ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

地球伝承 〜 古代から未来へ 〜コミュのつぶやきサロン Vol.5

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

管理人です。
長らくこのコミュから休眠状態でしたが、ぼちぼち復活しようかと思います。

記念に「つぶやきサロン」を更新して Vol.5としました。


なお、↓バックナンバーはこちらから。

Vol.4
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26779902&comm_id=1384494
Vol.3(磐座、巨石信仰)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=18231785&comm_id=1384494
Vol.2
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=13306518&comm_id=1384494
Vol.1
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=11072893&comm_id=1384494

コメント(74)

 タチバナの果実の香

 常緑から常世のイメージをタチバナの実ではなく、常緑の葉に求めたと思っていました。

 今回、果実の実の香に南方の思いを古代の日本人は感じたこと、柑橘類が洗濯に用いられた、という谷川説を読みました。※

 オトタチバナヒメの衣からは、シーカーサーの実の香がしたのかもしれません。小生が、船材となり懐かしい香のするクスノキとともにタチバナ、ツマヨウジとなるクロモジに惹かれるのも航海民族の末裔であるからかもしれません。

 なお、日本で人気のあるフレグランスは、柑橘系と聞いたことがあるように思います。
祖先から受け継いだ、南方の思いをここにものこしているからだとすれば興味深いことだと思います。

※この二つの挿話(垂仁天皇のためにタチバナを常世に探し求めたタジマモリという垂仁帝の時代の伝承と橘につく虫―ナミアゲハまたはクロアゲハ―を大生部(おうべ)の多(おう)が長生、富貴をもたらす常世の神とした皇極帝の時代の伝承)で見ることができるように、常世とタチバナの樹とは深い関係がある。古代人はタチバナを常世の樹と考えていたことがうかがわれる。一年中香ぐわしい実をつけている樹は、常世にふさわしからである。タチバナの強い芳香が古代人をひきつけた。柑橘類にはかず多くの種類があるが、匂いの強烈なものもあれば、そうでないものもある。・・・私の考えはこうだ。日本の古代人は、(千葉県で発掘された弥生期や古墳期のクリ舟にみるように船材として適していた)クスノキ科の植物にしろ、ミカン科植物にしろその芳香に無関心ではいられなかかった。それは、日本人の祖先がたどってきた民族移動に思い出がはるかな記憶の底にしまいこまれており、この香の刺激がその原郷である常世を思い出させることになるからだ。クスノキ科の植物はそれが船材になることもあって、とおくポリネシアの航海民族の痕跡を伝えているが、いずれにしても折口の着目した(クスの一種で船材となり古い「さかき」である)タブの木、柳田の執着した(常緑の葉をもち古代のサカキを指し、喬木とならず船材とはなりえないが、忘れ難い木の香がありつま楊枝となる)クロモジがともにクスノキ科である事実にはおどろかされる。・・・沖縄では、石鹸の代わりにシーカーサーと呼ばれる小さな柑橘類の実で、衣服を洗った時代がある。そこで洗って乾かした衣服にはすかにタチバナの匂がした。衣服を蔵いこんで箪笥にシーカーサーの実を入れて置くこともしたらしい。『古今集』の歌に有名な「(五月待つ)花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(読人知らず)というのはおそらくこのことを指したものではないだろうか。・・・タチバナは記紀万葉の時代から常世の樹であった。タチバナやクスノキ科は植物の匂いが、かつて南の国からやってきた日本人の足跡の記憶を伝えているとすれば、常世もまたけっして架空の国ではなく、なにがしかの現実的な根拠をそなえたものであることが諒解されよう。
(民俗の宇宙?『常世』 谷川健一 著 三一書房 P305〜306)
             「常世の神」スクナヒコの両面性と両面宿儺について

 知人から両面宿儺とスクナヒコの「スクナ」つながりをきき、スクナヒコの持つ両面性に注目してもました。

「常世の神」をキーワードにしたとき、スクナヒコには、金属の神と豊穣の神という両面があるのではないか、と谷川氏著作※1,2からふと思いました。
残念ながら谷川氏は、スクという魚の豊穣祈願をスクナヒコにむすびつけてはおらず、小生の推考の域をでません。

 なお、両面宿儺の信仰が飛騨にあり、穂高、安曇といった海人族と関連ふかいこと、海人族が金属精錬を列島にもたらしたという可能性があることを考えるとスクナヒコと両面宿儺は、「海人族」というキーワードで結びつくのではないか、とも考えるものです。

※1北欧などでは小人はすぐれた鍛冶の腕前をもっているとされ、また坑夫として働くのも小人であると考えられていた。もとより伝説にすぎないが、そうした言い伝えは、はるかな時代に海を渡って日本列島にもやってきたと思われる。…小子部雷などの名が史書に見えるように、この氏族は雷と関連をもつ挿話の持主である。もしそうした眼で雷神小人の説話を仔細に見れば、それらが鍛冶とむすびついた話であることは明らかである。・・・それ(三品彰英の説く、最初はタカムスビが降臨の司令神であったのが、のちアマテラスに移った)は何をあらわすだろうか。私の考えによると、タカムスビの「天地鎔造の功」「顕宗紀」が忘れられていったことを意味する。おそらく、タカムスビが金属を鎔融し、それでもって天地を堅固に作ったという伝承が、かつてあった。それは日本に金属器が流入したときには、多くの人たちの支持を得た考えであった。タカムスビの子供のスクナヒコが常世の国からやってきて大国主命の国造りに協力するのも、そうした意味がこめられていた。しかし、金属器の流入や製作がめずらしくなくなっていった時代には、むしろ農業の生産力が誇示される。かくして、アマテラスを日神としてあがめ、農業神としてまつる信仰が前面に出現した。(民俗の宇宙?『耳と目の結婚』谷川健一 著三一書房 P152〜153)

※2沖縄本島の勝連半島につらなる伊計、宮城、浜比嘉の島々では旧の6月28日と旧8月28日の2回、シヌグ祭をする。旧の6月28日はこれらの島々に(P309常世の贈り物あるいは海神の使者とみなされていたスクが、海岸に近寄ってくると、嵐がやってきてシケがそうとおそれられ、不吉な訪問客として転倒した待遇を受ける。スクはアイゴの稚魚で食用とされる)スクが寄ってくる日にあたっている。・・・(シヌグの当日唱える)「スクナレー」は「スクナオレ」つまりスクがたくさん寄ってきてほしいという祈願の言葉にほかならない。(民俗の宇宙? 『海神祭の由来』谷川健一 著三一書房 P152、154)
                            タチバナの果実の香(続)

 35「タチバナの果実の香」の続編として食品の専門家である吉田氏の説をご紹介いたします。

 谷川説、柳田説の南方の記憶という説にとり傍証となるものと考えます。

 「タチバナやクスノキ科は植物の匂いが、かつて南の国からやってきた日本人の足跡の記憶を伝えているとすれば、常世もまたけっして架空の国ではなく、なにがしかの現実的な根拠をそなえたものであることが諒解されよう」という谷川説に関連して、吉田氏の説※1は、「酸味は砂糖や塩があると酸特有の鋭さが和らぐ」としており、かんきつ類が塩、砂糖と密接であることを紹介します。塩といえば海人族を連想します。砂糖が列島に伝来したのはかなり後世なので、砂糖の記憶が列島に古代伝来していたことはないでしょう。
 一方、「クスノキ科の植物はそれが船材になることもあって、とおくポリネシアの航海民族の痕跡を伝えている」、「柳田の執着した(常緑の葉をもち古代のサカキを指し、喬木とならず船材とはなりえないが、忘れ難い木の香がありつま楊枝となる)クロモジがともにクスノキ科である事実にはおどろかされる」を補強するものとして吉田説※2の和菓子に香りを添える「クロモジ油」の説明を興味深く思いました。 単にクロモジのつま楊枝のみでなく、和菓子におけるクロモジ油こそに郷愁をまた、ショウノウの虫除けに悪霊退治の機能をさらに、強心剤として使われるショウノウのカンファーに長寿を感じたのではないか、とも思うものです。
 
