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地球伝承 〜 古代から未来へ 〜コミュの日本化および和風化について

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コミュ内全体

 
 日本化および和風化についてトピックをたてました。

 日本の建築が、中国の影響を受けながらもその後、和風化したことについての資料を下記にて紹介します。
(建築以外にも楽器、ひら仮名のように数多くの和風化事例があると思います。
 その他の分野でも同様な事例あると思いますので、ご紹介ください。)
 日本の工業製品における発明よりも工夫、細部改良といった特色の源流をみることができます。
 ただし、最近は外注によるコスト削減がいきすぎのためか、かつての創意工夫という特色が薄れたためか競争力がおちたようなのは残念ですが。 

                           記                 


                 日本の建築に与えた影響
 日本の建築は、飛鳥(538〜644)・白鳳(645〜709)・天平(710〜783)とよばれる時代に、中国の建築の影響を受けて、華々しく開花した。法隆寺や薬師寺・唐招提寺などにのこる当時の古建築は、その記念碑であるといってよく、ただ古いというだけでなく、世界に誇るにたる名建築として、貴重なものである。天平時代に、聖武天皇によって建立された東大寺は、主要な堂宇が焼けて建てかえられ、今日の大仏殿などは、当初の規模の大体三分の二に縮小されたものであるが、それでも、なお、世界最大の木造建築として衆目をあつめている。(トピック4)
このような一連の事実は、飛鳥時代に、はじめて進歩した中国の建築の存在を知り、そのすばらしさに驚嘆したわれわれの祖先が、何とかしてその後進性を克服しようと努力した結果、天平時代にはどうにか追いつき、一部には追いこす勢いをさえ示していたというように見られている。・・・少し専門的な問題になるが、たとえば、中国の建築の大きな特徴の一つである斗栱(ときょう)(斗組(ますぐみ)、あるいは組物ともいう。柱の上に四角い斗形のものや、肘木といって腕木のようなものを封雑に組んで深い簷(のき)や梁(はり)をうける構造体で、装飾の意味も兼ねる)の制度についてみると、中国の影響をうけた日本の建築にそれがとりいれられていることはいうまでもない。・・・平安時代に入って中国との交通が疎遠になると、たちまち停滞し、簡素化して日本固有の神社建築に応用することはあっても、それを発展させて、いっそう複雑なものを作り出すというようなことは全然おこなわれていない。そして、建築は全体として繊細優雅といった方向をたどり、あたかも精巧な工芸品のように、すみずみまでよく精神の行きとどいた、一分のすきもないようなものがつくりだされる。
この現象を、日本の建築史では建築の日本化といい、したがって、平安時代を日本化の時代と見る見方がいっぱんにおこなわれている。
(「中国の建築」竹島卓一 著 中央公論美術出版P10〜11)

             唐招提寺の平面性と漢(から)意(ごころ)
 唐招提寺の特徴は、コロネード〈列柱〉にあります。建物前面の吹き放ちに、8本に〈柱〉が1列につらなっている。おなじ柱でも、浄土寺浄土堂の四天柱がアウト・オブ・プロモーションの垂直性の魅力なら、こちら唐招提寺の〈列柱〉はむしろ水平方向に端麗な空間を広げてゆく。鑑真和上(688〜763)が来日に際してつれてきた工匠の設計なのか、彼らから学んだ日本人の手になるものかはわかりませんけれども、これはもう中国式のオーソドックスですね。宣長が批判した漢(から)意(ごころ)に近いのでしょう。建物からつきだした庇にコロネードを配するデザインは、ギリシャのパルテノン神殿を自然に連想させます。・・・日本の建物としては太い〈柱〉も、パルテノン神殿などに比べればまだ細いですね。またパルテノン神殿の方がスパン(間)が詰まっています。・・・問題は、建物前面の吹き放ちに〈列柱〉を配するこのデザインがなぜ、その後にうけつがれなかったのか。・・・おそらく日本人には、このデザインは固すぎた。形式がかっちりしすぎて、身動きならないようなプロポーションだとみなされたんでしょう。ギリシャにせよ中国にせよ、ひとつの形式を、もう一歩も変えられないところまで練りあげてゆくのが建築の王道ですし、唐招提寺金堂はそのライン上にある。しかし、日本の建築はその後、いかに形をくずし、軽くし、固さを取りはらうかを追求していった。ディテールの洗練をよしとした。それが和様化に他なりません。(トピック7)(トピック8)
(「芸術新潮」2004年6月号 磯崎新−日本建築史を読みかえる6章−P38、P40)

                   


 

コメント(992)

・・・これ(天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ))を(男性の性器の形態を叙した名であり、物を作り出す工作神である)性神と規定する加藤玄智氏の説は、天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ)と並んで金属神の称される天津(あまつ)真(ま)浦(うら)を念頭に置いているのであろう。真浦が目(ま)占(うら)、つまり目で炉の炎の色を占うことであるとする説もあるが、マラすなわち男根を意味するというのが通説である。加藤はそこから天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ)の性格も推量したのであろう。しかし天津(あまつ)真(ま)浦(うら)から天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ)を類推しようとしたのはあまりに飛躍的であり、加えて天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ)が他方では跛者でもあるという説を解釈し得ない。・・・『日本書紀』の綏(すい)靖(ぜい)天皇の条にも。「倭鍛部(やまとのかぬち)天津真浦をして真鹿(か)弭(ご)(しかかんむり+弭(ご))の鏃(やさき)を造らしめ」とある。・・・さて、天津真浦については、真浦のウ音が落ちたと考えたということができる。真浦は目卜(まうら)であり、目一つで錬鉄の体形や火色を卜(ぼく)定(じょう)したことに因る名前であると『古語拾遺新講』の飯田季治氏は述べている。その解釈は片目をもって火勢を見る鍛冶の作業を指しているが、しかし他方では、溶解炉の炎の中で鉄を鍛える鍛冶作業が男根と女陰の関係を想定させるという説がある。これは天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ)を男根とする加藤玄智氏のファリシズムとも通じ合うものがある。また、西田長男氏は、・・・マラ、マウラはともに鍛冶師の名であり、(物部造(みやつこ)等祖、天津麻良とあって)物部氏の一族に多いという。
P104 108、110、125〜127、98、105、186〜187、205
(『青銅の神の足跡』谷川健一 著小学館ライブラリー)
>>[953]


このアメノマヒトツが地元の恵那山に祀られる神の中で一際難解でしたが、ひとつの側面を頂きました(^人^)ありがとうございますm(__)m


今一度、咀嚼してみたいと思います(*´∇`)
可能ならばマヒトツの違う側面もご教示頂ければ幸いです(^人^)
>>[955] kenbon様
 目族もさることながら、「マヒトツの違う側面」については、今ひとつ分明ならざるところがあるように感じています。
 
 なお、粗雑ではありますが、下記は天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ)をふまえた「ひょっとこ」「天狗」の類似性に関する小生の試論であります。

                     記
                 私論「ひょっとこ」「天狗」の類似性
 
 里神楽において「ひょっとこ」は、「おかめ」と対になっていることからみるとサルタヒコのようである。一方、「天狗」はサルタヒコである、という谷本説および「ひょっとこ」は天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ)である、という谷川説もあることならびに「おかめ」とされるアメノウズメがサルタヒコと神婚し名前をサルメノキミと改め、朝廷で神楽などの祭祀を司る猿女君という氏族の始祖とされることを考え合わせると、「天狗」と「ひょっとこ」の結びつきを説明することが必要になる。
加藤玄智が示す天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ)を性神とする説は、柳田国男、谷川健一により否定されたが、天津(あまつ)真(ま)浦(うら)が金属神である説ならびに男根を意味する性神である説をも否定するものではない。つまり、「ひょっとこ」である天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ)と天津(あまつ)真(ま)浦(うら)に共通する金属神としての性格と「天狗」であるサルタヒコと天津(あまつ)真(ま)浦(うら)に共通する男性シンボル神としての性格が、「天狗」「ひょっとこ」の性格を類似させるに至ったものと類推できる。「天狗」「ひょっとこ」の結びつきは、男性シンボル神であり金属神でもある天津(あまつ)真(ま)浦(うら)により説明できるものと考えられる。
「人口の風を必要とする場は煮炊きの時や土器を焼く時、人は自ずと口を尖らせ火に息を吹きつけ、火に風を送って火力を強める。製鉄でも火力を強めたり火力を維持する時は〈風〉が重要な役割を持つ。」こと、「天狗は楓の葉をもって鼻高々と闊歩するが、天狗のトレードマークは楓の葉だ。諏訪大社上社・下社の神文は梶の葉で、梶の葉は天狗のトレードマークの楓の葉と酷似する。火力を左右する風を自在に起こし自在に送風する団扇は原型の楓、その葉に類似する梶の葉が諏訪大社の神文だから、諏訪大社は風の神という由縁だろうと納得出来る。」(御柱祭 火と鉄と神と‐縄文時代を科学する‐ 百瀬高子 著 彩流社P 35)とを考えると、鍛冶、風、楓、梶を介してひょっとこと天狗が密接な関係にあることがわかる。
マヒトツとヒョットコの類似性から地元の神社を考察しました。

恵那山を御神体とする恵那神社は恵那郷鎮守として式内を頂く創建不明の神社です。祭神はイザナギ、イザナミ。摂社にアマテラス、一言主、速玉男、サクヤ、サルタ、トヨウケとあります。
ここから里に降りた場所に八幡神社がありますが、僕は恵那神社の里宮が独立した社だと考えています。
更に北へ向かうと盆地の反対側に木曽川が流れ渓谷の上に中川神社が在ります。これも式内ですが、興味深い事に春の中川神社の祭りで八幡に天狗を送り、秋の八幡の祭りで花馬を中川に迎えます。
この中川神社の裏手は小高い山になっていて古墳だとも言われますが調査されていません。

古い信仰では霊は家の梁に宿り、やがて里を見渡す丘に移り、高い山へと向かいます。
正月に神を招き、春に田畑に招き、秋に山に送ります。

AKKIYさんの私論を照らすとマヒトツ、サルタが山に在り。イザナギ、イザナミは産や生を表し、サクヤ、トヨウケが栄華、豊穣の神だと仮定した場合にヒョットコが神の具現で豊穣が花馬と考えることができるのではないでしょうか?



