人は愛故に守るものができて強くなることもあれば、その愛を失いたくないがために暴走したり、逆に弱腰になったり、視野狭窄になり、発想が硬直することもあります。
この愛の執着のマイナス面を説いたのが、原始仏教・釈迦仏教でしょう。老荘思想も、あまり愛ということは言いません。その種の愛はひとつところへの執着・耽溺であるから、ものごとを広く深くあるがままに観ることができなくなる。さらさらと流れるままの行雲流水の禅仏教も、どちらかというとこの脱“愛”宣言の思想グループでしょう。
イザナギのように(心の姿勢として)遁走したのではないけれど、こちらから積極的に否定して斬り捨てていくという戦法です。愛は全か無かであり、異常か正常かであり、量の問題としての中庸はありえない、というのが、この立場の行き方です。(中道と中庸は違う)

しかし、この仏教にせよ、老荘や禅にせよ、やはり男の感性、男の論理による、男の宗教のような気がします。そこがスカッとして、サラッとして、好きな面もあるのですが、やはり世界の片面しか見ていないかな、というのが、最近の私の偽らざる心境です。イザナミのようになりふりかまわず、どっぷりと狂気の愛に身を投じた故に、置き去りにされた世界の半面のカルマを請け負ってしまって、地獄(黄泉の国)に堕ちてしまう。そういう存在がどこかに居たからこそ、世界が維持されてきたという面もあるのではないか。下層の淀みがあるからこそ、上層の上澄みがある、ということに気づいていない者があまりにも多い。

そのことに涙したのがスサノオなのです。偏狭な自己防衛のため黄泉の国の神界史のことなど忘却の彼方へ押しやり、高天原の誰一人、イザナミのために泣こうとはしない。スサノオが母の居る根の国に行きたいと号泣したのは、母を支えたいからであり、自分が寂しいからではありません。なぜ、スサノオがそこに共鳴したかというと、スサノオは変性女子、つまり女神の御魂を持った男神だったからです。イザナギとは真逆であり、元の出処はイザナミと全く同じ系統だからです。(つまり、スサノオもイザナミと同じく、良くも悪くも、手に負えないくらい感情過多なのです)
男は泣くものではない、感情をあらわにするのは女々しいことだ、というのは男社会がでっち上げた男都合の、無味乾燥で突っ張りマッチョな道徳観念です。後の時代の学者先生もこれに忠実に習って、若年期のスサノオは女々しいという「定説」を作り上げました。確かに、愛する者のためには地獄にでも特攻できるほど女々しいかもしれないけれど、他の高天原の男神達は、愛する者のために泣くことすらできない、しかも世界のために犠牲になって堕ちた者のために、何らの感情も持ちあわせることもないほど、無関心・無感情で雄々しかった、……ということです。
そうした彼らの精神安定剤として作り上げられた虚像が、天照大神です。イザナミの亡霊(強迫観念)から逃れるために、天照大神という男の自慰的願望を満たす女神、男社会における優等生的な女神、…のイメージが必要だったのです。
イザナギの「愛情の裏返しなのです。自分がこれだけ掟破りしているのに、なぜそちらもしてくれないんだという、愛情過多であるが故に、相手にも愛情過多を要求」については同感です。

 イザナギは愛がつよいがゆえに憎もつよいのでしょう。

 アマテラスははたして女神か、という説からみればスサノオは変性女子、つまり女神の御魂を持った男神、という可能性もあるかもしれません。かんがていませんでした。これはどなたの視点でしょうか。

 「過大化は近親相姦であるし、過少化は親や兄弟殺し」の説の背景には西洋ならではのエディプスコンプレックスがあるように思います。

 親子、川の字で寝るとエディプスコンプレッックスはおきないともききます。
>イザナギは愛がつよいがゆえに憎もつよいのでしょう。

↑これはイザナギ(男神)ではなくて、イザナミ(女神)ですね。
イザナギも一度は黄泉の国まで妻を取り戻しに訪ねていくのですから、そこに強い動機付けはあるのですが、愛というよりロマン(恋)であり、思い込みとしてのセンチメンタリズムのようなものです。その幻影が破れて、現実を見せ付けられてしまうと、100年の恋だか何億年(神様の単位?)の恋だか知りませんが、いっぺんに醒めてしまいます。よく言われることですが、究極の場面では男のほうが現実逃避でおセンチなんですよね。(……一般論ですよ)
だから、このイザナギの気持ちの落差は、愛が憎に裏返るのではなく、恋が無関心にひっくり返る、と言った方がよい。