 それにしても食品についての詳しい知識が今ほど深くないであろう時代において柳田氏が持つ洞察力に驚かされます。

 柳田氏自身が海人族として遠祖のDNAを感覚的にショウノウ、クロモジに感じ取ったものかも知れません。

 さらに、クスノキ科とミカン科の植物の芳香に列島渡来の海人族はかぎりない思い出があり、その記憶がオトタチバナヒメの走水入水に反映したのであり、さらにヤマトタケルの東征も南方渡来の海人族との融合を示すものかもしれない、とも思いました。
 
※1酸味野菜のはたらき
酸味の代表は酢であるが、酢の使えない料理もある。たとえばカレーには必ず酸味のあるものを入れるが、この酸味に酢は使えない。酢の主成分は揮発しやすい酢酸だから、ツンと鼻にくるためである。果物や野菜に含まれているのは、さまざまな有機酸である。有機酸は分子量が大きくなると揮発しにくくなる。分子量の小さい酢酸のように匂うこともない。つまり食べ物の微妙な香りを生かすことができる。また有機酸の種類が違うと微妙に味が変わるうえ、果物や野菜独特の味や香りも加わる。・・・どこの国でも一番よくつかうのは≪ライム≫である。・・・ライムのない所には≪レモン≫や他のかんきつ類がある。・・・気温の高い熱帯では食べ物が腐りやすい。塩や砂糖で防腐効果を出そうとすると、大量に加えなくてはならない。その結果は塩辛すぎたり、甘すぎて大量には食べられないということになる。一方、酸の場合は、pHを4.4以下に保つだけで有害な細菌の増殖をかなり押さえることができる。・・・さらに酸味は砂糖や塩があると酸特有の鋭さが和らぐ。レモンジュースはそのままでは飲みにくいが、砂糖を加えると飲みやすくなり、酸っぱい果物に塩をつけると食べやすくなるのはこのためだ。(香辛料の民俗学 吉田よし子 著 中公新書 P170〜171)

※2木の葉の利用法
日本人に馴染みのある木という意味で≪クスノキ≫についてもちょっと触れたい。昔は虫除けといえばショウノウC10H16Oであった。そしてそのショウノウはクスノキの根や葉を蒸留して集めていた。クスノキで作った箪笥やチェストには、虫除けを入れる必要がないので大変珍重された。しかしいわゆる強心剤として使うカンフルがショウノウであることは、意外と知られてない。ショウノウはつまりカンファーは、体内で酸化されるとπ―オキソカンファーに変わり、この化合物が強い強心作用を持つのである。・・・和菓子に欠かせない≪クロモジ≫もクスノキ科の植物だ。この木に含まれるクロモジ油はその半分がモノテルペンであり、その主成分はd−α―フェランドレンである。・・・また、リナロール、テルピネオール等のアルコール類も含んでいるため、和菓子に爽やかな香りを添えてくれる。(香辛料の民俗学 吉田よし子 著 中公新書 P164〜165)
 神社葬地説を知りました。※
一般的ではないそうですが、宮地嶽神社、海人族の古墳とも連なるようで興味深くおもえました。

 穢れを嫌う神道のイメージも平安時代以降、ということも新鮮に思えました。


※神社は死穢をきわめて嫌うので一般にはまだ受け入れられておらず、また正面切って唱えられてもいないが、そうした説を口にする人は仲松弥秀、谷川健一氏をはじめ決して一人二人ではない。柳田国男自身『山宮』でそのことを暗示している。・・・
高取(正男)氏の説によると、死穢という概念が成立したのは、早くても平安時代だというのだから、これらの地方(北越から東北地方―神社の境内と土葬の墓地とが隣接しあう―)は古代風を残しているのである。・・・死穢の観念が普及するに至った中古以降の神社、とりわけ大社から勧請された神社は当然対象にはならない。そうした神社が葬所であるはずはないからである。この仮説(「神社葬地説」)の論拠は、神域内或いはその周辺に古墳のある古社がきわめて多いという事実である。・・・神社に古墳がある場合、神社の中に無関係な人間の墓を作ることも、墓の敷地内に、葬者となんの因縁もない神社を建てることも、ともに考え難い。両者は必ずや密接にむすびついており、そして古墳が先か、神社が先かと言えば、古墳が先、と考えるのが自然であろう。・・・宮地嶽神社は、・・・神域中に日本最大級の横穴式石室を持つ円墳宮地嶽古墳(終末期―高市皇子を生んだ尼子娘の父宗像君徳善の墓とされる―)があり、羨道入口には祭壇がもうけられていて、社殿の一部と化している。・・・伊勢神宮外宮の神域に高倉山があり、その上には、外宮を見下ろす位置に、7世紀中期の高倉山古墳がある。
(「南の精神誌「原初の神社を求めて」岡谷公二 著 新潮社P183〜185」
「タチバナの果実の香」の続続編

 アボガドを醤油で食べると、マグロの刺身の味がする、ということをききます。

 また、アボガドもクスノキ科で日本人にとり太古からの記憶に基づく食物の一つのようです。※

 南洋の海人族の記憶がアボガド、マグロと結びついている、といってはいいすぎでしょうか。


※(和菓子に欠かせない≪クロモジ≫は)また、リナロール、テルピネオール等のアルコール類も含んでいるため、和菓子に爽やかな香りを添えてくれる。クスノキ科の植物は、葉によい匂いを放つ精油を含む植物が多い。たとえば、果実が日本ですっかりポピュラーになった≪アボガド≫も、葉がメキシコでハーブとして使われている。・・・アボガドの葉を揉んでみると、アニスに似たよい匂いがする。アボガドの葉には精油が0.5%含まれている。そしてその中にはシソ科のバジル等と同じメチルシャビコールC10H20やウイキョウに含まれているピネン等のモノテルペン類が含まれている。
(香辛料の民俗学 吉田よし子 著 中公新書 164〜165)
皆様、お久しぶりです。

昨年11月放映の番組の再放送らしいですが、NHK‐BS2で『古代道・古代日本のハイウエー』を録画して見ました。
天智、天武のあたりの時代、国家プロジェクトとしての道路造りがあり、幅10メートルもある直線長距離道路で、古代ハイウェイだったとのこと。現在の高速道路の位置とほぼ重なっている、など、興味深い内容でした。