余談ですが恵那山の裏手、伊那には片目の神の像が沢山あると聞きます。伊那は海の地名が残る地で海人族との繋がりを感じます。
>>[957] kenbon様
「ヒョットコが神の具現で豊穣が花馬と考えることができるのでは」
  ↑
 かなり前、安来近くにお住いというmixi知人の方から、安来のヒョットコによるドジョウ掬いは「砂鉄篩い分けの所作」であり、「ひょっとこはスサノヲで地元で愛される神」であるとうかがった記憶があります。
 
 貴兄がおっしゃる「神の具現」、もしくは零落したスサノヲの具現化がヒョットコではないでしょうか。
 
 「花馬」について恥ずかしながら知識がないのでご教示いただけませんか。

 推測を怖れずに申せば、仮にヒョットコがスサノヲであるとした場合、「精練業を含む殖産の神」であるスサノヲは、砂鉄製錬のみならず植林、そして絹織物の技術を列島に伝承した神であり、殖産の技術をもつ部族が奉祭する神であったとすれば、恵那の地における「花馬」は絹織物の技術にかかわる可能性がないものでしょうか。
>>[958]


我が地での伝承では花馬の起源は不明ですが、公式見解では木曾義仲が起源とされます…これは明らかに間違いでしょうね…花馬は背に俵を乗せ、俵に差した「花」を民衆に与えながら往きます。この「花」を田畑に挿せば無病息災の御利益があると信じられています。所謂「魔除け」ですから木曾義仲よりスサノオに近いでしょうね。

ここで年神信仰を当てると、春に田畑に迎えられた年神は秋に豊穣をもたらして山へと帰らなければなりません。つまり天狗と花馬は表裏陰陽の関係であり一体であると考えます。
つまり、死の神、再生の神は表裏一体であり。豊穣と殖産の神も表裏一体であるとは考えられませんか?


ややこしい話しですが、この場合の天狗はマヒトツでありサルタでありスサノヲでありイザナギとイザナミでもあります。花馬はサクヤでありトヨウケでありイザナギとイザナミである。
更に天狗と花馬は表裏一体とするならこれらの神々は等しく「山の恵み」だとなります。



少し拡大解釈が過ぎましたでしょうか?(^-^;)
>>[959] kenbon様
「死の神、再生の神は表裏一体であり。豊穣と殖産の神も表裏一体である」
 ↑
 同感です。縄文の人とケルトの人が持つ自然観とは、「死、再生、豊穣」であると思います。※1
 左巻き渦巻きと右巻きの合体によって円環はそうした自然観を象徴するともききます。※2

 なお貴兄がタイのイサーンの食生活と伊那との関連で親近感を寄せられるかにも見受けられるのは、東南アジアからの海人族が南洋からかつては内陸奥まで入り込んでいた伊勢湾経由で伊那へと入った人々の記憶がDNAとして貴兄に刷り込まれているからでは、という妄想を「春に田畑に迎えられた年神は秋に豊穣をもたらして山へ」という年神信仰から連想するものです。東南アジアとも年神信仰は共通するようです。※3

※1・輪廻転生と母性原理
 ケルト文化の特徴としての、渦巻きの存在はよく知られている。文様自体にも渦をかたどったものは数多くあるし、ケルトでは渦巻きは「アナザーワールド」への入口とされていた。音楽や文学にも、渦巻き模様のように始まりと終わりがあいまいなものが多い。
私が渦巻き模様に最初に興味を抱いたのは、先述したスイスのユング研究所から日本に帰った頃のことだった。帰国して一番初めに会った不登校の子が、「肉の渦に引き込まれ、恐ろしくて目が覚める夢を見る」と言うのである。それを契機に渦にまつわる入りいろいろを調べてみると、面白いことがわかった。
これは世界共通の認識なのだが、古代から渦は、偉大なる母の子宮の象徴と考えられてきた。そしてそれは、生まれてくるという意味と、そこに引き込まれて死ぬという、二つの意味を併せ持っている。(小生註:鳴門の渦潮と淡路島のオロゴロ神社、死と再生豊饒にも連なるのではないか。)ポジティブな面とネガティブな面を持つ、まさに輪廻転生を象徴するものなのだ。日本の縄文土偶の女神には渦が描かれているものが多いし、世界でも、守護神にはよく渦の文様が彫られている。
 つまり母性の象徴なのである。私が会った不登校の子も、母親との関係に悩んでいたし、箱庭療法を施すと、同じような境遇の人が渦の絵を描くこともある。
 その母性を象徴する渦巻き模様が、イギリス・アイルランドには多く存在する。これはケルト文明が母性原理に裏打ちされていたことと無縁ではないように思われる。
 グルグルと回るケルト文様と輪廻転生の関係、おはなしから音楽にいたるまで。ケルト文化と渦巻きとが連環しているのは、本当に興味深いことだ。P 69〜70
(『ケルト巡り』河合隼雄著 日本放送出版協会)

※2 8古代人と渦巻き
 左巻き渦巻きと右巻きの合体によって円環が形成されるという現象は、古代人にとって重要な意味をもっていたと思われる。すなわち、古代人は、この図形現象に人間を含む生物界における生殖による生命の誕生のメカニズムとの一致を読み取っていたのではないだろうか。換言すれば、同質でありながら相対する異質の二者から新しい生命が[生まれるというメカニズムが渦巻きの上にも現れていることを読み取っていた。そしてこのような符号に、古代人は渦巻きに深遠さを感じとっていた、このように推測されるのである。・・・渦巻きに生成の究極的な原理と永遠性をみいだしていたであろう古代人にとっては、渦巻きは永遠のシンボルであったと思われる。
 さて、一つの軸の両端に置かれた同質性と異質性を合わせ持つ相対する二つの渦巻きは、永久に循環運動を繰り返すわけである(古代人にはこのように理解されていたと思う)。この永久に繰り返される循環運動こそが、二つの渦巻きの相関関係から生まれてくるのである。簡単にいえば、二つの渦巻きは一つの円球を形づくると表現されよう。そして、その循環運動は永久に繰り返される。・・・ちなみに、磁石棒の同極どうしは鋭く反撥するが、N極とS極は互いに強く引き合う。これは、「相対する二者の、相対するが故の相関関係」を私たちがこの自然界において確認できる具体例の一つである。
 右の状況は古代人の世界観・宇宙観を知る上で非常に重要な資料となっている。それは三次元世界を二次元図形で表現しているところに現れている。すなわち、大極図は、平面図ではあるが、時間制と空間性(三次元世界)を所有していることになる。したがって、この時間性と空間性は、大極図から導かれる逆S字形渦巻文(大極図を親とすれば、逆S字形渦巻文はその子供)が必然的に所有する特殊性と認められるのである。さらに重要なことは、二つの渦巻きが円球(円環)を形成し永久に循環するという構図を描き出していることである。・・・
以上から、非対称(この場合、巻き方の相違する二つのらせん)が新しい一つのもの(円環)を作り出していることを教えている。この円環によって死→再生のメカニズムの循環が達成されると考えられていたものと思う。人類の男女はホモサピエンスに属すが、その形態は非対称といえる。非対称をなす男女の交合から新しい生命が誕生する。そして、同じいとなみを繰り返す。生物界にこの例はまことに多い。
 また、空と海を分ける水平線から昇る太陽は、時間の経過による空間の拡大現象を引き起こしている。この空と海も非対称である。このように見てくると、非対称は「ものの生成に関わっていることになる。これに気づいた古代人は、その究極の原理を非対称を形づくる渦巻きにみいだしていた。P76〜78
(『古代渦巻文の謎』 大谷幸市 著 三一書房)

※3 蛙狩と竜蛇
 上社本宮で正月元旦に行なわれる蛙狩(かわずがり)の神事で、大祝以下の神官が蛙を射て神前に供えるのは、伊藤富雄が想定したように、「恐らくは、蛇神に捧げる生贄だったのでありましょう」。そして、この蛙狩神事は、たんに蛇と蛙というばかりでなく、外来の征服者と土着の被征服者というイメージも伴っているらしい。たとえば、故藤森栄一氏は、「いったに諏訪神社伝承の中には、神長洩矢神がカエルで、征服者大祝がヘビだという説話が特別多い」といっている。・・・諏訪大社の下社は、春宮と秋宮とからなっていて、祭神は、この2つの宮を季節的に移動すると考えられていた。・・・この季節的移動は、春、山の神が田の神になり、秋、田の神が山の神になるという移動を思い出させるが、少しそれよりも時期が前にズレているし、どうもこれとは違うらしい。ここで私が思い出すのは、東南アジアで、インド的な古代文明の影響を強く受けたところで、竜蛇が季節的に居処をかえるという信仰が広く分布していることである。例えば、ラオスのルアン・プラバンにおいては、ナガや蛇形の精霊たちは、雨季には水田や沼などに住み、乾期には河川を巡回していると考えられている。・・・またスマトラのバタク族によれば、地下の竜蛇パネ・ネ・ボロンは3ヶ月ごとに居所を変え、東→南→西→北というようにぐるりと1年かかってもとのところに帰る。・・・下社の祭神の季節的移動もこのような系列と関係があるのではなかろうか。もしそうだとすれば、神仏習合時代における仏教的な竜蛇観の影響が考えられるかもしれない。
P100〜102(『御柱祭と諏訪大社』大林太良著 (宮坂光昭)筑摩書房)
>>[961]

先述コメントに於いて「飯田」を「伊那」と間違えた事をお詫びすると共に訂正しますm(__)m
しかしながら、後述AKKIY様のコメントには影響しないものと考えます(^人^)



これは興味深いです…(*´∇`)
円でなく渦は時間を含む図形だと言われますが、なるほど…その通りかもしれません。
面白いのはスマトラの信仰ですね。世界人口は圧倒的に北半球が多い。古代文明もそうでしょう。渦は南半球で逆転しますからアボリジニに渦伝承があるなら知りたいものです。そして更にアボリジニの祖先がインドから東に移動して南北に分かれたのなら…ドキドキします♪

最近、思うのは「押し出されて北へ」です。

畿内は日本の中心でした。中世は間違いなくそうですが、古代の終わりからそうだったと思われます。
これは統一国家を目指す上で非常に重要であったと考えます。


幕末…幕府は新政府により北へ押し出されます。この時には幕府側の会津を経由して太平洋側を移動します。江戸から会津を経由するから必然的に太平洋側ですね。しばしば内陸部を移動するのは対抗勢力の存在を示唆します。
戦国時代…失脚した石田の子孫を津軽が保護し、真田の娘は伊達へと落ちます。
義経は平泉で保護され頼朝の下へ旅立ちます。