>スサノオは変性女子、つまり女神の御魂を持った男神

これは大々的に教義にしたのは、おそらく大本教の出口ナオ&王仁三郎の一連の神愉からでしょうけれど、その後の時代の岡本天明に降りたひふみ神示・日月神示、そのまた後の時代の同じ雰囲気を持った神示(これは同時多発的に今も各所に降り続けています)などに見る共通見解です。この大本⇒ひふみ系の神愉・神示とはまた別に、浜本末造なども、自身の霊覚からスサノオの変性女子は明言しています。
これらはこの世的・三次元的・物理的には、個別のもの同士のリレーションは全くありませんが、裏の霊的世界では完全にネットワークしている感じがします。これらは細部においては少しずつニュアンスの違うところもあり、研究者の間ではその真偽が問われたりしていますが、おおまかなポイントでは恐ろしいほど符合していて、そのひとつがこの「スサノオ変性女子」説です。
つまり、この神系・霊党の古神道家の間では、スサノオが女神の御魂を持った男神だということは、半ば常識化した定説であり、今さら強調するまでもないくらいの公然たる事実なのです。

素戔嗚は一人ではない、というのも、この系統の神学の共通見解です。
詳しい理由づけは私もまだ研究不足ですが、肉体を持ってこの世に生まれ出た時の存在をスサノオと呼び、これは全体の部分転生としてのまだ未熟な魂であり、その本体として実在界(霊界・天界)を貫いている働きをスサナルと呼ぶようです。(実際、「素戔嗚」と書いたら「スサナル」と読むほうが自然だよね)

救世の神としての存在は、この「スサナル」のほうであり、これは記紀神話をいくら読んでも実態は掴めません。こちらは地球創世期から生命の創造プロジェクトに携わった始原神の一員であり、宇宙次元の女神なのでしょう。イザナミを救出し、最初の癒しを施したのも、このスサナルのほうです。
肉体神のスサノオのほうは、まだそこまで至らずに、イザナミの怨念の化生となったヤマタノオロチの、現象面の邪悪な姿に惑わされ、ファイティング・スピリットを燃やして退治したにとどまった。肉体の死後、本体のスサナルに帰一してから、その奥にイザナミの愛の悲劇が隠されていたことを悟り、霊的次元における働きで浄化し癒した、ということです。

エディプスコンプレックスについては、文化的・民族的・時代的に特殊な事情から生じてきた心理であり、決して普遍的なものではないと思います。
私の想像では、やはり民族対立による侵略戦争からくる、政略結婚や略奪的な婚姻が原因になっているような気がします。こういう婚姻スタイルでは、男女・夫婦の関係は対等な相互交流ではなく、女(妻)は男(夫)の従属物であり、一方的な主従関係です。子供はそれをモデルとして見て育つと、その力関係の上位にに憧れるようになることが、往々にしてあります。
つまり(力関係として)母は母である以前に、親父の情婦なのであり、自分に愛を施してくれるべき母性の愛を、情け容赦なくもぎ取っていく存在です。この愛を奪取するにはどうしたらいいかといえば、父親を殺して自分も父親のような独裁者になればいいのです。ここで父親は殺してやりたいくらい憎い相手であると同時に、自分も父親のようになりたいという歪んだ羨望の対象となるのです。

親からの自立期には、このエディプス的状況(内面の象徴的心理として)が必用なのだと、父親が弱くなったと嘆かれる戦後日本では、知識人達がさかんに喧伝しましたが。が、これはちょうど戦後日本が、敗戦を経て民族的・文化的な屈辱を味わった時期だからだと、私は分析します。
エディプス的状況とは、規模を大きくとらえれば、大国と属国の関係でもあります。戦後日本はまさしく、アメリカを憎みつつアメリカのように成りたいと、矛盾した愛憎の中に生きた時期だったのです。