とすると、ずっと後の江戸時代の街道などより、よほど大規模で人工的な巨大道路だったということでしょうか? 興味は尽きませんね。


▽NHKのサイトは見つからないので、主に個人のブログからです。

http://d.hatena.ne.jp/cangael/20091203/1259805111(「古代道・古代日本のハイウエー」と箕面! - 四丁目でCan蛙)
http://d.hatena.ne.jp/cangael/20091204/1259893622(古代道と国家の形 - 四丁目でCan蛙)
http://blogs.yahoo.co.jp/tamtam1250/42297474.html(1300年前の古代道 - タムタムの旅・陶芸・モロモロ - Yahoo!ブログ)
http://keichiku.info/kd/detail.php?id=1246(京築まるごとナビ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E9%81%93%E8%B7%AF(日本の古代道路 – Wikipedia)
今朝の日テレ『遠くへ行きたい「黒田福美の京の隠れ里 紅葉の嵯峨野を歩く』で、仏像造りの場面がありました。その中で、十一面観音が左右の手に日月をかかげているものがあるのを知り、興味深く思いました。阿修羅像(絵姿)の古いものにも、そういうのがあると聞いたことがあるからです。
さらに興味深かったのは、太陽の中の三本足の烏(八咫烏)と、月の中の兎が、一対の概念らしいことでした。

兎といえば、来年は卯年ですね。よいお年を・・・。
 十一面観音は、ニギハヤヒファン(とお見受けする)小椋一葉氏によれば、ニギハヤヒであるそうです。馬もニギハヤヒであるともあります。
根拠は良く読み取れませんでしたが・・・

「十一面観音が左右の手に日月」の月は、月讀神につらなるものでしょうか。
兎といえば烏同様、鳥のように一羽ニ羽とかぞえますので、兎と烏は同類なのかともおもったりします。
烏の黒と兎の白という、色の対比もあるのかもしれません。想像ですが・・・

知恵袋※によれば、「大昔のお坊さんは、魚類や獣類を食べることが禁止されていて、鶏だけは食べることが許されていました。そこで兎の耳を鶏の羽にみたてて(こじつけて)兎を食べていたんです。」とあります。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q127654562
 天武系七方八代の天皇だけが皇室菩提寺で「不祭祀」となる謎という井沢説を知りました。※

 天智天皇前の天皇が祀られていないことは、皇室菩提寺で京都市東山区にある泉湧寺の祭祀にバイアスがかかっていることを示すものですが、天智天皇と天武天皇が別系統という見解は、泉湧寺が天皇家勅願寺となった後鳥羽上皇時代または菩提寺とされた後光厳天皇時代(井沢元彦説は後堀河天皇)にあったことを示していると思われます。
井沢説のもとになったと思われる小林惠子氏の説においては天智系とされる持統天皇(小林説では持統天皇の実態は天智天皇の子=高市皇子)が泉湧寺に祀られていないことは、鳥羽上皇時代または後光厳天皇時代には、持統天皇も天武系とされたことを意味することになると思います。
小林・関説にある持統天皇として即位したのは実は高市天皇である、という説の傍証となるのではないか、と思う一方、小林説の高市天皇は天智天皇の子であるという説を否定するものではないか、と考えるものです。つまり、高市天皇は通説のとおり天武天皇の子と考えてよいのではないでしょうか。
天武天皇のもとに天智天皇の子が4人も嫁していることは、異父同母説を含め、天武・天智天皇兄弟説を否定する有力な事実となるものといえましょう。

※天武系七方八代の天皇だけが皇室菩提寺で「不祭祀」となる謎
京都市東山区にある泉湧寺。
空海によって草創され、藤原緒嗣によって再興されたとも伝えられる古刹である。1224年には後堀河天皇によって皇室の祈願寺とされた。御寺という別名を持つように、明治以前の皇室の事実上の菩提寺であった。この寺の霊明殿には、天智天皇と光仁天皇から昭和天皇に至る歴代天皇・皇后の尊牌(位牌)を祀っている。不思議なことに、南北両朝の天皇を祀っているのに、なぜか天武系諸天皇七方八代(天武―持統―文武―元明―元正―聖武―孝謙=称徳)※だけは祀られていないのである。それだけではない。平安時代、天武系の歴代天皇陵に対しては奉幣の儀が行われていないという事実もある。
つまり、仏式・神式を問わず、天智天皇系の皇統(光仁−桓武)からなかったことにされていたのである。P48
ビジュアル版 逆説の日本史 二 古代編下 小学館 井沢元彦著
 「天皇が、伊勢の皇大神宮に参拝されなかった理由」を知りたいとおもっていたところ、原田常治氏の「古代日本正史」を再読して理解できたように思いました。

 今も11月22日夜、布留大王(ニギハヤヒ)の鎮魂祭が皇居でとりおこなわれているものか、ニギハヤヒが今も崇拝されているのか、と原田説を読み、興味深く思いました。

※(石上神宮が)布都―布都斯―布留―宇摩志麻治(*1〜4)と四代を祀り、この宇摩志麻治から政権を受け継いだのが養子の神武天皇であった。・・・その(石上神宮の「創祀、神武天皇即位元年」に)祀った日が、即位元年の11月1日(現在の22日)であることも、後で判明した。・・・崇神天皇が、(災殃頻りに至り、国内安からざりし時、宰相伊香色雄命、勅を奉じて・・・神劔を宮中より移し鎮めP183)なぜこの四代の霊位を、特に宮中から、天理市に遷して祀ったか。・・・
(1)大和平野が五カ年連続の旱魃で、冷害のため、稲が実らずに、極端に食料危機に陥った。
(2)疫病、伝染病が発生して、一時は大和中の人が、死滅するのではないかと心配したほどだった。
という記録である。
 この非常事態を、布留大王の霊にお願いして鎮めようと祈った。
そのために、石上神宮を創ったということだった。・・・以上のように、日本古代の重要な宝物(天皇継承のしるしの素佐之男から代々受け継いだ「天璽(あまつ)瑞(しるし)宝(みずの)十種(かんだから)」(十種(とくさ)神宝)、ヤマタノオロチを斬った布都御魂の剣、神功皇后に献上された七支刀等)は、大半この石上神宮に収められていることでも、この神社が、日本国の、また日本人の精神の拠り所であったことが証明される。本当の皇祖神宮は、この石上神宮だった。日本書紀以前の代々の天皇が、伊勢の皇大神宮に参拝せずに、この石上神宮に参拝された理由がこれで解明された。現在、11月22日の夜、東京の皇居で、天皇陛下が布留大王の鎮魂祭を、厳かに初代神武天皇の時からうけついで行われておられる。もちろん、同じ22日の夜、石上神宮の方でも、最大のお祭りとして同じ鎮魂祭(魂ふりの式)を行っている。これは、日本書紀、古事記等が一生けんめいウソの歴史をつくって、この天照国照大神饒速日尊を、歴史から消してしまったのと関係なく、皇室では、キチンと本当の史実に基づいて一切の行事を行っておられる証拠である。
 現在、皇居で、毎年11月22日の夜、この(神武天皇の舅であるP11)「天照国照大神饒速日尊」の鎮魂祭をとり行われておられる」
(「古代日本正史」原田常治 著 同志社P187〜189、P219)

*1 布都(ふつ)
「布都御魂」というのは、素佐之男の父親であることがわかった。
これは島根県平田市平田にある「宇美神社」に、素佐之男の父親として祀られていた。また、名古屋市中区の洲崎神社に「布都御魂、須(素)佐之男命」と父子二代が祀られていた。P186

*2 布都斯(ふつし)
神宮の解説には「布留御魂」は十種の神宝の霊で、布都斯御魂は「剣の霊」であると書いてある。・・・更に、石上神宮には「天羽羽斬剣」などと、聞いたことのない名前に書き替えてあるが、素佐之男が、ヤマタノオロチを斬った剣は、大ていの所に父親の剣を持ち出して斬ったということで「布都御魂の剣」、または韴霊(フツノミタマ)の剣と書いてある。P186