これらの移動には必然性があります。


つまり「押し出されて北へ」は「北だから」ではないのです。
日本人の縄文系遺伝子は北海道と沖縄に多い。つまり、畿内から押し出されると南北に移動します。


これを仮説として適用すると安曇が宗像から分かれ畿内に入ったにも関わらず失脚して信州に移動します。つまり畿内から「西に対抗勢力があった」と推測できます。
タケミナカタもそうですね?モリヤとミシャクチの関係は未だ研究中ですが、タケミナカタがモリヤと戦った伝承が諏訪に残る事からミシャクチ→モリヤ→タケミナカタと考えられます。このタケミナカタは出雲から押し出されて諏訪に納まります。太平洋岸も日本海岸も大きな勢力が存在したと考えられます。

北陸は古代から大きな勢力があったでしょう。継体帝は北陸出身ですし、天智と天武の母も北陸出身です。
太平洋側も三河、駿河、相模と豊かな土地ですから大きな勢力があったはずです。

これらに阻まれ東山道を移動「するしかなかった」のだと考えます。



前置きが長くなりましたが(^人^)そうした可能性を考慮した時、太平洋側に伝わった文化は古い程、内陸部に残り、失脚して書き換えられる以前の文化程、内陸部に残ると考えられるのではないでしょうか。


さて、重大な問題が残りますが(^-^;)これらの仮説は「文化が同時多発的に発生しない」という前提で話しをしています。


「渦」然り、「昆虫食」然り…ですね(>_<)
>>[963] 玲様
 鶏林、新羅と都祁についての不思議とも思える連環については、ペルシャにも連なる可能性を中丸 薫氏が説いています。※1
 しかし、結論のみが先行し、根拠について記されていないこと、および半島への伝播の経路を考えると、特異な説であるようにも感じています。
 
 ただし、ローマングラスが半島では殆ど唯一、新羅からのみ発見されていることは、由水常雄氏の説くところです。※2
 中丸説を一概に根拠なしとはいいきれないことを示すものと考えられます。
 尤も、伝播の経路については両氏の解釈が異なるようです。

 なお、半島への伝播の経路と中丸説にある、「日本海とそこに沈没した大きな島(幣(へ)賂(ろ)弁(べの)島(しま)と渡(わたりの)嶋(しま))」については、「大宝元年(西暦701年)の丹波国地震」で消滅した可能性があるものと推定しています。※3

※1
 蓋蘇文は平壌でのクーデターの後、大莫離支を自称した。この「莫離支」という高句麗の称号は、新羅では「王」に匹敵する「麻立干」の称号に酷似し、西アジアの支配者のタイトルである。新羅は伝統的に西アジア人が支配した国で、建国神話や伝承に鶏や卵生神話があるなど、古代ペルシャ的なものがある。P254 

新羅は異国文化の国だったわけではなく、国の支配者だけが西アジア人だったのである。新羅王の金氏はペルシャ系の王族であり、月氏の系統と考えられる。月氏は人種的にはアーリア人であり、文化的にはペルシャ系の遊牧文化である。月氏族にも卵生神話があり、古代ペルシャが鶏をトーテムとしていたように鶏が登場する。P262-263

不思議なのは・・・百済や高句麗の古墳からは西アジアの(ローマン)グラス文物が発見されていないことである
西アジアの文物がどのように…新羅にもたらされたのか。その謎は日本海とそこに沈没した大きな島(幣(へ)賂(ろ)弁(べの)島(しま)と渡(わたりの)嶋(しま))にある。P261-262

「蘇我氏の蘇」とは鉄のことで、・・つまり蘇我氏は製鉄に従事する氏族であったが、王族ではなかったのである。蘇我一族は百済の木満致の子孫とされているが、実は高度な製鉄技術を誇った伽耶地方が彼らの発祥地P295
(『古代天皇家と古代正史』中丸 薫 著 徳間書店)

※2・新羅出土のローマン・グラス
これまで発掘された新羅古墳からは、以下に挙げるように、十基の古墳から合計24点のローマン・グラスが出土している。同時代の高句麗や百済の遺跡からは、ローマン・グラスの出土例は前述したように、高句麗の西官菅子第二号墓出土の例外的な1点を除いて、皆無である。・・・しかし、その原産地が、地中海東岸地帯のガラス産地であったとしても、新羅が直接にそれらの地方と関係を持っていたということではない。当時、ローマ世界のガラス産地は、大量生産を行って、広くユーラシア大陸全域に輸出していたから、それを取り扱う貿易業者たちが、各地で活躍していた。それらの製品が、今日、南ロシア一帯から、他の素材のローマの製品とともに、大量に発掘されている。新羅に運ばれてきたローマン・グラスは、そうした南ロシアに運ばれてきた貿易商品が、ステップの騎馬民族たちによって、他のローマ文化を背負った文物とともに、もたらされたものであったのだ。ステップ・ルート(バイカル湖畔のイルクーツクからウラン・ウデを廻って、山越えをして、バラ・バルガンスに至り、モンゴルの砂漠を一気に南下して、大同に至り、そこから東方に向かって、龍城―平壌を経由して、新羅に至ったものと考えられるP307)上の類型品の出土が、それを物語っている。・・・
新羅が中国と密接な関係をもち、仏教文化を積極的に導入するようになると、ローマ世界との直接的な関係を示す文物の流入が、ぴたりと停止してしまうのである。もちろん、ローマ世界の5世紀末から6世紀初めにかけての大激変(465年東ローマ帝国が首都大火でほとんど全滅、476年西ローマ帝国が滅亡P310)が、新羅とローマ世界との関係を断ち切ることになったことが、ローマ系文物の流入を停止させた直接の原因であった。・・・したがって、(古新羅時代から統一新羅時代に入ると)中国との国交が始まると、次には中国を経由した(正倉院の紺瑠璃杯や慶尚北道の松林寺出土のササーン・グラスのような)ペルシア系の文物が入ってくることになるのだ。P247・260・266
(『ローマ文化王国―新羅―』由水常雄 著 新潮社2001年7月)

※3
大宝1年3月26日(701年5月8日)
《 丹波国で地震 》
大宝元年(西暦701年)の丹波国地震については、『続日本紀』 の大宝元年の三月二十六日の記事に 丹波国で 3日間地震と記されているだけである。
しかし、『丹後風土記残欠』 という文書には、この時の地震で若狭湾にあった一つの大きな島が 一夜にして沈水して、わずかに島の高い峰が二つ海上に残ったとされている(それが現存する若狭湾西部の冠島と沓島)。
http://utukusinom.exblog.jp/13504790/
>>[964] kenbon様
一般的に海から山へ追われた部族が多かったであろうことについては貴兄の意見に同意するものです。そして部族によっては、山から平坦地へおりた鴨族の分派もあったようです。※1
 
 なお、南方の隼人と東北の蝦夷とにみる律令政府の扱いの違い※2、さらに「長髄彦の兄の安日(あび)を始祖」とする「奥州安倍氏」※3をふまえると、「押し出されて北へ」という表現を「東北へ放逐された」としてはどうだろうか、とも思うものです。

※1・中鴨社の神話と神格
鴨族は金剛山の中央から南部の山麓にかけて発祥し、そこでは阿治須岐詫(あじすきたか)彦根(ひこね)神(註 高鴨社)を中心として、畑作農耕を営んでいた。その分派は弥生の中期になって、谷間の入口の葛城山下の平坦地に下りて、事代主神(註 下鴨社)をまつって水稲農耕の道をひらいた。高鴨社と下鴨社とのほぼ中間の東持田の部落にこの(註 御歳(みとし)神社=高木御歳神社、祭神は相殿が大歳神‐父‐と高照姫命‐高鴨社、下鴨社の下照姫命=高比売命と同じとみられるP164 - をまつっている)中鴨社がある。・・・農民が牛の肉を食べたことを御歳神が怒り、蝗を田に放って稲を枯らし・・・お祭りをしたところ、豊年となった。『古語拾遺』・・・忌部氏の力に負うた後の世のこと・・。朝廷でも御歳神を生産の神として取り上げた。『古事記』(須佐之男が大年神を生み、その大年神の子が、御歳神)・・・各地に御歳神をはじめ大年神、若年神をまつる神社が多く見られるが、みな同じ系列の神である。・・・御歳神が代表的な神としてとりあげられた。それは忌部氏の神道観によるものであった。
P160〜161、163 〜164(『神々と天皇の間』 鳥越憲三郎 著 朝日新聞社)

※2・「古代日本の南島文化」上田正昭
・隼人の服属と隼人舞
蝦夷と隼人は同じように夷狄視されているものの古代国家との関係では扱いが非常に違います。・・・隼人は8世紀の前半までは(ヤマト、いわゆる倭朝廷P44)抵抗していますが、8世紀の半ばから完全に服属しているわけです。ところが、蝦夷はずっと抵抗していきます。・・・ようやく終息するのが平安時代の前期です。・・・『古事記』や『日本紀』(日本書紀)には、隼人の神話はありますが、蝦夷の神話にはまったくないのです。P44
隼人の芸能は宮廷でずっとやっていますし、『延喜式』の記述でも大嘗祭でも奏されています。・・・畿内および周辺の隼人、すでに定着した隼人が隼人司の統率のもとでやっているわけです。P45 ・・・完全に王権芸能化している。・・・律令政府は、蝦夷を畿内には居住させないのです。・・・隼人は畿内と周辺にいます。周辺町の大隅は隼人が住んでいたところで、今は「住」という字になっていますが、大隅が本来です。(小生註:住之江、白髪はハヤト、サルタヒコにも連環するのか?)・・・中央政府には隼人司を置いていますが、蝦夷司というのはなく、基本的には城柵支配でした。P46・・・(小生註:『日本書紀』景行天皇の詔、ヤマトタケルの蝦夷征討に「箭(や)を頭髻(たきぶさ)に蔵(かく)し、刀(たち)を衣の中に佩(は)く。」蝦夷と神功皇后の戦術はだまし討ちという点で共通するのではないか。)P44 〜47
(『南方神話と古代の日本』中西進 編 角川選書)

※3・ニギハヤヒの栄光‐異属の誇り‐
 奥州安倍氏の流れをひくと称する安東氏や秋田氏に伝えられた系図がある。その系図を見ると、長髄彦の兄の安日(あび)を始祖としている。安日は正史に見えない人物であるが、弟の長髄彦と共に摂津国の胆(い)駒山(こまやま)に住んでおり、神武帝が東征して大和に入ったとき、長髄彦は殺され、安日は津軽に放逐されたという伝承をもち、秋田氏も安東氏もその子孫だとするのである。P182〜185
(『古代人のコスモロジー』谷川健一 著 作品社)

>>[967]


隼人と蝦夷の違いに関して僕は恭順時期の違いでしかないと考えています。
隼人は時期が良かった。目線が西に向いている時期に西側の国が傘下に入るのだから当然「利」もあり、それがそのまま後の対応となったのではないでしょうか?
対して蝦夷は古代には強大であっても衰退していきます。そしてチカラを残さず降伏となれば、そこに「利」はなく、体勢も確定後なので編入もならなかったのではないでしょうか?