しかし、これをまっとうで普遍的な親子関係に当てはめるのは、魂を病んだマッド・サイエンティストの発想です。
フロイト自身、さほど自信を持って発表した学説ではなかったらしいのだけど、センセーショナルなので有名になってしまったようですね。フロイトが偉大なのは「潜在意識」を発見したという一点に尽きるのであり、今日に至る西洋の臨床心理の学会では、エディプス理論はほとんど置き去りにされているし、むしろ病理として研究されているのではないでしょうか。文化論や民俗学など、むしろ心理学には門外漢の学者達が、面白おかしく引き合いに出す、というケースのほうが多いように見受けます。
「イザナギは愛がつよいがゆえに憎もつよいのでしょう。」

「イザナミは愛がつよいがゆえに憎もつよいのでしょう。」
ご指摘のとおりイザナミです。訂正します。

「スサノオは変性女子、つまり女神の御魂を持った男神 、一人ではない」
スサノヲの人格が見せる多重性は複数の神であるためでしょうか。
特に出雲に上陸してからの活躍、行動は別人のようです。
 多重人格の背景には、スサノヲが牛頭信仰と合体したこともあると考えています。

「怪物」は「否定的な恐ろしい母のイメージ」、「恐ろしい父」の象徴だとファンファン様の日記でしりました。

「エディプスコンプレックス」が、「決して普遍的なものではないと思います」は同感です。ただしこだわるわけではないのですが、ヤマタノオロチという怪物退治に「エディプスコンプレックス」を超克する姿勢が見られるようにおもえてなりません。人身御供とされかけたところを救われてスサノヲの妃になった、クシイナダヒメは、その名が示すように「禾穀の神」を示すようにもおもえます。荒御魂の山神、荒神であるヤマタノオロチは、「否定的な恐ろしい母のイメージ」、「恐ろしい父」とすれば、ヤマタノオロチという怪物を退治する武勇伝は、父母を超えるための試練を示すものかとも思います。

豊受大神≧菊理媛≧イザナミ≧コノハナサクヤ姫と同様に、禾穀の神であるクシイナダヒメもこの系統に連なるものかと想像をふくらませました。しかし「精神的に頑強」かははっきり感じません。夫婦仲はよかったともききますので、夫婦ともに「愛情豊か」ではあったことでしょう。

一方、「精神的に脆弱」なイザナギの系統は、高天原時代のスサノヲには連なっていますが、「怪物」退治という通過儀礼を経て「精神的に頑強」となりイザナギの系統を超越したように思えます。
PS
スサノヲとヤマトタケル
同じ武勇伝であってもヤマトタケルとそのオバ(父景行の同母妹)のヤマトヒメの支援(南島のオナリ神話の残存)があり、太刀天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、天叢雲剣草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも称される)
をあたえられるのですが、スサノヲにたいして「姉」とされるアマテラスはなにも支援していないように見えます。
ヤマタノオロチを倒した「十拳剣」(とつかのつるぎ)別称、天十握剣(あめのとつかのつるぎ)はイザナギが使用した剣といいますが、オナリ神話の残存があれば、「姉」またはオバがスサノヲに剣をわたしてもよさそうです。(怒って天岩戸に隠れたので渡そうにもわたせなかったのか。)むしろスサノヲは天叢雲剣をアマテラスに贈ったともいいます。このあたり、やはり姉を慕う弟、もしくは兄妹婚の一面をしめすものかもしれません。
高天原でのスサノヲの狼藉とヤマトタケルのオバへの東征にいかされることへの愚痴、走水の海での海神を愚弄したこと(そのため妃の弟橘媛命オトタチバナヒメがいけにえになった)にはイザナギ伝統の「精神的に脆弱」な幼児性が共通します。が、同じ武勇伝の英雄でもスサノヲとヤマトタケルでは母系社会の支援の在り方が異なるのはなぜだろうか、と思うものです。神話の融合経路が異なるものかも知れません。
>ヤマタノオロチという怪物退治に「エディプスコンプレックス」を超克する姿勢が見られるようにおもえてなりません。