*3 布留(ふる)
次に「布留」を探したら、茨城県石岡町の総社神社に、素佐之男の子として布留大神の名が祀ってあった。これで布都と布留の中の布都斯が素佐之男の別名であることがわかった。その後、全国の稲荷神社に、祀ってある祭神名が「宇迦御魂」で、これが、素佐之男の第六子であると、京都の八坂神社に書いてあった。
また、大阪府から、美具久留御魂(みくくるのみたま)大神が大国主であると書いた神社が見つかった。それで、フツ、フツシ、フル、ウガ、ミククル等、出雲一族には、日本名と別に、蒙古満州系の名前があることが判明した。P186〜187
(石上神宮の祭神の)中心の「布留御魂大神」は、この饒速日尊だった。P182

*4 宇摩志麻治尊
宇摩志麻治尊は、饒速日尊の長男(小生 注:宇摩志麻治尊は次男ではないか、もしくは末子相続で、本家は次男である天火明命に連なる尾張氏か)で物部氏の祖であることが方々から出てきた。P186
稲作は日本が起源?という、考古学的分析があることを知りました。

http://kinosemika.blog134.fc2.com/blog-entry-1006.html
(↓きのせみかの大和撫子な生活: 稲作の起源は日本!?より)
従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由して来たとされてきたが、2005年、岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプランド・オパールが見つかっており、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出た。

水田ではなく陸稲という方法で、他の雑穀と共に食していて、主食ではなかったと考えられますが、それでも歴史観の修正を迫られるかもしれません。
 稲作は中国大陸南部から直接もしくは朝鮮半島経由で伝来した、という通説ですが、
約6000年前以前の稲作が大陸でなされていた可能性がないと、日本列島が稲作起源となるとは興味深いことです。

 歴史はどんどん塗り替えられるものだとおもいました。

 さらに新発見で新たな起源がみつかる可能性もありそうに思えます。
8月末頃、駅のポスターで目にとまりました。その時点で、すでに今年は終わってましたが、こんなお祭りがあったんだと、発見した気分。黄金(に見える)の大蛇の出し物がファンタジック。(2001ギネス認定「竹とワラで作られた世界一長い蛇」)
あとで調べてみたら、近年の村おこしでできたお祭りらしいど、民話をもとにしている。なんだか行ってみたくなる。

▽大したもん蛇まつり 越後 関川新潟見どころナビ
http://www.naviu.net/taisitamonjya08/taisitamonjya08.html

「竹とワラで作られた世界一長い蛇」は、「虫おくり」と呼ばれる稲に害虫がつかないようにワラで蛇をつくり木にかける風習に似ているように思いました。
 
 もんじや焼きを屋台で食べることができるお祭りであったことでしょう。

箸墓古墳の立ち入り調査が決まったようです。はたして何が出てくるでしょうか。

“箸墓”陵墓を巡り実った熱意 NHKニュースサイト
http://wv.nhk.jp/knews/20130215/k10015534761000.xhtml
ニュース:出雲の日御碕に「海底遺跡」!?ダイバーが発見(YouTube)

神々の海 日御碕に眠る「海底遺跡」 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=16hD1c5Hy34
引用)
アップロード日: 2011/03/18
日御碕神社は夕日の神様、朝日の神様は伊勢神宮で、対の神社。
日御碕神社の宮司さんの話から、現在は「経島」で行われている夕日の神事が
昔は経島の沖にある「タイワ」という瀬で行われていたという「言い伝え」が
あると知りました。

日御碕の海には、日御碕神社の知られざる歴史がいっぱい眠っています。

海底に眠る「亀石」。これからも何か私たちに色々語ってくれそうです。

>>[55] Dr.TOM様

 「タイワ」とは、朝日と夕日の両神による「対話」を意味する可能性があるのではないでしょうか。
>>[056] 古代縄文語由来の発音かもしれず、わかりませんが、「大和」とも「大岩」とも「大波」ともこじつけられそうです。
例えばお祭りの真理というか先人が伝えたものが現在は急速に失われつつあります。
こうした先人が遺したものを未来へ繋ぐのは僕ら現代人の使命であるとも考えますが…中々難しいのも事実です。


年中行事や日々の暮らしなどの簡単な事でも案外、大切な先人の教え、皆さんはどう考えますか?(*´∇`)
>>[58]さい)
11月23日 新嘗祭(にいなめさい)
[勤労感謝祭 (きんろうかんしゃさい)]
12月23日 天長節(てんちょうせつ)
12月31日 古札焼納祭(こさつしょうのうさい)
[お焚き上げ (おたきあげ)]
12月31日 大祓(おおばらい)
12月31日 除夜祭(じょやさい)

毎月毎日 日供祭(にっくさい)
毎月1.15日 月次祭(つきなみさい)
毎月末日 月次祭(つきなみさい)
>>[059]


相模訪問団が有意義で盛況である事をお祈り致します(^人^)

御指摘の様に年中行事としての「祭り」として考える事が大切ですね。そしてここに挙げられましたものは
七五三→子供の成長を祝う。
新嘗祭→収穫に感謝する。
天長祭→天皇誕生日。
大祓→夏冬の二回ではないでしょうか?
月次祭→毎日、毎月の感謝。

これらは例祭とされているのではないでしょうか?こうして例祭として民衆の感謝を神に伝える儀式を通して民衆に感謝することを大切にする気持ちを習慣着けるのも大きな意義だと思います。
この中で大祭はどの行事になるのでしょうか?また、その様子など分かりましたらご教示頂ければ幸いです。
>>[60] kenbon様

 横浜一之宮神社の歳時記の前半は、下記のとおりです。

 確かに稲と人の成長を祈念するもののように思われます。
5月5日の端午の節句、9月9日の重陽の節句が含まれていないことを不思議に思っています。


 横浜一之宮神社の大祭の一つである新嘗祭については、来月23日に体験する予定です。                  記

1月1日 歳旦祭(さいたんさい)
[新年祭 (しんねんさい)]

1月15日 成人祭(せいじんさい)

2月11日 建国記念祭(けんこくきねんさい)

2月17日 祈年祭(きねんさい)

2月節分 節分祭(せつぶんさい)

6月30日 大祓(おおはらい)
[茅ノ輪くぐり (ちのわくぐり)]

8月21日近い土曜日 例祭(れいさい)
[大祭 (たいさい)]
>>[061]


ご教示に感謝します(^人^)

ここで注目したいのは正月は太陽歴に変更になっているのは省いて、農業歴との対比ですね。
記憶を頼りにしますので間違いがあれば申し訳御座いませんが新年は2月初旬になります。
これは太陰暦になりますが、農業歴もほぼ同じとして考えます。二十四節気は太陰暦と農業歴に共通する思想で大祭は処暑の頃と考えられます。


これは持論で申し訳ないのですが、春祭り、夏祭り、秋祭りを周辺の神社で別々に大祭に指定していないでしょうか?
もしあるなら、それが里の範囲と考えられるのです。四季の祭りは各々が…
春祭り→農繁期への入口
夏祭り→農繁期の労い
秋祭り→収穫作業の労い
に対応しているので…
春祭り→種まき後
夏祭り→夏の終わり
秋祭り→新嘗祭の前
となる場合が多く見受けられます。