故に(古代後期から)中世には東北が陸の島流し的に扱われるのではないか?と推測するものです。


この東北(北東)が鬼門の方角と一致するのは偶然ではありますが、東北がそうした扱いを受けるには必然的があると考えます。



前コメに関して沈んだ島の存在は知りませんが出雲風土記か?出雲の国造り神話には北陸と朝鮮から土地を引き寄せ縫い合わせて出雲を作った神の話しがありますが物理的な伝承でなく、文化の抽象と考えるとお二人の議論に頷くものです。
今年中にやり残した事を思い出しましたW
ドイツと日本の共通性を是非ともご教示願えませんか?(^人^)


ドイツと日本では共通性が多い事に気付きました。
以前、親方にマイスター制度(2004年かな?)について聞いたら「昔の職人や」と言われました…マイスター制度とは職業訓練か職人経験を経てマイスター資格を取得して開業や訓練生の利用ができる制度…日本では昔から職人は親方の認定で独立したり後継する。
金槌も頭が両方凸のハンマーが一般的ですが日本では片側が凸で片側が凹の玄のうが主流です。この形状の金槌がドイツにもあると聞きました。他にはノコも欧米では押し切りタイプが一般的なのに対して日本では引き切りタイプです。これは骨格の違いが影響しているそうですが、ドイツでも引き切りタイプが広く使われるそうです。
この他にも日本の特殊性である「道具に身体を合わせる」はドイツと共通するのではないか?という希望的観測からケルトの匂いを感じるものです。

現在、調査中ではありますが、浅はか者は多くに手を出して中々進歩が得られなく、何かご存知であればご教示頂けないでしょうか。

>>[969] kenbon様
ハルシュタット文化の地、オーストリアの西部に位置するハルシュタットの博物館にけるケルト関連の出土品が参考となれば幸いです。※1
なお、画像説明には、短剣とありますが、矛のようにも思えます。
サルタヒコが持つ武具にも似ているように思えます。

 また、ケルトは巨人という説があります。※2
ここから、小林惠子氏の説を思います。※3
さらに、巨人を連想させるナガスネヒコがケルトに連なる可能性を推測しています。
※1
http://blogs.yahoo.co.jp/yuuutunarutouha/33771629.html

※2
・「神武天皇と犬戎伝説」
漢の武帝が半島に楽浪郡を設置した頃から、半島も列島も本格的に史上に登場するようになった。武帝の南方と半島への進出は、いままであった民族移動をさらに加速させ、列島は南方と半島の両方から、国を形成する為政者としての渡来人を迎えることとなる。その一例が大和地方の葛城氏である。葛城氏は南方の犬(けん)戎(じゅう)伝説(犬や狼を始祖とする民族神話で
ローマの始祖、ロムルス等が狼に育てられたという伝説、ペルシャのキュロス大王が捨て子にされ犬という名の女性に育てられた伝説のようにユーラシアばかりでなく、福建・浙江省、苗族や海南島、台湾から沖縄までに広く分布する。雲南省の滇(てん)族(*1)の銅鼓の文様が銅鐸に似ていることが指摘されて久しい。)を担った民族だが、一部が半島に渡って辰韓の一国を形成する。それが「新羅本紀」の初代、赫居世と大臣の瓠氏である。
 紀元後の後漢初期に、後漢と戦い、一時、楽浪郡を手中にした高句麗の大武神王(脱解)は高句麗の初代王に比定されている。この後、彼は後漢に攻められ、日本海側の丹波に亡命し、ついで北九州に渡る。彼は北九州の諸国を滅ぼしたり、降伏させたりして制圧し、辰韓も併呑して、紀元57年、後漢に使者を送り、委奴国王として承認される。この大武神が私の考える初代神武天皇である。
 しかし、この頃、南方から北上した胡人系の月氏族(*2)が、奄美大島から大隈半島を経て北九州に現れる。彼らは奴国の存在する北九州には定着できず、二派に分かれ、一派は本州を東上して大和地方に入り、その前からいたスクナヒコ=葛城氏勢力を併呑して、広矛と銅鐸文化を持つオオモノヌシ勢力となる。このオオモノヌシ勢力が二代神武天皇にあたる。(オオムナチの大きさとスクナヒコの対比・・・オオムナチもナガスネヒコも大男であることからみて、オオムナチの異名がナガスネヒコということは十分考えられる。)
 もう一派の金(きん)閼(あ)智勢力は、おそらくオオモノヌシ勢力と共闘して、脱解の系統の奴国王の遂成を高句麗に追い出した。しかし、列島では、大武神系の北九州の奴国を中心にする勢力とオオモノヌシ系の近畿の大和勢力との間で抗争が続いた。この抗争は2世紀後半、卑弥呼の登場によって、ようやく終結することになったのである。P38、47、104〜105
(『三人の神武』小林惠子 著 文芸春秋社)


※3・ガラティア国の衰退
紀元前323年、アレクサンドロス大王の死去後、武将のひとりリシマコスがトラキアトアナトリア西部に王国をきずいたがセレウコス朝シリアとの戦いで戦死した。その莫大な遺産と支配権を部下のフィレタイロスが相続し、ペルガモンを都として王朝を開いた。・・・ペルガモン国王を名乗ったアッタロス1世(紀元前269〜同197年)のときに全盛期を迎え、・・・エジプトのアレクサンドリアと並びヘレニズム文化の中心地として栄えた。・・・
それまでケルト人に与えてきた保証料や貢ぎ物をやめ、・・・紀元前240年、・・・ペルガモンがケルト人を打ち破ったこの戦いは、後世に語り継がれることになった。(ベルリンの)ペルガモン博物館に(ギリシア神話の神々―ペルガモン王―と、巨人※―ケルト人―を意味する)「ペルガモン大祭壇」として復元展示されている。・・・この敗戦を機に略奪行為を縮小させ、やがてガラティア国自体が衰退への道を歩むようになった。・・・紀元47年には、(ギリシア神話の神々―ペルガモン王―と巨人(註)―ケルト人―を意味する)は東隣にあるおなじローマ帝国の属州カッパドキアに併合された。年月とともにガラティアのケルト人はローマ化していったようだが、ガラティアの地名はまだ根強く残り、ケルト語も4世紀ごろまで話されていたという。それはケルト人としてのアイデンティティが保たれていたことを意味している。P255〜257、261(『東ヨーロッパ「ケルト」紀行』 武部好伸 著 彩流社)
(註)ギガンテス(古希: Γίγαντες, Gigantes)で巨人族、日本語ギガスとも呼ばれる。古くは光り輝く鎧を着込み、槍や剣を持った人間のような姿に描かれたが、のちには上半身が人間、両脚が蛇の姿をした怪物として描かれた)wikipedia
               ケルトと和気氏をつなぐ猪について

 弓削道鏡即位の是非について神託を得るべく宇佐神宮に向かった和気清麻呂一行を三百頭の猪が守護したという伝承があることから、猪といえば和気氏を連想します。

 なお、猪名部氏(斎部氏)と和気氏との関連については寡聞にして知りませんが、和気氏は猪とあります。※1
さらに、「香坂王」の「坂」がサカ族を連想させます。

 一方、道鏡はサカ族の係累と類推している小生にとり、「(香坂王、?坂王)が猪に襲われて薨去しの猪とは和気氏の比喩」は意味深いものにも思えます。

 小林惠子氏は、道鏡の意向とは別に、孝謙上皇(称徳天皇)は、宇佐八幡の神託がどうえあれ、即位否定の意向を持っていたともききます。

 さて、ケルトの人は、猪を神聖視していたとききます。※2
ケルトと和気氏をつなぐもの、その鍵が猪にあるのではないか、と推測しています。

 さらに、興味深いことには、ケルトの前期文化の名称の由来ともなったハルシュタット(現ドイツ ミュンヘンおよびオーストリアのザルツブルク南西に位置)に近い両都市には猪の彫像があるというのです。※3

 もちろん、現在のミュンヘンおよびザルツブルク両都市の住民がケルトの直系であるわけではないのですが、その残照が現代に反映しているようにも思われます。


※1 忍熊王伝承について剣神社縁起の内容は『古事記』、『日本書紀』とは異なっている。『古事記』『日本書紀』の記録を確認したい。?坂皇子(かごさかのみこ)(香坂王、?坂王)が猪に襲われて薨去しの猪とは和気氏の比喩である。
http://homepage2.nifty.com/tsuruga/kibi.html

※2 轡魯鵐リー
・ブダペストのケルト人
イノシシはケルト人がひじょうに好んだ動物だ。猪突猛進じゃないけれど、ぐいぐい突き進んでいくパワフルな動きがまるでエネルギー源のように思えたのか、いつしか豊饒のシンボルとして崇められるようになっていった。だから各地の遺跡からおびただしい数のイノシシの像が見つかっている。P81〜82
(『東ヨーロッパ「ケルト」紀行』 武部好伸 著 彩流社)

※3 第13日 ザルツブルグ観光
(ヘルブルン宮殿)途中で、親子連れのイノシシ像に出会う。大きさはざっと1メートルほど。・・・バート・イシュルにもあったし、ここでもイノシシの像があるということは、ザルツブルグ地方では、このイノシシが守護神か何かなのであろう。あるいは、この地方のシンボルなのかもしれない。P203
   第14日 ミュンヘンの美術館
(世界最大のビアホールであるホフブロイハウスのビール 大1リットル「ヘル・マス」6.2€、小ジョッキ3.3€、名物バイスブルースト‐白ソーセージ‐4.2€、ミュンヒ名物馬鈴薯のクネーデル・バイラーゲ‐馬鈴薯を磨り潰して丸め、大きな団子に仕上げたもの。歯ごたえはなく、味は淡泊‐1€、ターゲス・ズッペ‐日替わりスープ‐1.55€)勘定を済ませて、ホールを出る。その出口に、どういう訳か、イノシシの大きな彫像があった。・・・ザルツブルグ、バート・イシュル、それにミュンヒと続け様に、猪の彫像があるのは、なんとも理解できない。P222
(『ヨーロッパ浪漫紀行』 杉野圀明 著 文理閣)