これは「エディプスコンプレックス」をかなり拡大解釈して、さらに善意に解釈して(ある意味、意訳して曲解して)、親の否定的側面を超える、とした東洋的な求道物語ですね。
フロイトの「エディプスコンプレックス」は、あくまでも実父の権力への殺意と憧憬、実母への略奪的性欲、をセットとして、潜在意識の象徴として説いたものです。したがって、これは悪しき輪廻のように繰り返すのです。父親を殺した息子は、自身がまた父と同じ独裁者となり、自分を愛さなかった母親(の投影)をレイプ婚することで、終りのない歪んだ復讐劇を繰り返していきます。

ひと昔前までの西洋では、親の子供に対する絶対権力と、獣を調教するような非情な教育は想像を絶するものがあり、そこからくる幼少時のトラウマも並大抵のものではありませんでした。そこからの心の開放のために、現代の精神分析派のセラピーは四苦八苦してきたと言っても過言ではないでしょう。ニューエイジやスピリチュアリズムにも通じる現代西洋のセラピーは、エディプス状況の輪廻を肯定するのではなく、解消・解脱するためのものとして進化・発展してきたのです。それだけ親子関係の過酷さ、醜悪さが、実験結果として顕れてしまった社会だったからです。
ところが曖昧の開き直り社会、戦後日本では、この実験結果を踏まえて先に進むという明快な方法論が乏しい。西洋のエライ学者先生がこう言ったのだから間違いないじゃないか、みたな“ノリ”だけの受け売りだったり、その反動で、いや、日本の伝統に立ち返れ!みたいな掘り下げのない抽象論だけだったり、その両極の間を行ったり来たりで、いっこうに自身の咀嚼や統合整理がない。その都度、勢いの強い勢力にモードが切り替わるだけ、憑依されるだけの、文化的霊媒体質なのです。
これは気持ち悪い日本人、気色悪い日本文化なので、私はくみさない。それが日本なら、私は日本人でなくてけっこうです!ということです。

汎世界的に見られる英雄神話の怪物退治は、だから正確に「エディプスコンプレックス」からくる超克物語とは言えないし、私が言うまでもなく、この種の論稿は枚挙にいとまがないはずです。
とは言え、視野をもっと広げて考えて、このエディプス的状況を国家とか民族全体の闘争の歴史と考えると、かなりしっくり当てはまってしまいます。素朴な原始社会は別として、どんな国家も民族も、血生臭い闘争と陰謀の歴史を経ずして、近代国家の体裁を整えたものなどありません。これは声を大にして言わなくてはなりませんが、日本とて例外ではないし、ある意味、日本を代表として、世界中が、そういう国家内や国家間のエディプス状況を醸造してきたのです。
そんなことを言うと、すぐに自虐史観と言う声が聞こえてきそうですが、それを言うのは国家・民族のエディプス状況を超克することをごまかしている腰抜けの歴史観だからです。その状況を正視することができず、逃避している、イザナギ・シンドロームの“偽美”愛国者だからです。無かったことにすれば、乗り越えずに済むからです。
本当の英雄や救世主なら、その負の歴史、闇の歴史、醜の歴史をもがっぷりと抱きとめ、相打ちになってもまるごと愛し、自分の命と引き換えにしてでも浄化するでしょう。

このようにエディプス状況とは、個人の各家庭の内部の問題と言うより、社会全体、歴史全体というマクロな集合体として見た時のほうが、はるかに信憑性も説得力も高いように思えます。
英雄や救世主の前半生には、一般が知ると知らざるとに関わらず、やはり社会構造の暗部としての強いエディプス状況があり、そこからくるトラウマで悶々とする前フリのストーリーが隠されているものです。それをバネとするからこそ、後に力強く飛躍できるのです。(それが無い者は、もっと悠々自適の平々凡々と幸せに暮らしていたいもので、そんなシンドイ役回りなどやりたくないですよ)

そして、この社会全体のエディプス状況がなくなった時が、ユートピアなのでしょう。皆さんに人気の古代縄文的ユートピアでは、したがって「英雄」も「救世主」も必要なかったのかもしれません。病気のないところに薬は要りません。堅実な予防法だけがあればよい。それが「王」かもしれません。