そして年2回の大祓は
夏季→梅雨明け前
冬季→積雪の頃
であると考えられます。


これらは全て農業に沿ったもので農耕民族の生活習慣であるかに思います。



春祭り→里からの祭り
夏祭り→田畑の祭り
秋祭り→山への祭り

というサイクルを大歳御祖神の信仰に似ているサイクルではないか?と考えます。

以降の話しは僕が土地の古老や祖父から聞いた話しを元に研究したもので「創作」であります。

〜年中行事としての大歳御祖神信仰〜

所謂「年神様」であり、山に坐す神、命と豊穣の神とする信仰。
年始には家の門に常緑の生命力を宿す「松」を飾ります、この松は年神様が山に坐す間の依代であり、それを用いて家屋に年神様をお迎えする。
この準備として「年の瀬」には家屋の塵を払い、清浄な聖域として「注連縄」で結界を施す。
こうして無事に年神様を迎える事で命の再生である「歳とり」を果す。「歳とり」は年神様との迎合の回数を数える「数え歳」を指す。「数え歳」とはヒトの生死に年神様が立ち会うので、産まれて1歳、年始に年神様を迎えて1歳、死んだ時に1歳と数える。

こうして家屋に招いた年神様を田畑にお移しするのが「春祭り」ではないだろうか。年神様が田畑に坐すと作物は芽吹く。やがて夏が来ると年神様は「稲妻」を用いて稲を妻とし、実りをもたらす。この時期に夏季の大祓は済んでいるので民衆も田畑も再生され穢れなき状態であると言える。この夏場の「夕立」は草木に生命力を復活させてより成長を促す。稲の開花は大暑から10日前後であるから丁度よい頃合いになる。
この年神様が稲を妻とする儀式が完了したのを感謝して夏祭りとなる。

やがて実りを迎え夏場の疲労を癒す意味でも秋祭りは収穫間近の時期になる。こうして秋祭り→収穫→新嘗祭となり秋祭りは年神様を山に送る儀式にもなっている。つまり新嘗祭の時期には年神様は山に坐すことになる。

昔の信仰では家族が亡くなると魂は3つに分かれ、一つは再生の旅へ、一つは家の梁へ、一つは神の世界へ行くと考えられた。
家の梁に宿った御霊はやがて近くの小高い丘に、そして里を見守る山に宿ると考えられたのです。


つまり、年神様は祖霊でもあるのです。これが大歳御祖神の信仰に発展したのではないでしょうか?
>>[62] kenbon様
1.「年神様」
 龍蛇信仰を持つ小生は、春宮、秋宮、上社、下社という四社からなる諏訪大社についての大林氏の説に首肯するものです。※1

 御歳神信仰は、元は鴨族が有していたが、忌部氏の神道観として列島各地に伝播したという鳥越氏の説も魅力的です。※2
 諏訪大社の「上社」、「下社」に相当するのは、鳥越氏の説に登場する「高鴨社」、「下鴨社」であるのかも知れない、と推測しています。
 

2.三分化する「魂」
 「魂」ではなく、「魂魄」に分類し、さらに七分化した「魄」が地下におりて黄泉に到るという信仰があることを奥野氏の説で知りました。※3
 三分類はアマテラス、ツクヨミ、スサノヲのように三を聖数とする思想に拠るものではないか、と推測しています。

※1 蛙狩と竜蛇
 上社本宮で正月元旦に行なわれる蛙狩(かわずがり)の神事で、大祝以下の神官が蛙を射て神前に供えるのは、伊藤富雄が想定したように、「恐らくは、蛇神に捧げる生贄だったのでありましょう」。そして、この蛙狩神事は、たんに蛇と蛙というばかりでなく、外来の征服者と土着の被征服者というイメージも伴っているらしい。たとえば、故藤森栄一氏は、「いったに諏訪神社伝承の中には、神長洩矢神がカエルで、征服者大祝がヘビだという説話が特別多い」といっている。・・・諏訪大社の下社は、春宮と秋宮とからなっていて、祭神は、この2つの宮を季節的に移動すると考えられていた。・・・この季節的移動は、春、山の神が田の神になり、秋、田の神が山の神になるという移動を思い出させるが、少しそれよりも時期が前にズレているし、どうもこれとは違うらしい。ここで私が思い出すのは、東南アジアで、インド的な古代文明の影響を強く受けたところで、竜蛇が季節的に居処をかえるという信仰が広く分布していることである。例えば、ラオスのルアン・プラバンにおいては、ナガや蛇形の精霊たちは、雨季には水田や沼などに住み、乾期には河川を巡回していると考えられている。・・・またスマトラのバタク族によれば、地下の竜蛇パネ・ネ・ボロンは3ヶ月ごとに居所を変え、東→南→西→北というようにぐるりと1年かかってもとのところに帰る。・・・下社の祭神の季節的移動もこのような系列と関係があるのではなかろうか。もしそうだとすれば、神仏習合時代における仏教的な竜蛇観の影響が考えられるかもしれない。
(『御柱祭と諏訪大社』 大林太良 (宮坂光昭) 著 筑摩書房P100〜102)


※2 中鴨社の神話と神格
 鴨族は金剛山の中央から南部の山麓にかけて発祥し、そこでは阿治須岐詫(あじすきたか)彦根(ひこね)神(註 高鴨社)を中心として、畑作農耕を営んでいた。その分派は弥生の中期になって、谷間の入口の葛城山下の平坦地に下りて、事代主神(註 下鴨社)をまつって水稲農耕の道をひらいた。高鴨社と下鴨社とのほぼ中間の東持田の部落にこの(註 御歳(みとし)神社=高木御歳神社、祭神は相殿が大歳神‐父‐と高照姫命‐高鴨社、下鴨社の下照姫命=高比売命と同じとみられるP164 - をまつっている)中鴨社がある。・・・農民が牛の肉を食べたことを御歳神が怒り、蝗を田に放って稲を枯らし・・・お祭りをしたところ、豊年となった。『古語拾遺』・・・忌部氏の力に負うた後の世のこと・・。朝廷でも御歳神を生産の神として取り上げた。『古事記』(須佐之男が大年神を生み、その大年神の子が、御歳神)・・・各地に御歳神をはじめ大年神、若年神をまつる神社が多く見られるが、みな同じ系列の神である。・・・御歳神が代表的な神としてとりあげられた。それは忌部氏の神道観によるものであった。
P160〜161、163 〜164
(『神々と天皇の間』 鳥越憲三郎 著 朝日新聞社)