(ご参考)
・サズハロムバッタへ
ケルト人はヨーロッパに鉄器文化をもたらした民族だといわれている。ところが、彼らがハンガリーに到来する前から、この地にはすでに鉄器時代が訪れていた。…その時代はハルシュタット期(紀元前800〜同450年)という。換言すれば、初期鉄器時代のことで、ケルト文化が花開くラ・テーヌ期(紀元前450〜紀元1世紀)の前段階に当たる。・・・その文化圏も、オーストリアのハルシュタットを境に東西に二分されており、ハンガリーはもちろん東方文化圏(オーストリア東部、バルカン半島など)に属している。考古学では一応、ハルシュタット前期の西方文化圏(オーストリア西部、ドイツ南部、スイス、フランス東部など)の担い手がケルト人だということになっているが、東方文化圏についてはよくわかっていないという。ここハンガリーにやって来た彼らはべつのケルト人なのか、あるいはいろいろな民族との混血だったのか、はたまたまったく知られざる民族だったのか・・・。P81〜82
(『東ヨーロッパ「ケルト」紀行』 武部好伸 著 彩流社)
>>[971]

猪の分布を存じないので何ともアレですが…(^-^;)

日本では古来猪を「シシ」と呼び、鹿もまた「シシ」であり「シシ」は「肉」のことであるとされます。
これに類似、又は関連するケルトの言葉はないでしょうか?狩猟時代の記憶に繋がるヒントにはならないでしょうか?
>>[972] kenbon様

 「シシ」をケルトの言葉でなんというのかわかりませんが、「シシ」ならぬ塩は「ハル」だそうです。ケルトの人が岩塩を採掘した地「ハルシュタット」の由来だそうです。

 なお、「シシ」は「肉」とのご教示ですが、獣肉の保存においては燻製とならび塩蔵であったことは想像にかたくありません。
これは、越後の村上で有名な塩引き鮭」の製法を昨日TV番組でみたことからの類推です。

 PS
 昨年の夏、初訪問したミュンヘンの街中には、「狩猟博物館」があり、その前には、猪と鯰の銅像が対峙していました。
「日本では古来猪を「シシ」と呼び、鹿もまた「シシ」であり「シシ」は「肉」のことであるとされます。」
 ↑
 シュメルとは異なり、列島には「獅子」(シシ)は棲息しないことから、「イノシシ」がそれに替ったという可能性を、同じく獅子が棲息しない中欧において「イノシシ」にも見ることができるように思います。※
 なお、シュメルとケルトとの関連は不明なままです。

※・世界最古の長編叙事詩
メソポタミアの粘土板「王名表」に、ウルク城主のギルガメシュ王の名があるので、長編叙述詩の主人公ギルガメシュは実在した人物である。そのギルガメシュ王の業績というか、一代記が楔形文字で粘土板に書かれていたのが、「ギルガメシュ叙事詩」なのだが、その物語が当時の古代メソポタミアはいうに及ばず、エジプト、インド、さらには中国にまで伝わっていたのである。伝わっていたという証拠は、「牡牛を抱く」「獅子と格闘する」「獅子を抱く」というギルガメシュ王の画像や塑像である。このギルガメシュ特有の画像や塑像である。このギルガメシュ特有のモチーフが、エジプトのヒエラコンポリスのゲルゼー期墳墓の壁画にあり、また、ゲベル・エル・アラク出土の石製ナイフの柄にも彫刻されていた。
 当初のギルガメシュ王の画像は「左右の牡牛を両手で支える」「左右の牡牛を両腕に抱きかかえる」が普遍的なポーズというか、構図であったが・・・セム族のバビロニア人の世界へ入ると、抱く動物が「牡牛」から「獅子」へと一変してしまった。さらに、インドへ入ると、「獅子」から「虎」へと変化してしまった。インダス文明・モヘンジョダロ出土の押型印章中のギルガメシュ・モチーフの絵は、獅子であり、インド・マハーデォ丘陵の岩絵の場合にも巨大な猛虎になっている。ただし此処では.家畜の牛群を虎から守るというギルガメシュ王本来のモチーフが岩絵から十分にくみとれるような構図になっていた。P80〜84(『謎の神 アラハバキ』川崎真治 著 ロッコウ ブックス)
店先に盛り上げてある「盛り塩」は客寄せの「おまじない」とききます。
一説には、通い婚の時代、牛車に乗った夫がたちよるように、牛が塩をなめることを好む習性を利用したことが、「盛り塩」の由来ともききます。

一方、シュメルにおける牡牛神が「ハル」という名称をもちます。※
ケルトの人は塩をハルとよんだということを973にて紹介しました。ことを考え合わせると、ハルがシュメルの牛とケルトの塩とにつながります。

さらに、974において、ギルガメシュ・モチーフにおける「抱く動物が「牡牛」から「獅子」へと一変してしまった。さらに、インドへ入ると、「獅子」から「虎」へと変化」を紹介しましたが、獅子も虎も棲息しない列島および中欧において「猪」(シシ)へと変化したとすれば、塩は牛ばかりでなく猪とも連環するのではないか、と推測しています。

※ 第4章夫婦好と七枝樹二神
・殷墟婦好墓の文物
紀元前20世紀中庸の中国の中央政府の所在地は大邑商であった。今の安陽市である。・・・
殷墟の一つ、「婦好」墓から多くの遺物が出土した。・・・「銅鉞(えつ)」は「殷墟婦好墓」から出土したものの一つであるが、よく見ると、・・・左右に猛獣、中央が神人の顔なので、・・・
あのギルガメシュ・モチーフに相違ない。銅鉞(えつ)の中央部分に文字が彫られている。左側の字の「好」が、・・・地母神キという文字―七枝樹の四枝の側に坐る蛇女神キという文字。「夫婦好」の実体は、中国神話でいえば、「夫」が人身牛首の炎帝神農、「婦」が蛇身人首の風姓女媧に当る。・・・正確な「夫婦好」の実体は、起源前3千年紀初頭のメソポタミアのウルク市の守護神だった七枝樹二神、すなわちハル(牡牛神)とキ(蛇女神、地母神)であった。・・・[註・日本神話におけるイザナキ(男神)イザナミ(女神)の結婚、国生み神話のさいの天之御柱も七枝樹と考えられる。] ・・・メソポタミアのウルク市(ギルガメシュガメシュ王が住んでいた都城)から古代の中国へ七枝樹二神がとんで来たわけではない。マクラン地方、インダス川流域、ガンジス川流域、プラマプトラ川流域、西蔵、雲南等々をへて中国大陸の各地へ入ったのである。P136〜140
(『謎の神 アラハバキ』川崎真治 著 ロッコウ ブックス)
 牛と塩について、牛は塩を好むこと、盛り塩の由来は秦の始皇帝の時代に始まる、という俗説のあることがわかりました。※

 「ハル」を介してシュメルの牛とケルトの塩がむすびつくという妄想の傍証となりそうです。

※1塩と結界
・盛り塩のいわれ
 盛り塩の習俗は「塩は牛を招く」という中国の故事によるものとされ、秦の始皇帝のときにはじまるという俗説がある。
『塩のはなしあれこれ』(日本専売公社・・・広報課)
「・・・始皇帝も人間である。(三千の美女を御することは容易でない。そこで乗用車を挽く牛の歩みに任せ、牛が)止まった房子の女と歓をつくすこととした。・・・利口な一美女が馭者の宦官を買収して牛に塩を与えないこととし、一方自分の房子の門口には日暮れとともに盛り塩をしておいた。牛は食塩が好きで、それに飢えているから、門口に足をとどめて動かない。・・・その美女は皇帝の寵を一身に集めたという。」
P4 〜5(『塩と日本人』田村 勇 著 雄山閣)
 971のケルトと猪についての続編です。

 フランス人の先祖はケルト人という説があり賛否両論ともききます。
さて、フランス人が愛する樹木はシェーヌという小楢であり、ワインの樽に街路樹にと多用されるそうです。※1
 さらに、ケルト人もまたシェーヌを多産性と宿り木に聖なるものを認めていたそうです。
 ここでイベリコブタが主にドングリを食べることを想起すれば、ブタ≒イノシシ、主食であるドングリの親は小楢(シェーヌ)とケルト人がイノシシおよびシェーヌを崇拝したこととが関連つけられるように思えます。
 
 共通項は、「多産性」であり「聖なる存在」ではないでしょうか。

 このことと三内丸山における縄文人が、自然界にはみられないクリの純林を残したことを考えあわせると、ドングリ(クリ)への選好というケルト人との共通項もまた見えてくるように思えます。※2


※1 啓然
1シェーヌ(楢)
・・・フランス人がシェーヌと言うとき、日本の小楢のような落葉樹のドングリの実をつける樹木を指している。フランスのシェーヌは数種類あるが、そのドングリは日本の小楢より幾分小さく、葉はいささか大きく、歯の切れこみが深いのだが、ほぼ小楢に似た樹木だと考えていいと思う。上述したように、フランスではシェーヌがほとんど国の樹木といっていいほど人気がある。・・・
また、何と言ってもシェーヌはワインを瓶詰する前に貯蔵しておく樽の材料である。
その香りがワインの香りにつくことをボワゼ(boiser)といい、ワインの香りの重要な要素になっている。
 シェーヌは材が強靭なので、かつては造船に不可欠だった。家具材としても使われる。火力が強いので、鉄やガラスを精錬するのにも大いに利用された。私たちがバーベキューのときに用いる炭の多くは楢材である。
 楢は生命力が旺盛である。・・・フランス人の先祖はケルト人だという説がある。ローマ帝国に征服される以前、ガリア地方(現在)のフランスとベルギーのあたり)にはケルト人が住んでいた。彼らは自然宗教で、水の流れとりわけ樹木を信仰の対象としていたと言われている。勇敢だったそうだが、
闘いを組織的に行うといった才能に乏しかったので、簡単にローマ軍に攻め滅ぼされてしまい、海の彼方のスコットランドやウェールズへ、さらに海を越えてアイルランドまで逃げていった。フランスではブツターニュ地方にケルト人は舞い戻った。(しかし、カルナックなどに残っている巨大な石の遺跡は、ケルト人のものではなく、先住民族のものだと言われている。)
 そのケルト人たちがとりわけ信仰の対象にした樹木がシェーヌだったのである。理由は、第一にシェーヌの木の多産性というか、根元から切り倒されてもすぐさま3,4本の新たな枝が生え出るという生命力にあり、もうひとつは冬になり葉が枯れ落ちた梢に神が与えたとおぼしき緑色の宿り木を持つというところにあったようだ。フランスであちこちに見られる宿り木は神秘的な生命の象徴なのだ。日本では宿り木のついている水楢をごくまれに見かけるが、小楢の宿り木はそれほど一般的な現象ではない。フランスでも、宿り木など何の役にもたたず、樹木の害になるだけだと断言する人はいる。日本人は神木にしめ縄をつけたりする。基本的にはかつてのフランスでもそのようにシェーヌが重視されていたのである。当然、森林を伐採するなどということはご法度だったはずである。彼らは輪廻転生を信じていた。ところが、人間が万物に君臨すると考えるキリスト教が普及するやいなや、人々は森林の樹木を伐採し利用することに何のためらいも感じなくなっていったのである。P27〜30
『南仏オート=プロヴァンスの光と風―ジャン・ジオノの故郷を旅するー』山本省著 彩流社
※2 三内丸山における縄文人の環境開発
 三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期終末までの大規模な集落を主体とする遺跡である。年代にすると、紀元前3900年頃から紀元前2000年頃まで、実に1900年間も営まれたことが詳細な年代測定の結果から明らかになってきた。・・・三内丸山遺跡では、初期の段階から短期間のうちに(小生 註:「放置されれば、次第に土壌も厚くなり、再び(降水量が多い地域にP115 )ブナを主体とした落葉広葉樹林に復帰していくはず」であるところ、「森林に火をつけて焼き払った可能性」がありP120、降水量が少ない地域にみられるクリ、コナラ、ミズナラの仲間P115(小生 註:自然界であり得ないP84 )クリの純林が成立し(場所によってはオニグルミを伴う例も見られるが)、かつ長期間にわたってこの状態が存続したことが確かめられた。これは人為によってクリ林が作られ維持・管理されたことを示している。・・・クリは、食料、建築・土木用材、燃料用の木材などとして、多方面に利用されていたのである。P121
(『NHKスペシャル 日本人はるかな旅 第3巻 海が育てた森の王国』NHK)