心理学では、個人の精神分析はフロイト派が、社会的なものは行動心理学が、もっと抽象的で大掴みのものはユング心理学が、……といった役割分担が慣習化していましたが、案外、フロイト派の精神分析は大きな枠組み相手のほうがしっくりくる、ということを示してくれたのが、『ものぐさ精神分析』で有名になった岸田秀です。
氏の「唯幻論」とか屁理屈っぽい部分はあまりピンときませんが、国家を精神分析してしまう著述は冴えわたってる感じで、好きでした。

神話からはちょっと離れてしまいましたね。
大和の三輪山から帰ってきたら、また性懲りもなく書き足します。

ユング心理学についてご教示ありがとうございました。

「西洋近代の自我が世界の精神史においても稀有な達成」であると、ユング派の河合隼雄氏の著作でよみました。
 エーリッヒ・ノイマンの考える「母殺し」を日本人は達成していないので、「自我確立が未成熟な段階にとどまる」ことになるそうです。
 それに続けて、河合隼雄氏は「西洋近代の自我は、自我の多様な在り方のなかのひとつであり、その強力さは認めるとしても、それを唯一の正しい在り方とは考えることはできない」(「ユング心理学と超越性」河合隼雄 著 岩波書店P23)とあり、「エディプスコンプレックス」が、「決して普遍的なものではない」についてなるほどと納得しました。
エーリッヒ・ノイマンの「母殺し」について知りませんので詳しく述べられませんが、ここで少し整理が必要なようです。

フロイトの「エディプスコンプレックス」は「父殺し」をテーマにしたもので、「母殺し」ではありません。母に関してはあくまでも、子(息子)優位の母子相姦で結末します。父は殺すことで、母は性的に犯し支配することで、親を乗り越えることを象徴的に暗示している、……と、後の男権優越主義的なエセ評論家は“解釈”したのですね。(「象徴」にしてしまえばナンでもありの免罪符です。学者のやってることも、政治家の暴言や芸能人の戯言と大差ありませんね)

はたしてこれが「自我の確立」と言えるのかどうかは、臨床セラピーの現場に携わっている者が一番良く知っているでしょう。早い話が、出口のない欲望と権力闘争の輪廻(フロイト派で言う「反復脅迫」)に過ぎません。
近代〜現代西洋の「自我の確立」は、エディプス状況を再生産することによって克服してきたのではなく、実質的にはアンチ・テーゼとしてそれを否定するタフネスによって鍛えられてきたのです。(きわめて逆説的ですが、これはキリスト教文化圏における「旧約」から「新約」への位置関係が投影されているような気がしてなりません)

これに対して、「グレートマザー」という概念を唱えて、集合的無意識の中にある母性を悪魔教的な畏怖の対称としたのがユングでした。フロイトのように、無意識の底流にあるものを単なる無用の混沌としたのではなく、中毒にならない程度のエッセンスをそこから抽出してくれば、創造的活動の宝庫になるとした。この意味で、フロイトとユングも、西洋的精神史の中にあっては革命的に違うのです。
ただ、このグレートマザーの「グレート」とは、多分に麻薬的な概念で、「危険物取り扱い注意」のニュアンスがこめられていて、決してポジティブ一辺倒のものではありません。その底なし沼にどっぷりとはまったなら、もう二度と浮かび上がってこれないような、毒性の強い世界と解釈されています。(日本で言えば、「怨霊」や「祟り神」の世界と解釈すれば、わかりやすいでしょうか)
そこに「母性」が当てはめられているところに、やはり父権文明の限界を感じてしまいます。理性・客観性で分析できることこそが聖なる神の世界なのであり、一体感・共感の世界は、未分化で野蛮な無秩序の世界というわけです。
昨今のニューエイジの人達が反旗をひるがえし、やり玉にあげる「二元論」の世界観からすれば、ユング心理学も未だに二元論の渦中です。但し、勧善懲悪の排他的な二元論ではなく、光と闇のバランスと交流を説いた二元論です。