※3 中国の幽霊
 日本では、‘鬼‘と書いて‘オニ‘と読んでいます。‘オニ‘というとすぐ酒顛童子や桃太郎の話が頭にうかんできて、青鬼赤鬼の姿が想像されてきますが、どうもこの‘オニ‘というものは日本で考えついた妖怪のようです。中国では、鬼と書いても、これが日本でいうところの‘オニ‘の意味にあたることばではないのです。では鬼とはなにか。これがつまり幽霊の意味にあたることばなのです。
 日本では幽霊というと大抵怨念から出現します。もっとも古い時代には、幽霊ではなくて生霊の方がずっと怖れられていたわけですが、これとても、やはり出現してくる理由は、他人を恨めしいと思う怨念からでした。源氏物語でおなじみの六条御息所の生霊などを思出していただければ、すぐおわかりのことと思います。中世以後の幽霊また然りで、要するに生霊幽霊ともに怨念という点に変りがありません。
 ところが中国の‘鬼‘すなわち幽霊は、その出現の原因がかならずしも怨念ではないのです。それにはまず中国人の考えている“たましい”は二つの成分からできているものと考えています。それはなんであるかといいますと、“魂”と“魄”とです。日本でもごく普通に魂魄この世にとどまりてとかいいますけれど、では魂とはなにかと開き直られると、さあとばかり返事に困ってしまいます。日本には“たましい”の二成分としての魂魄の観念がないからです。魂という時の、扁の“云”は、雲か烟みたいなものの形で、同時にこの魂という字の音韻を現しています。また魄という字の扁の“白”は玉の形で、同時にこの魄という字の音韻を現しています。鬼はすべてスプリットです。つまり“コン”は烟みたいに軽いもの、“ハク”はまるくて重みのあるものなのです。そこでこの“コン”の方は、ちょいちょい人間の体からぬけでることがあります。・・・では多量に“コン”がぬけでたらどうなるか、その人は枕もあがらない重い病気ということになります。しかし“ハク”の方は、“コン”とちがって重みがありますから、僧やすやすと体外にこぼれません。・・・人間が死ぬということは、“コン”も“ハク”もともに体外に去ったときのことを意味します。・・・液化した“ハク”は、だんだんしみこんで第九層すなわち九土の底に達します。と、とそこには大きな泉がありますが、この泉には人類何百億何千億の“ハク”が流れこんでいるため、黄いろくなっておどんでいます。だからこの泉を黄泉というのです。ところで人体に宿っている“ハク”は一粒ではない、大体七粒ということになっています。体外にこぼれおちるときに七粒が全部一斉にこぼれてくれれば問題はありません。どうかした都合でその一粒か二粒がのこったらそれこそたいへんなことになります。たいへんなこととはなにか、それが幽霊出現の原理となるからです。
 日本の幽霊出現の原理が、いわゆる恨めしやという一言にこもっているとすれば、これはあくまで情緒的であり、心理的でありますが、中国の方の“ハク”残存による出現原理は、構造的であり物理的であります。・・・
 概して中国の幽霊は陽気だったり美しかったり、どうかするとこんな幽霊ならちょいちょい出てもらいたいようなのが多いのです。もっとも狐や蛇のお化けにも陰惨なのが少いのですが、幽霊について特にこの感を深くします。P170 〜173
 (『中国随筆集』 奥野信太郎 著 慶應義塾大学出版会)
>>[058] AKKIYさん

年中行事としての祭りとは少し違うかもしれませんが、社をお祀りするというリアルな地勢的行為そのものに関して、3.11震災→津波以後、有名になった話がありました。

これはすごい。神社が、大津波の浸水域に沿って見事に建てられ、警告していた事を示すドキュメンタリー http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65760478.html

村の神社 なぜ流されなかったのか?― 復興へ新たな伝承の場 熊谷航氏 - 論・談:中外日報 http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2013/0622rondan.html

大地震後の津波の被害を受けない神社仏閣の秘密 - NAVER まとめ http://matome.naver.jp/odai/2139055643885277501

当初はすげえなあと思っただけですが、いろんな角度から考えてみる価値はあるかもしれません。

>>[065]

これも大きな意義ではないでしょうか。

僕は以前、静岡市に暮らして居ましたが海辺に「宮竹神社」という神社がありまして、古老の話しではこの神社より内陸部にまで浸水する津波被害の際にも無事に残った神社だそうで、確かに内陸部に「汐入」など浸水由来の地名が残る中で地形的にも少し高くなっています。
現在の避難場所は収容能力などから小中学校が選定されていますが、こうした故事、伝承などを加味する必要もあるものかと考えて居ます。


これも正に「我々現代人が繋がなくてはならない伝承」であると思います。


例えば式内社であれば1300年は天災や動乱の中で生き残っていますので、そうした記録を有している可能性は高いとも考えられますね。
コメント58で不適切な誤字がありましたので訂正させて下さい。

真理→×
真意→○


先のTOMさんのコメントの様に神社には「結果的に被害を免れた」例が沢山ありますね。それを地域の経験として神社でお祭りなどをして普段から「行きやすくした」のではないでしょうか?
神社には主祭神を「○○さん」と呼ぶ習慣もあり、こうしてコミュニティが利用しやすい場とするのも「お祭り」に込められた願いなのかもしれませんね。
>>[62] kenbon様
 議論の流に逆行するようではありますが、下記の藤田氏の説を知り、「田の神、山の神」の山とは「葉山」であり、出羽三山、鳥海山、薬師如来と関係が深いように思えてきました。

 また、「山の上にありながら海上航海者の目印となり、漁民の信仰をあつめた」ことは、少名毘古那神を介して「田の神、山の神」が海人部族が奉祭する神でもあったことを暗示しているのではないでしょうか。

※・薬師如来と出羽三山
海民奉拝の霊山は、従来、山岳信仰面からの研究が重視されてきた。・・・
五来重氏は、薬師如来に「山の薬師・海の薬師」のあることを指摘される(『日本の庶民仏教』角川書店、1985年)。・・・海の薬師には越後の有名な米山薬師があり、山の上にありながら海上航海者の目印となり、漁民の信仰をあつめた。また、京都松原通烏丸の因幡薬師は、中世まで京都随一の薬師如来として、病の平癒を祈る人々の夜籠りが絶えなかった。この薬師は海の外からきた仏であるとする伝承をもつ。五来氏は、「海の薬師」の原像を、『古事記』の出雲の美保の岬の神話に現れる少名毘古那(少彦名)の神に求められる。
少名毘古那神は、海より「帰(よ)り来る神」で、また「常世」へ去った神である。そして、「療病之方(やまいをおさむるのり)」や「鳥、獣、昆虫(ほうむし)の災異(わざわい)を攘(はら)」う禁厭(まじない)の法を教えたと伝える。海の彼方の楽土から幸せをもたらし、竜宮の原像の常世に通じる。海岸地帯に薬師や薬師堂の多い理由をこのように考えておられる。・・・そういえば、山形県の出羽三山にも薬師信仰がある。室町末期までは、三山は、羽黒山、月山、葉山であった(戦国末期から、葉山にかわって湯殿山)羽黒山の本地仏は観音で現在世の導師、月山は阿弥陀如来で未来世の化主(けしゅ)、葉山は薬師如来で過去世の教主といわれている。つまり、三山修行によって過去、現在、未来を乗り越え、大日如来の密厳浄土である湯殿山に詣でて、即身成仏を果たすのが、羽黒修行である。葉山は、薬師如来で代表される。一例として、福島県相馬郡飯舘村の葉山嶽の麓で行われている葉山信仰がある。毎年4月には山の神の祭り、10月には田の神の祭りが行われる。葉山祭には臨時の祭壇をつくって、葉山大権現を祀る。葉山大権現の神体は薬師だとされる。祭りの唱詞に「月山、葉山、羽黒の権現、並ぶに湯殿の大権現」とあることから、当地の葉山信仰、出羽三山系であると考えられる。・・・伝承では、羽黒山は海神豊玉彦の二女伯禽洲(しなとりしま)姫で、別名を玉依姫であるとし、本地仏は航海の安全を守り、海難を救う観音菩薩であるとしている。また、月山は海潮の干満と関係をもち大空を渡る船にたとえられる月読神とし、本地仏は阿弥陀如来とする。・・・由良には羽黒山を開いた能除仙の漂着伝説があって、由良の女性のあつい羽黒山信仰があるという。由良の浜は不思議と依り物が多く、・・・由良に近い西目の東源寺の本尊仏もその頭部は由良の香津の浜に漂着したとする。いまも、各種の漂着物がある。それを拾った人は、大切に仏壇や神棚に安置する。そうすると、思わぬ豊漁に恵まれたり、病人が回復したとする話が伝わっている。漂着物によって病気が治癒するといった信仰には、海より帰り来る少名毘古那神を思わせるところがある。出羽三山の近くの鳥海山の大物忌神の本地仏もまた、薬師如来とされ、垂迹神は海神豊玉彦の長女の豊玉姫であるとする伝承をもつ。羽黒山は玉依姫で、その妹といったことになる。ともに本地仏を薬師如来とし、海民の信仰があつい。・・・
  日本海沿岸には海民による薬師如来を祀る霊山が連なっている。・・・全国の「薬師」を冠する山や峠を拾ってみると、・・・圧倒的に北陸から東北の日本海側に集中している。・・・
 出羽三山の信仰のあつい由良の浜からは、近すぎて出羽三山を望むことはできない。遠海から見れば、陸地にそれが際立っている。少なくとも、北陸から東北の沿岸の航行にあたっては、薬師如来の坐す霊山を目安とし・・・リレーすれば、如来の加護を受け、安全に航海が果たせるところとなる。P173〜179 (『古代の日本海文化‐海人文化の伝統と交流‐』藤田富士夫 著 中公新書)
>>[068]