 971のケルトと猪についての続々編です。

 「フランス人の先祖はケルト人という説」についておよび「勇猛であったが政治性に乏しく」にて「ケルト人の性格と猪突猛進型」であることを述べる記事がありました。※

 関裕二氏は物部氏と蘇我氏を同根とみる説を転回していますが、排仏派と崇仏派の対立ともみられる両氏族の抗争に、「各部族は孤立し、自己の目先の利益のまにまに離合集散して握み所がなく、裏切り行為も日常茶飯事」というケルト人との共通性を感じる次第です。

※ 第18章ケルト人の古代文明
・ケルト人のオッピドゥムと火葬墓文明
・・・民族の海外発展の原動力は主として人口増加の問題を解決するにあった。ギリシア人は前800年頃から海外植民活動を始め、既に南イタリア、シチリアに植民し、前600年頃には南フランスのマッサリア(マルセイユ)に入植し、フランス最初の植民都市を建設した。マルセイユの語源は「マッサリア」であるが、この語はケルト語の「湖沼地(マルシュ)」からきたと言われている。・・・フランスでは古代民族の中で、ケルト人が最大の人口を有し、ローマ人はケルト人(ゴール人)のことを「ガリア人」と呼び、彼等の住む土地を「ガリア」と称した。また、ローマではガリア人の住むフランスのことを、「ガリア・トランサルピナ」と呼んだ。カエサル(前100〜前44)の「ガリア戦記」は、カエサルがガリア人(ケルト人)を制服する8年間(前58〜前51)の記録で、ローマの元老院への報告書もほぼこのような内容であったと言われている。・その出現は極めて古く、言語学的にはインド・ヨーロッパ語族に属し、中央アジアのカザフ、キルギスあたりに住み、そこから全ヨーロッパに侵入したと考えられている。「ヘロドトス」(ヘロドトス、前484〜前425頃)に、イストロス川(ドナウ川)は、「ヨーロッパの住民の中で・・・最西部に住むケルト人の国に発し、善ヨーロッパを貫き、スキュタイに注いでいる。」(巻4、49)とあるので、前5世紀には、スキュタイ(黒海の北、ボルガの下流地方)、ペルシア、エジプトまでケルト人の名が聞こえていたものと思う。ケルト人は紀元前3000年頃から活動し始めたと考えられている。・・・ケルト人は、ヨーロッパの鉄器時代の始まりとされている紀元前1000年頃には全ヨーロッパに拡散し、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、スイス、北イタリア、ドナウ川の流域地方に定住し、後には小アジア(現トルコ)まで広がり住みついた。ケルト人は多くの部族に分かれて住み、「ガリア戦記」に現れている部族だけでも125にも及んでいる。彼等は勇猛であったが政治性に乏しく、従って民族的統一は行なわれず、各部族は孤立し、自己の目先の利益のまにまに離合集散して握み所がなく、裏切り行為も日常茶飯事であった。・・・ケルト人社会(部族)には共通の社会組織や習性があった。先ず、部族に騎士階級(貴族)ができ、次いで職人階級ができた。こうした城市を「オッピドゥム」(防壁居住地)と言った。これは「ボヘミア」(チェコ)、「ブルゴーニュ」(フランス東部)で発見されている。・・・オッピドウムの内側は広く、農耕、牧畜を行い、「自給自給」(アウタルキー)の生活をしていた。P287〜289
(『南フランス 古代文明紀行』川島清吉 著 公論社)
                                                  神の和風化
 『風土記』に関する浅田芳朗氏の著作を読んで、日下部という太陽信仰関連の地名は山陽道の陽光につながるものではないか意此(おし)、多駝は多氏、意富氏、そして太陽信仰を連想しました。※1
 また、荒荒しい神という神格は逵日出典氏によれば「辛嶋氏に伝わる伝承」とされる宇佐の神と酷似しているようにも思うとともに、「吾は日本の神と成れり」に宇佐の神における和風化を興味深く思うものです。日本神話における天降りという「垂直の思考」は、半島からの南北もしくは大陸からの東西という「水平の思考」が変容したものではなかったのではないか、と感じるものです。。※2
 さらに推測ではありますが、「遮へ」は賽の神に通じ、サルタヒコも辻において2人に1人の通行客を殺害する荒荒しい神もしくは地縛霊のような存在ではなかったのではないでしょう。
 なお、オオタに関する『播磨国風土記』の記述は、オオタ、多氏、意於氏、さらには朝鮮半島経由の江南文化にも連なるようです。※3
 オオタタネコ(『古事記』意富多多泥古 、『日本書紀』 大田田根子)も遠祖は大陸は江南の呉越であったのかもしれません。

※1『播磨国風土記』
一 風土記と古代播磨
・・・風土記が撰上されたころの播磨は、(明石)・賀古・印南(いなみ)・餝磨(しかま)・揖保(いひぼ)・(赤穂)・讃容(さよ)・穴禾(しさは)・神前(かむざき)・託賀(たか)・賀毛(かも)・美嚢(みなぎ)の12郡から成り、国府は餝磨郡に在ったと思われる。P157
二 古代遺跡と古代豪族
・・・古代の山陽道は、姫路の東郊から北上し、辻井廃寺あたりで左折し、西脇廃寺や中井廃寺の近くを経て立野を通り、さらに小犬丸廃寺あたりから琴坂を越え、与井廃寺や落地廃寺あたりを備前へ通じていたようである。・・・それとともに、日下部里あたりは山陽道と山陰地方を結ぶ、要地に当たっていたようで、土師弩級美宿禰宜(はにしのみのすくね)の造墓記事はもちろん、意此(おし)川の項にも「品太天皇のみ世、出雲の御蔭の大神、枚方里の神尾山に坐(いま)して、毎に行く人を遮へ、半は死に、半は生きけり。その時、伯耆(ははき)の人小保弖(こほて)、因幡の布久漏(ふくろ)、出雲の都伎也(つきや)の三人相憂へて朝廷に申しき」と見えることも、越部廃寺の存在とともにそれを反映するものだろう。・・・風土記には、(神前郡)多駝里の項に、「多駝と号(なづ)くる所以は、品太の天皇、巡り行でましし時、大御伴人、佐伯部等が始祖、阿我乃古(あがのこ)、此の土(ところ)を欲請ひ申しき。その時、天皇、勅(の)りたまひしく、『直(ただ)に請ひつるかも』とのたまひき。故、多駝といふ。」P163〜165浅田芳朗 (『風土記』上田正昭 編 社会思想社)

※2
第三章 八幡という神の成立
・新羅国神を香春に祀る
 ・・・朝鮮半島に近接する九州半島の古代史は、渡来人を抜きにしては抜きにして考えられない。渡来人は進んだ文化・技術をもたらしたほか、彼らの神と信仰をもたらした。
『八幡宇佐宮御託宣集』巻三と巻五に、「辛国の城、始て八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」という著名な一文がある。とりわけ末尾の「吾は日本の神と成れり」という語句は、八幡神の源が外来神であったことを示唆している。『豊前国風土記』逸文(『豊前国風土記』は現存しないが、一部の文が別の文献に引用されて残ったもの)に「昔者(むかし)、新羅の国の神、自ら度り到来たりてこの川原(かわら)に住みき、すなわち名を鹿春(かはる)の神といひき」とある。これは、香春岳(かわらだけ)(現福岡県田川郡香春町)の東麓から南麓にかけて流れる金辺川の川原に、新羅国神が天降って住みついたという意であろう。・・・これは単なる神の渡来ではなく、この神を奉祀する新羅系渡来集団の来住を意味する。八幡神はこの新羅神に源を発していることは疑う余地もない。P67〜68
(『八幡神と神仏習合』 逵日出典著 講談社現代新書)
・八幡神の顕現に関する二系統の伝承の伝承
 宇佐に入住した大神氏は、辛嶋氏を圧し、服属させたとみられる。『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』には、八幡神の顕現について、系統を異にする二つの伝承を収めている。それをまず示そう。
は冒頭に記すもので、「大御神は、これ品太天皇(ほんだのすめらのみこと(応神天皇)の御霊なり」とし、欽明天皇の御世に豊前国宇佐郡御許山(馬城嶺(まきみね))に顕現した。これを大神比義(おおがのひぎ、なみよしとも読む)が戊子年に鷹居社(たかいのやしろ)を建てて祀り、みずから祝(古くは祭祀に従事した人をさす。後には禰宜の次位で祭祀などに従った人をいう。ここでは前者の意)となる。その後、小椋山の社に遷座するという。
は,亮,傍されているもので少々長い。まず「一に曰く」として、先項で引用した「大神(おおみかみ)は、初め天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)(欽明天皇)の御世に宇佐郡辛国宇豆(うずの)高島に天降坐(あまくだります)」とあり、続いて「大和国膽吹嶺(いぶきのみね)」に移り、さらに「紀伊国名草海嶋」に移り、次に「吉備宮神島」に移り、再び豊前国にもどり宇佐郡馬城嶺(御許山)に顕現した。この後、大御神は「比志方荒城潮辺(ひしがたあらきしおべ)」(現乙廖覆とめ)社の地)に移り、ここで辛嶋勝乙目(からしまのすぐりおとめ)が参向し、ひざまずいて大御神の命を待ったところ、託宣があって奉仕を請われたという。ここで再び「一に曰く」として、次に現泉社の地に移り、泉水を掘って口手足など洗浴され、「豊前国特坐神崇志津比弯澄覆屬兇鵑里ににもとよりいますかみたかしつひめのかみ)」がこの地の泉水で造った酒を大御神に奉った(これにより後にいう酒井泉社の呼称も起こったという)。次に現瀬社の地(あるいは郡瀬社ともいう)に移り、さらに鷹居社に移る。ここで大御神は鷹と化し、御心も荒々しく「五人行三人殺二人生、十人行五人殺五人生給」という状態であった。これを受けて、乙目が崇峻天皇3年(590年)より同5年までの三年間、懸命に祈禱した結果、大御神の御心が和んだので鷹居社に社殿を建て、乙目が祝(はふり)、辛嶋勝意布売(いふめ)が禰宜(古くは祭祀に従事する人をさし、後には神主の下、祝の上に位するが、ここでは前者の意)となって奉斎した。天智天皇の御世、鷹居社より小山田社に移り、次の禰宜辛嶋勝波豆米(からしまのすぐりはつめ)が社殿を建てて奉斎した。元正天皇の養老4年(720年)、大隅・日向両国の隼人の反乱を征伐、大御神は波豆米に託宣して言った。隼人らを多く殺した報いとして、毎年放生会をおこなうように。また、大御神は波豆米に託宣した。いま、われがいる小山田の地は狭いので小椋山に移りたいと。
聖武天皇の御世の神亀2年(725年)正月27日、小椋山を切り開いて社殿を建立、大御神を移し奉った。・・・辛嶋氏に伝わる伝承であることが明確である。P83〜86
(『八幡神と神仏習合』 逵日出典著 講談社現代新書)