エーリッヒ・ノイマンの「母殺し」の話にもどりますと、これはどうもユングの「グレートマザー」的な概念を、フロイトの「父殺し」に置き換えて、独自のリメイクを施したもの、と言えそうですね。
一般には「精神的に親離れしていくことの象徴儀式」と、漠然とおめでたく解釈されてしまいがちですが、実はもっともっと血生臭い闘争の歴史が塗りこめられた、終ることのない略奪と報復のベクトルだと思います。

しかし、昨今の日本にはこれ“さえ”ない。血生臭い闘争や、略奪と報復の自覚“さえ”ないから、それを都合よく美化して自己正当化するアイテムにしてしまう、という困ったチャン状態があります。血の池地獄から這い上がった西洋に、後れをとるのは必定でしょう。

「隠された女神」のテーマからはずいぶんと脱線しているように見えますが、女性性や母性の抑圧・封印という観点からすれば、決して無関係ではないでしょう。上記に見るとおり、西洋的「自我の確立」とは、実は女性性・母性の抑圧・封印とセットなのです。

では日本では(真の)女性性・母性が抑圧・封印されていないかといえば、決してそうではありません。
イザナミの受難を語る神道家は稀有ですし、瀬織津姫や菊理媛を復権させようとする者は、危険思想を持つ政治犯の如く、人知れず弾圧されるような隠された歴史もありました。ひとり豊受大神のみが、始祖神の名目で伊勢外宮の祭神として(男神と解釈されて)祀られているのみです。
「怪物退治≒親殺し」のテーマの再考を続けます。

西洋(キリスト教文化圏)においては概してドラゴン≒龍が悪者であった、というトピックともかぶりますが、これは西洋のほうが親子関係の相克や権力闘争が激烈だった、という家庭事情に置き換えられるのかもしれません。それを社会に演繹していけば、階級闘争が露骨だった、ということにもなります。
ここで退治され殺される怪物=ドラゴンとは、親や旧権力体制の象徴と解することができるでしょう。西洋ドラゴンは東洋の龍神と違って、自然霊や部族のトーテムとして伝承されてきたものではなく、タフで強欲な(人間の)権力体勢の象徴として見ると、妙にスッキリと納得できてしまいます。

しかし、中世の騎士道物語は、信念に忠実な求道者ではあっても、体勢をひっくり返すような革命戦士のイメージはありません。(テンプル騎士団の秘教的解釈では、実はアンチ・キリスト教社会であったというような、反体制的臭いもないではありませんが、一般に定着したイメージからすると例外でしょう)

塔に閉じ込められた囚われの姫を救出するため、護衛のドラゴンと戦うという定番イメージは、騎士道物語の形を借りた後世の人々の集合無意識ではないでしょうか。そして、これは嫁とりのイニシエーションを暗示してはいないでしょうか。このドラゴンは自分の親と言うより相手(嫁)の親ですね。
現代日本では珍しい光景になってきたかもしれませんが、ちょっと前までの日本でも、結婚の承諾を得るため彼女の親(主に父親)と対面して、精神的に対決しなければならないという展開は、珍しいものではありませんでした。

西洋のギャグっぽいアニメなどに時々登場する、騎士のドラゴン退治の場面を見ていて、子供心に不思議に思ったのは、このドラゴンはやたら図体がでかくて火を吹くのだけど、動作は鈍くてちっとも強くない。定番的な予定調和の如く、騎士にやられてしまうのですね。
ドラゴンが年老いた彼女の親とすれば、納得がいきます。口だけは達者なので、威嚇の憎まれ口を叩く。それが口から火を吹くことの象徴だったのではないでしょうか。

一方、嫁に行く娘のほうの状況ですが、つい近代に至るまで、西洋における女性の人権は我々日本人が想像する以上に低いものでした。外の社会でもそうですが、家庭の内部でも父権の従属物であり、文字通り塔の中の囚われの姫だったのです。
そこから開放され、少しでも自由になるためには、結婚と言う儀礼を通して別の新たな家庭を築くことが唯一の手段に思えるような状況もあった。だからこそ、プロポーズする男が白馬の騎士に見えたのでしょう。

ここに見る「婿」と「嫁の親」との対決儀礼は、フロイト的なエディプス・コンプレックスともユング的なグレート・マザーとも異質のものです。そして、実の親子の愛憎劇や、実社会の階級闘争などからすると、ややマイルドで八百長的な予定調和の臭いもしないではありません。