鳥海山は分かりませんが奥羽三山は修験者の山でもある様ですし、古くから山菜薬事、つまり漢方に近い薬草との関連性が考えられ、薬師如来とも繋がります。
航海中の薬草や緊急時備蓄、即ち遭難時保存食にも直結した可能性を考えます。


僕は海の暮らしに疎いので想像でしかありませんが、海人にとって「山の幸」とは非日常の生活を支える役割を担ったのではないか?と考えています。
>>[69] kenbon様

「海人にとって「山の幸」とは非日常の生活」
 ↑
 海と山とを対比するとすればハレの幸であったかもしれません。
仮に海の民と山の民をことなる生活圏の住民とすれば、月に何度か日をきめておこなわれる市で海のもの、山のものを交換したことでありましょう。

 さて、藤田氏は「陸上がり」という表現でをされています。※1」
「禊は、本来海民の習俗であり、飛騨の人々の基層に陸上(おかあ)がりした海人の伝統がある。」という『説については如何思われますか。※

 ※
 また立山連峰に薬師岳(標高2926メートル)があって、頂上に薬師如来が祀られている。かつて旧暦6月15日の祭りには厳重な物忌みが行われていた。地元、富山県大山町有峰の15歳から50歳の男子は、一週間前から精進潔斎し、真夜中に起き、塩で体を浄めて参拝に向かう。途中で、真川(まかわ)谷の冷水、太郎兵衛平の雪水、薬師岳の雪氷など三回の禊を行って頂上に着く。祭日には飛騨からも多くの信者が来て、ともに参拝したという。禊は、本来海民の習俗であり、飛騨の人々の基層に陸上(おかあ)がりした海人の伝統がある。薬師岳は、立山連峰の中では裾が広く、富山湾から円錐形をした目だつ山として眺めることができる。立山や剣岳も目印となるが、見る角度によって巨峰が平坦に連なり、必ずしも適切でない。・・・氷見市からの眺めが海上と同じ効果をもっている・・・3000メートル級の山であれば、70キロメートルほど離れていても・・・海上からの目印となる。
 日本海沿岸には海民による薬師如来を祀る霊山が連なっている。・・・全国の「薬師」を冠する山や峠を拾ってみると、・・・圧倒的に北陸から東北の日本海側に集中している。・・・
 出羽三山の信仰のあつい由良の浜からは、近すぎて出羽三山を望むことはできない。遠海から見れば、陸地にそれが際立っている。少なくとも、北陸から東北の沿岸の航行にあたっては、薬師如来の坐す霊山を目安とし・・・リレーすれば、如来の加護を受け、安全に航海が果たせるところとなる。P173〜179 (『古代の日本海文化‐海人文化の伝統と交流‐』藤田富士夫 著 中公新書)

出羽三山と鳥海山の関係は武蔵國五社と総社である大國魂神社の関係にも例えることができるのではないか。

>>[44] Dr.TOM様

2009年の古代のハイウェイg何故か気になっていました。
今回、『東京人』にて東山道が「一直線」で湿地の上すらも直進していたと知り、箕面の西国街道と同様であることを知りました。
東国においても西国にあっても、何故道幅の広い大規模な道路を造成したのでしょうか。
 8世紀の律令国家の列島において、国威発揚および軍用道路という目的が背景にあったのでしょうか。

※・謎に包まれた古代道路の発掘調査とは。
 平成22年、この国分寺市内の東山道武蔵路跡が、古代道路としては全国で初めて、国の史跡(小生註:「武蔵国分寺跡・附(つけたり)東山道武蔵路跡P90」に指定された。・・・
東山道は、7世紀に造られた駅路と呼ばれる古代幹線道路網の一ルートである。・・・
平成7年、当時は中央鉄道学園跡地として再開発を計画中だった国分寺市泉町2丁目一帯で、幅12メートルの古代道路跡が、ほとんど完全な形で発掘された。長さ340メートルに及んで、人馬の往来により堅くなった路面があり、その両側には、深さ40〜80センチ程度の側溝が続いていた。これだけ連続した規模の古代道路の発掘は、現在にいたるまで、全国でも例がないという。・・・鎌倉時代の鎌倉街道や、江戸時代の五街道などに比べて、それ以前の古代の道路などは、人馬がすれ違えれば十分な幅の、踏み分け道を整備した程度のものと思われていたわけである。ところがその後、全国各地での発掘が進み、古代の幹線道路は、想像以上に立派だったことがわかってくる。大化の改新(645年)によって古代律令制度を固めた大和朝廷が、地方の行政区画として、東山道など五畿七道を定め、各国に国司を派遣して地方の掌握に努めた時代である。道路は、そうした役人の往来、・・・軍隊の移動・・・年貢の運搬などに使われた。・・・古代幹線道路でとくに驚かされるのが、丘や谷があっても、構わずに一直線に延びている点である。・・・(小生註:JR中央線西国分寺駅の東、姿見の池として整備されている)恋ヶ窪の地点など、ちょうど野川の最源流部にあるため、西側に500メートルほど迂回させれば、谷はなくなり、こんなに苦労して道路を造ることはしなくてすむ。ところが、東山道は、ひたすら真っ直ぐにこだわり、こうした工事を成し遂げている。・・・(泉町2丁目の出土部分)南側100メートルほどの延長上にある市立第四小学校跡地を調べると、当然のように幅12メートルの道路跡が発掘された。南の延長線上では、そのすぐ南で国分寺(僧寺)と国分尼寺の境界付近を東山道が南北に貫いている。これは東山道を中心にして、この二寺の立地点が決められたことを示している。聖武天皇が全国に国分寺・国分尼寺建立の詔を出したのが、奈良時代の741年(天平13年)であり、東山道の建設はそれより古いこととなる。P 90〜91
・なぜ一直線なのか。さまざまな推測。
 武蔵国の国衙があった府中市でも、古代の官庁街だった国衙の西側で東山道が発掘されている。また、北側の延長線上では、小平市、東村山市、埼玉県所沢市でも見つかっていて、その直線区間は少なくとも7キロメートル以上にわたることが、わかっている。・・・
ちなみに、同じく国分寺―所沢間を結ぶ、明治28年に開通した川越鉄道(現・西武国分寺線・新宿線)は、東山道の東側、丘を避けるようにカーブして通っている。当然、このほうが建設に楽である。・・・山道が苦でなければ、山や谷を迂回する必要もないが、建設及び維持は大変である。・・・柳田の記述(小生註:「古代の田舎人が山阪(坂)苦にする者でなかったこと、及び路傍の清水は、今の掛け茶屋と同様に必要であった」柳田國男『武蔵野の昔』大正8年 大正8年、P92 )は、一直線の謎を解明するにあたり、ヒントの一部になるのかならないのか一概には言えないが、当初は沿道に井戸が普及していなかったと思われるので、清水の存在は重要だろう。清らかな水は、平地より山や丘の中にある。P92
(『東京人‐東京の古道を歩く‐』―巨大な古代道路東山道武蔵路の謎 内田宗治―2013 No.328 都市出版)
>>[71]