※3 ・オオタタネコとオオタの地名
このオオタに関して、『播磨国風土記』の揖保郡のところに次のように出てきます。
「大田の里 大田と称ふ所以(ゆえ」は、昔、呉(くれ)の勝(すぐり)、韓国(からくに)より渡り来て 始め、紀伊の国名草の郡の大田の村に到りき。其の後、分れ来て、摂津の国三嶋の賀美(かみ)の郡の大田の村に到りき。」・・・朝鮮半島の「くれ」は中国の江南地方の呉の影響を受けてできあがった地名かもしれません。そう解釈しますと、呉の勝が朝鮮半島から渡ってきたけれども、もともとは江南文化というものを携えてやってきたのではないかと考えることも可能になります。P82
(『南方神話と古代の日本』中西進 編 角川選書)
●オオタタネコとオオタマルコ(大田区丸子)の関係
多摩川沿いの大田区下丸子と丸子橋(写真:赤線部分/多摩川に掛るのが丸子橋)の「マルコ」は丸子連・丸子部に由来すると言われている。
丸子連・丸子部は藤原丸連・丸部(ワニべ)の子連・子部と見られるが、『古事記』の「丸氏」は『日本書紀』では『和珥氏』と表記されている。
Wikipedia「丸子氏」の項には以下3つの説が紹介されているが、

・大伴氏の支族
・大和の和珥氏の支族
・高倉下の末裔

多氏と高句麗族はどこかで結びついており、上記3説は矛盾しない可能性がある。
「大伴」は「意富族の伴造」であり、「大田(意富多々)」と同じカルチャーによるネーミングとみられる。
高倉下(コウクラジ)は多摩川上流の狛江(高麗ノ川)とも結びつくし、さらに上流の府中市の多摩川沿いに広がる古墳群には、かつて存在した「高倉」という地名が名付けられている。
丸子氏の支族には「円子氏(まるこし)」も存在するが、丸・円・玉は同意であり、多摩川(玉川)も同じカルチャーによる命名と見られる。
また多摩川河口には羽田(秦)があり、多氏と高句麗族には秦氏も関わりがある。
オオタタネコは「ネコ(猫)」からミャオ族(猫族=苗族)との関わりが考えられるが、
「猫」とオオタタネコの先祖オオモノヌシのトーテム「蛇」は関係があって、近江の猫の島には秦系小野氏が蛇を助けて蜈蚣を討ち、越(加賀)から入植しており,現在も「秦荘町」という地名が残っている。

>>[982] AYU様

 多摩川の上流方面に高麗川があり語音の近いこと、ご指摘にある府中周辺の古墳群の存在、さらに『小さき社の列島史』著者、牛山佳幸氏の洪水消除であるとする「ウナネ信仰」の存在に関連して教示いただいた「ウ」の発音、多摩川河口に近い大田区にある地名「鵜の木」の「ウ」の発音、これも教示いただいた「『菟』は高句麗が建国された地名『玄菟郡』を連想」させるということを考え合わせると、多摩川と高句麗とのつながりも可能性が高いように思えます。
 
 余談ではありますが、現代北京官話における猫の鳴声の擬声語は喵(miāo):であり、苗族(Miáozú )であり、猫(māo )と酷似しています。
>>[9823 AKKIYさん

「鵜の木」、『ミュージック・ライフ』誌のグラビアで初めてボブ・ディラン(まだレコードは国内で発売されていなかった)を見た時、見慣れない物(ブーツ)を履いているのを見て,どうしても欲しくなり,探し当てたのが鵜の木のワーク・ブーツ製造工場でした。
ワーク・ブーツは土方用の鉄板入り靴であり、当時,一般には販売されていなかったので、直接、工場に買いに行ったのです。
ワーク・ブーツは傾いた長屋で家内工業的に生産されていました。
このブーツ、ほんとうに頑丈で、実際に新幹線の線路工夫や土方のバイトで使用しましたが、15年以上履きました。
ところで、最初に日本コロンビアから発売されたアルバムが『THE TIMES THEY ARE A-CHANGIN』(http://bit.ly/NFAONN)でしたが、すぐさま購入しました、ぼくにとって購入した2枚目のレコードでした。その生ギター1本で歌われるフォーク・ミュージックのイメージと『ミュージック・ライフ』誌で観た都会的な恰好がどうにも一致しなくて(しかしながら、どっちも凄く好きになり)悩みましたが、グラビアのボブ・ディランがすでにロックに転向した後の写真であったことを知ったのは2年ほど経ってからでした。
ぼくにとって「鵜の木」はユダヤ人と繋がっているのです。

ところで、多摩川周辺の地名と高句麗の関係は詳細に調べて行けば、もっと多くの状況証拠が見つかると思えます。
多摩地方に、たまたまかどうかわかりませんが、「国領」がありますが、これも高句麗の現地読み「こくりょ」を彷彿とさせますね。
わたしが以前から注目しているのが、相模高倉郷から武蔵高麗郡にいたる間を追っていくと、さながら高句麗を意味する地名とともに、「泉」地名が必ず隣接しているという事実です。こちらについての考察は既に著書にしたためてありますが、いまかいまかと出番を待っているのですが・・・

オオタタネコのネコは根子で、つまり「ルーツ」という意味なので、ニャンコの猫と一緒にしてはいけないと思います。
>>[985] おおものぬし[ウタ]様

 シュメル神話でしたか、「種」の神の語源を貴兄から以前伺いましたことを思い出しました。
姓では「多根」「種(たね)」があることを知りました。するとオオタタネコの裔であろうかとおもったりもします。

 高句麗を意味する地名とともに、「泉」地名とのつながりは判りませんが、「泉多摩川」という駅が小田急線の多摩川近くにあります。

 高句麗関連といえば、同じく小田急線の多摩川そばの駅名に「狛江」があります。現東京都の「狛江市」は、近世後期においては「和泉村」と称したといいます。※

 なお、多摩川沿いの地名である「鵜の木」は大田区に含まれることから、すわオオタタネコつながかりか、と思い立ちましたが、良く考えてみれば東京市35区制が23区制に改編されたとき、旧大森区と蒲田区を合併させたことから、「大」「田」それぞれを旧の区呼称から採用したものであることを思い出し、夢想におわりました。

※ 3宇奈根地区の地理的特質と「ウナネ」の語源
 一般に多摩川の水が灌漑用水に利用されるのは近世にはいってからであったし、とりわけ宇奈根村については。『新編武蔵風土記稿』に「和泉・岩戸・駒井・喜多見4村の残水を以て田地の用水となせり」と記されるように、近世後期においても、その用水確保は周辺4カ村の「残水」(六郷用水よりの分水、当時正式には「宇奈根村新田用水」1743年12月の宇奈根村新田用水掘解1件証文P262 注94)に頼っていたのが実情であったからである。・・・近世においては、宇奈根村を含めた多摩・荏原両郡の大部分の村々の水利は、和泉村(現東京都狛江市のうち)内で多摩川から引水した六郷用水、およびその分水に依存していたのだが、このことは一方で、当時多摩川からの取水が技術的に容易ではなかったことを意味している。要するに、宇奈根地区は多摩川に面しているとはいえ、「用水の取水口」とは無縁の地であったのであり、ウナネ社が存在していたとみられる中世以前には、そのことはなおさらであったろう。・・・伊賀国の名張川ほど顕著ではないが、ウナネ社の鎮座地ないしは「ウナネ」の地名の残る場所は、いずれも河川が(橘千蔭も前引の歌で「うなねつきぬき」と本歌取りした。『延喜式』の祈年祭祝詞の「宇事物頸根衝き抜来て,皇御孫命の宇豆の幣帛を称辞竟へ奉らくと宣ふ」「あたかも鵜が頸を水中に衝き入れるように、首を前へ深く垂れ下げて敬い拝し、皇祖神の御子孫の貴く立派なお供え物を、讃辞を尽くして献上するように言ってきかせます」P209 〜210)大きく湾曲して突き出たところに位置しているのである。…(「暴れ川」、「荒れ川)の多摩川流域の中でも、「宇奈根」地区は河川の蛇行が造った半島状地形の由に、洪水の際には最初に分断されやすく、最も被害を蒙りやすい場所であったとみられる。・・・そのほか、「宇奈根」地区の小字名には前にも触れた「中島」、あるいは「龍王」といった興味深いものが現存することも注意される。・・・「龍王」は正しくは「八大竜王」という、『法華経』序品に説かれる八つの龍王の総称に因む地名と考え荒れる。八大龍王は水を司る神で、とりわけ、雨乞い、もしくは逆に降雨を抑えるために信仰された。(源実朝が捧げた一首「時によりすぐれば民のなげきなり 八大龍王雨やめたまへ」『金槐和歌集』の八大龍王に因む)後者に由来する地名として代表的なものに、釜無川東岸に位置し、今も信玄堤が残ることで知られる山梨県中巨摩郡の龍王町がある。すなわち、この地名の残るところは、かつて洪水除けのために、しばしば止雨祈禱が行われた地であったことを示唆しているのである。以上のようにみてくると、多摩川流域の宇奈根の地は、洪水除けの神としてのウナネ社が成立する場所としては、地理的にも実態的にも、その条件を満たしていたと言うことができるのである。P209〜214(『小さき社の列島史』牛山佳幸 著 平凡社)