ここで神話のスサノオの話に戻りますと、嫁となる稲田姫・櫛名田比売の両親の泣く姿を見て、スサノオは助っ人を買って出たのであり、(前記コメントの)西洋型ドラゴン退治とも全く違うことがわかります。この親は社会悪たる無法者に苦しめられる庶民であり、子供に対して圧政者ではありません。むしろ溺愛するが故に、ヤマタノオロチに食われてしまう娘の運命に泣きくらしているのです。

もうひとつ、西洋型英雄(騎士)の嫁とりと違うのは、この助っ人を買って出て、成功報酬として嫁とりを申し出た時点で、スサノオはクシナダヒメと一面識もないのです。したがって、嫁の親に象徴される、その地の住民・庶民全般を救うのが第一動機であり、男女の愛はオマケでくっつけた景品、と言ったら言いすぎでしょうか。
まあ、本当の物語がどういうことであったかはわかなないし、後の封建社会の基準に合わせて、物語が歪められてしまった可能性もありますが、そうした編集意図をも含めて文化論的に論ずるなら、やはり日本は、見えづらい形で男女の愛や・陰陽の交流が封じられている国なのだな、と言わざるをえません。
有史以降の日本型英雄は、男女のラブ・ストリーが基調にはなく、『七人の侍』的な助っ人型用心棒の延長といえましょう。

また、「母殺し」の論点からいくと、ヤマタノオロチが母神イザナミの表象であったというのは(現時点では)異説中の異説であり、決して定説でも一般論でもありません。数少ない霊覚者や神示が伝えているところです。
仮にそれが真実だったとしても(私はわりと信じてますが)、スサノオはヤマタノオロチを退治した時点で、イザナミの関わりには全く気づいていないのです。
フロイトのエディプス理論の原典となったギリシア悲劇でも、主人公は自分の父親だと全く知らずに殺し(正当防衛の報復)、母だと全く知らずに結婚してしまう。(形の上では純愛) 潜在意識だから本人は気づいていないのだ、と言われればそれまでですが、なんだか腑に落ちないところであり、ここをフロイト説の反論の論拠にする人もいます。

霊覚者や神示が伝える神界物語で最も重要なポイントは、その後、霊界・神界に帰ってから、スサノオ(スサナル)は自分が気づかずに正義感から殺傷してしまった母神を、癒し、浄化するところです。殺しっぱなしの英雄談などはどこにでもあるけれど、これはおそらく世界中のどこの神話にもない、秘された起死回生のラスト・ストーリーでしょう。
そこには大変な葛藤と懺悔があったことでしょう。それを乗り越えて、成し遂げた、あるいは今も成し遂げつつあるところに、スサノオの偉大さがあるのです。おとしめられた母神を癒すことは、歪められた世界を再生することだからです。



「母殺し」、「ヤマタノオロチが母神イザナミの表象」、
「スサノオはヤマタノオロチを退治した時点で、イザナミの関わりには全く気づいていない」に関連して下記の説が近い 様に思い思います。※
 ただ読みが浅いのでしょうか、どこかE・ノイマン説の「母殺し」には感覚的にピンとこないものがあります。

※アニマ像
 西洋でアニマ像がもっぱら女性像で表わされることは、西洋の自我がE・ノイマンの言うように、男性の英雄像で示されることと深い関係をもつと思われます。ノイマンは英雄による竜退治の話を、フロイトが父親殺しと解釈するのと異なり、母殺しの象徴的表現と考えました。母親殺しを成し遂げ、無意識との関係を断ち切って自立した英雄が、ふたたび無意識の深奥との関係を再確立するときに、女性との結合ということが高い象徴性を持って現れる、と彼は考えたのです。このような筋道は明確でわかりやすい。ここにおける女性の意味も明白です。
(河合隼雄著作集 第?期 ユング心理と超越性 河合隼雄著 岩波書店P54〜55)
う〜ん、ノイマンのプロセスを見ると、これはグノーシス思想、あるいはグノーシス思想の変遷・発展に近いものを感じます。
まず善悪二元論を前提として、母性原理的なもの(肉体・物質・情動・無意識など)を悪とし、そこからの脱却を図り、次により高度な次元で、分裂した二元の聖なる再統合へ到る、というものです。