古代日本の為政者というのは、案外と大陸的な豪放磊落な感性と発想の持ち主だったんじゃないか?という、うがった見方をしてしまいますね。大陸から渡ってきた近い代の子孫だったからではないか?とかね。
日本列島改造論のルーツみたいなもんで・・・。だけど、それでは列島に散在する様々な異分子を一挙に統治するのは難しい、と経験値からわかりはじめて、逆に各地の反乱勢力が容易に交流・結託できないよう、分断統治の工作として、道を狭いままにしていったんではないか?
何の傍証もない、単なる憶測ですけどね。

具体的には、どのへんの時代からどのへんの時代までなんでしょうね。古代ロング・アンド・ワイディング・ロード体制が敷かれていたのは。
縄文以後は確かなのかな? 弥生末期〜平安初期でしょうか? もうちょっと短いかな?
>>[71]

古代日本の為政者というのは、案外と大陸的な豪放磊落な感性と発想の持ち主だったんじゃないか?という、うがった見方をしてしまいますね。大陸から渡ってきた近い代の子孫だったからではないか?とかね。
日本列島改造論のルーツみたいなもんで・・・。だけど、それでは列島に散在する様々な異分子を一挙に統治するのは難しい、と経験値からわかりはじめて、逆に各地の反乱勢力が容易に交流・結託できないよう、分断統治の工作として、道を狭いままにしていったんではないか?
何の傍証もない、単なる憶測ですけどね。

具体的には、どのへんの時代からどのへんの時代までなんでしょうね。古代ロング・アンド・ワイディング・ロード体制が敷かれていたのは。
縄文以後は確かなのかな? 弥生末期〜平安初期でしょうか? もうちょっと短いかな?
>>[72] Dr.TOM様
 武蔵国の国衙であった(現 府中市)大國魂神社の西方1卍を北は現 JR中央線西国分寺駅と南は現 JR南武線および現 京王線が交差する分倍河原駅を「一直線」に繋ぐようにして、古代の東山道が通じていることが地図によりわかりました。

 武蔵国 国衙西の東山道が、南北一直線であるのは、太陽信仰に基づく「レイ・ライン」が背景にあるのではないか、とも推測しています。

 「大陸的な豪放磊落な感性と発想の持ち主」ですが、駅をつなぐ[馬および軍馬の走行に不可欠であったのではないか、と仮定すれば大陸渡来で馬を操る為政者の発想であったのかも知れません。

2015年3月、歴史愛好家の仲間と大國魂神社を参拝した際に元宮ともいう「べき社が坪宮ときき、訪ねたところ、廃線となった下河原線(東京砂利鉄道)のすぐ脇にあることから、古代東山道は東に坪社、西に武蔵府中熊野神社をもとに建設されたのではないか、と推測するにいたりました。

 「各地の反乱勢力が容易に交流・結託できないよう、分断統治の工作として」東西の坪社および武蔵府中熊野神社を奉祭する部族に対して、「律令国家にとりその勢力を誇示する」古代東山道は築造されたのではないか、と推測しています。

 築造年代は、「宝亀2(771)年、武蔵国をそれまでの東山道から東海道に転属」の771年以前(※1)、
安閑天皇元(534)年以降(※2)ではないか、とにらんでいます。

(※1) ・東山道から東海道へ
 古代では、全国を五畿七道(ごきしちどう)に分けて行政区画としていた。・・・武蔵国は、当初東山道に属していた。東山道は近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野・陸奥の八カ国からなり、和銅5(712)年に出羽国が加えられた。官務をおびて武蔵国にくだるには、中部高地をぬって信濃国から上野国にはいり、新田(にった)郡から邑楽(おうら)郡を経て南下し、5つの駅を経て武蔵の国府に到着する。・・・上野国新田から武蔵国府まで、ほぼ直線で結んでいたのである。一方東海道は、相模国府から、三浦半島の走水(横須賀市)に至り、わざわざ海路浦賀水道を横断して上総国にわたり、下総・常陸へとむかった。縄文海進によって奥深くはいりこんだ奥東京湾の名残りが、7世紀になってもなお入江や沼沢地として、総武国境地帯に広がっており、人馬の通行をさまたげていたためと思われる。・・・しかし総武国境地帯も徐々に乾陸化が進み、8世紀後半には、相模国夷参(いさき)駅(小生註:現在の神奈川県座間市)から武蔵国内を通過して下総国府に至る道が使われるようになっていた。都から武蔵国府に行くにも、相模経由の道をとおる方が格段に便利になっていたのである。このため朝廷は、宝亀2(771)年、武蔵国をそれまでの東山道から東海道に転属させることとした。P54〜55
(『県史13東京都の歴史』竹内誠一、古泉弘、池上裕子、加藤貴、藤野敦 著 山川出版社)

(※2)・武蔵国造の乱
 4世紀の日本は、大和朝廷による国土の統一が進められた時代だった。朝廷は勢力範囲に組み込まれた地域に国造をおき、地方支配制度をととのえていった。・・ くだって『日本書紀』の、安閑天皇元(534)年閏12月の記事に、武蔵国造をめぐるつぎのような事件が記されている。
 武蔵国造笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族小杵(おき)とが、たがいに国造職を争って、なかなか決着がつかなかった。小杵は性格が粗野で、さからうことが多く、傲慢で素直なところがなかった。ひそかに赴いて上毛野君小熊(かみつけぬのきみおくま)に救援を求め、使主を殺そうとはかった。このことを知った使主は逃げだして、みやこに詣でてそのありさまを訴えた。朝廷は裁断して使主を武蔵国造とし、小杵を誅罰した。国造となった使主は、喜び感じいって、国家のためにつつしんで、横渟(よこぬ)・橘花・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)の四か所を屯倉として献上した。これが、「武蔵国造の乱」である。P37〜39(『県史13東京都の歴史』竹内誠一、古泉弘、池上裕子、加藤貴、藤野敦 著 山川出版社)

ログインすると、残り39件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

地球伝承 〜 古代から未来へ 〜 更新情報

地球伝承 〜 古代から未来へ 〜のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。