●オオタタネコとオオヤマトネコの関係
記紀によればオオタタネコは崇神天皇の御代(3世紀〜4世紀初め?)に現れるから、
少なくとも、712年にはその存在が知られたことになる。
記紀以外にオオタタネコが登場するのは
大直禰子(オオタタネコ)を祀った
大神神社摂社大直禰子神社(オオタタネコジンジャ)だが、
この神社は使用されていた用材から
その前身は奈良時代後半に創建された神宮寺、大神寺だったとみられる。
つまり、大神神社に「大直禰子」が現れたのは、
古事記成立より後の時代ということになる。
大神神社摂社大直禰子神社は通称「若宮さん」で通っているが、
名古屋市(中区大須)の大直禰子神社は通称「御空猫(おからねこ)」で通っている。
ただし、おおものぬし[ウタ]さんの言うように「禰子=猫」とは限らない。
だが、『作物志(さくもつし)』にはこの神社を舞台にした
『御空猫』の伝承(http://bit.ly/1eyJ6vT)が存在する(おから猫図版)。

根古屋NEKOYA
   NAGOYA名古屋←那古野

「根古屋」という地名は列島各地にあるが、名古屋市内にも存在する。
名古屋に大直禰子神社があるのはたまたまじゃないかもしれない。
「根古屋(根小屋)」や「根城」の「根」には「根拠地」の意があり、
[ウタ]さんの言う「ルーツ」と繋がっているので、
「根子=根古」とみていいかもしれない。
ただし、大直禰子神社と那古野は比較的近くにあるが、根古屋は近辺ではない。
オオタタネコはしらべてみた限りでは古事記以前の記録には登場しないようだ。
オオタタネコともっとも音が重なる名称を持つ人物が
大倭根子天之廣野日女尊(オホヤマトネコアメノヒロノヒメノミコト)だ。
漢風諡号では持統天皇と呼ばれる。
「根子」名を名前に含む天皇とその関係者をすべて以下にピックアップしてみた。


  7代 孝霊天皇 大日本根子彦太瓊尊      『日本書紀』
          (おおやまとねこひこふとにのみこと) 
          大倭根子日子賦斗邇命     『古事記』(712年成立)
  9代 開化天皇 稚日本根子彦大日日尊     『日本書紀』
          (わかやまとねこひこおおびびのみこと)
          若倭根子日子大毘々命 
 12代景行天皇と八坂入媛命の息子 稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)
 22代 清寧天皇 白髪武広国押稚日本根子天皇  『日本書紀』
          (しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)
          白髪大倭根子命        『古事記』
★41代 持統天皇 大倭根子天之廣野日女尊    『続日本紀』
          (おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
★42代 文武天皇 倭根子豊祖父天皇」      『続日本紀』
         (やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)
★43代 元明天皇 日本根子天津御代豊国成姫天皇」『続日本紀』
          (やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの
           すめらみこと)
★44代 元正天皇 日本根子高瑞浄足姫天皇 
          (やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)
★46代 孝謙天皇 倭根子天皇
          (やまとねこのすめらみこと)
 50代 桓武天皇 日本根子皇統弥照尊
          (やまとねこあまつひつぎいやてらすのみこと)
 51代 平城天皇 日本根子天推国高彦尊
          (やまとねこあめおしくにたかひこのみこと)
 53代 淳和天皇 日本根子天高譲弥遠尊
          (やまとねこあめのたかゆずるいやとおのみこと)
 54代 仁明天皇 日本根子天璽豊聡慧尊
          (やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)

その名前が記載された資料の解っているものは名前の後ろに記した。
このラインナップを眺めていると気付くことがある。
まず、「日本or倭」と「根子」がセットになっていることだ。
7代天皇オオヤマトネコヒコフトニノミコトと
22代シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコのスメラミコトの名は
記紀編者による創作として、
根子と組み合わされた国名「倭」から「日本」への切り替えは
661年生まれの元明天皇の時代に起きている。
これは663年の白村江の戦いで倭国が滅びたからとみていいだろう。
つまり、「倭根子」の名前を持っている皇族は倭国時代の人たちであり、
「日本根子」の名前を持つ天皇は倭国が滅び、
唐の傀儡国家=日本になって以後の天皇たちなのだ。
頭に「★」の付いた天皇は皇室祭祀から除外された8天皇、
つまり天武系の天皇のうちの5人だが、記紀は43代元明天皇の代に成立し、
41代持統天皇までの時代が記述されている。
それは記紀が天武系皇室のために編纂されたものであることを物語っており、
実は「根子」の名が最初に使用されたのは持統天皇が没した時であり、
「根子」の名を持つ持統天皇以前の皇族の名前は
記紀編纂時に創作されたものである可能性がある。
そればかりか、和風諡号自体が
実際には持統天皇から始まったものである可能性が高いのだ。
そして「オオタタネコ」という名は
持統天皇の諡号から創作されたものである可能性はないのだろうか。
それから、漢風諡号の方も天武系天皇が断絶する直前の
47代淳仁天皇の代(762〜4年)に一括撰進されており、
天武系皇室のために撰進されたものとみられる。

ところで、「根子」が「ルーツ」という意味なら、
「大倭根子天之廣野日女尊」は
「意富族の大和出身で高天原の姫」とでもなるのだろうが、
ほんとうに「猫」とは無関係なのか。
持統天皇の妹、元明天皇は名を阿閇皇女(あへのひめみこ)と言った。
阿倍氏もそうだが、「あへ」と言う名は
ミャオ族(猫族・苗族)の始祖「アぺ(祖父)」と近いのだ。
ねこのことを考えていたのですが、猫はよく寝るので「寝子」ではないかと、調べてみましたら
http://gogen-allguide.com/ne/neko.html

猫はネズミ退治に奈良時代に中国から移入されたということです。猫の漢字は漢時代までなく、「狸」があてられていたという。苗を荒らすねずみを捕るというところから、これにけものへんをつけて「猫」がつくられたとも、「苗」の音が猫の鳴き声に似ているからとも言われます。

我が国古代においてミャオ族との関係は大いにあると思われますが、『記・紀』におけるネコは「根子」に落ち着くんではないでしょうか。
「泉」に関してですが、高句麗の大莫離支・伊梨柯須彌の唐での表記は「泉蓋蘇文」と言った。
実際には「淵蓋蘇文」だったのが、唐の高祖・李淵を避諱したものと言われると、Wikipediaでは説明されている。
ところで、伊梨柯須彌は『日本書紀』に遺言が記録されている唯一の外人なのだが、大海人皇子説のあることで知られている。
「伊梨柯須彌=大海人皇子」説は日本の正史に外人の遺言を記録する必然性が無いことから、『日本書紀』が裏書きになっている。
私見だが、役小角は伊梨柯須彌と同族と見ているのだが、「役(エン)」の元字は「淵(エン)」だったのではないかとみている。
「役」は「エキ」とは読むものの、日・韓・漢のどこも「エン」とは読まない。
「淵」の文字を名に持つ国内の歴史上の人物は南淵請安・義淵・賀茂真淵だが、

南淵請安は高向玄理とともに唐に留学した人物として知られるが、「高向」が「高句(麗)」のアレンジ、「クロ(玄)」も「黒=コク(高句)」を暗示しており、高句麗系の人物である可能性が高く、南淵請安自身も「淵」で高句麗の大莫離支と繋がっており、高句麗系の人物である可能性がある、

義淵は天武天皇(淵蓋蘇文 )から名前をもらい、列島で養育を受けた人物だから,何の不思議も無い。


賀茂真淵は賀茂氏だから役小角と同族である。
役小角が温泉開発者として知られているのは「役=淵」であるからである可能性がある。
>>[990]


この「本来はそう読まない」というのに興味津々です。

僕が気になっているのは「ヤマト」ですが倭も大和も日本もヤマトとは読めない…この辺りに漢字創世記の不思議を思うのは間違いでしょうか?
>>[991]

まず、『三国志』に記述されている列島初出の国「邪馬壹国(ヤマイ)」は『後漢書』にある「邪馬臺国(ヤマト/ヤマタイ)」の書き間違いだとする説は「臺」が「*lˁə」「 i」「yí」、つまり「イ」とも発音するから、単に採用した当て字の違いであり、書き間違いとは考えられず、発音は「ヤマイ」が正しいと思われます。
ちなみに朝鮮語の発音では「ヤマイル」となります。
「ヤマイ」が「ヤマト」に転訛される可能性はもちろんあります。
「倭・大倭・大養徳・大和・日本」の中でもっとも初期に使用された記録が「倭」で、280年〜297年に編纂された『魏書』に使用されていますが、著者の陳寿が「ヤマト」と読んだ可能性は低いですね。
「倭=チビ」の意味で使用されたと思われ、「wēi」や「wo」に近い音だった可能性が高い。

WAINU=委奴(チビな奴ら)→漢・委奴・国王(3行刻印) ※「委」は「倭」の減筆と考えた場合
 AINU=アイヌ(聖なるイヌ)

話を戻すと、列島で7世紀後半以前に一般的には「ヤマト」に「倭」は当てられていなかったことは政治的な意図の少ない『万葉集』で当初、音に漢字を当てた「夜麻登」が使用され、「倭・大倭・大養徳・大和・日本」は使用されていないことから推測できます。
ただ、国政では7世紀後半から701年までの期間に、国号は「倭・大倭」から変更され、「日本」と定められている。
おそらく、万葉集での「倭」の初出は「倭姫王(やまとのひめおおきみ)」の名で,668年に天智天皇の皇后として立后している。
つまり、「倭」を中国人は297年から使用していたものの、列島では最大でも7世紀後半以降の33年間しか使用されていなかった可能性があるわけです。
当然です、蔑称なんだから。
ではなぜ、倭姫王は蔑称を使用したのか。
それは天智天皇が唐の傀儡政権だったからです。
「日本」を採用したのは文武天皇であり、採用された701年に役小角は列島から姿を消しています。

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