これは確かに深いものはあるのですが、東洋人・日本人の歴史的・文化的背景ではピンとこないでしょうね。
「母」をなぜ理屈ぬきで「悪」としなければならないのか、このへんが全く説明不足でよくわかりません。悪だから悪なんだ、というあたりが、西洋的先天二元論の二元論たるところなんですが……。
但し、短絡してはいけないのは、ユング心理学にせよノイマンにせよ、母が悪(退治される悪竜)だと言っているのではなく、その逆に、悪竜の象徴として母性原理を持ってきた、ということだと思われます。悪竜が母の象徴なのではなく、母を悪竜の象徴としたのです。ここでの「母」は、どこの誰それの母というような個人の人格は持っていません。実体のない、漠然とした、集合イメージとしての「悪しき母」です。
これは相対的に見て、西洋のほうが母性性・女性性が負の原理、闇の領域として虐げられ、押し込められて、その結果、本来の母性性・女性性が病的に歪み、呪いの黒魔術を操る魔法使いの婆さんのようになってきた(日本的に表現するなら怨霊化してきた)からだと私は思います。したがって善悪二元論は、本当は先天的な決定論ではなく、因縁因果の結果なのです。

西洋の文学的表現には「慈父」というのが時々出てきますが、日本には「慈母」はあっても「慈父」はあまりピンときませんよね。父親の代表的な表現としては「頑固親父」とか、その反対の「ダメ親父」とか、ともかく“愛情豊か”というイメージがあまりありません。あっても“本当は優しい”みたいな、隠された裏の顔だったりします。
西洋では父親が臆面もなく表看板に「慈父」を掲げたりするのは、母親があまりにも悪しき「ドラゴン婆あ」になってしまったため、父親が母性の領分である優しさをも兼任しなければならなかったから、というのが私の推測です。それはちょうど、父性の弱い日本の家庭の母親が、厳しい父性をも兼任しなければならなかった、という状況の裏返しとなります。

とは言え、母性が悪だというのは、西洋においてさえ普遍的なものではないでしょう。伝統的なユダヤ家庭の母親はジュウィッシュ・マザーと呼ばれ、良い意味での教育ママであると同時に、情緒的にも子供を溺愛する傾向があります。(韓国もちょっと似てますし、古き良き日本にもそういう母親は居ましたよね) だからと言ってマザコンだ何だと揶揄されることもなく、むしろ堂々としていて、師弟愛に近いような関係性も築かれたりします。
また、さほどインテリ階級でないにせよ、日本の「肝っ玉母さん」のような母親像は、おそらく世界共通のものがあると思います。
母性が悪しきドラゴンにおとしめられた世界観は、中世から近代へのキリスト教文化圏における、知識階層の産物のような気がします。

これがスサノオ神話のヤマタノオロチ退治とどう繫がるかというと、またちょっと次元の違う話で、西洋キリスト教のパターンとは一線を画すように思うのですが……。
慈母はあっても慈父はたしかに日本の風土にはなじまない言葉のように思えます。

慈父のイメージそのものがうかびません。

菊理姫と長寿について

[菊のエッセンスをふくんだ水を飲むと健康で長寿になれる]
「中国では、菊が群生している谷を下ってきた水を飲んだ村人たちが長寿になったという「菊水伝説」がある」

[重陽の節句は、庭に植えた菊を鑑賞する]
http://www.otakaki.co.jp/development/fragrance/0908.html

重陽の節句は菊と密接なようです。
菊理姫も菊、重陽とは陽の最大数9重なる縁起のよい数9(ク)なので
「ククリ」姫なのだと納得がいきました。
 
  また「菊水伝説」は禊、水にもゆかりの深い菊理姫に関連してもおかしくなさそうでそこからの連想が下記のものです。
                      記
 黄泉の国から戻ったイザナギに耳打ちした菊理姫の言葉は、「禊で長寿を実現するお手伝いをしますよ」であったのかもしれない。

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