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地球伝承 〜 古代から未来へ 〜コミュの「狼(犬族)」「鷹鷲」の二大トーテムと、古代世界を席巻した鋳鉄・騎馬民族の足跡

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コミュ内全体

私のブログ&日記のコメントから発展した話題です。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1281119166&owner_id=386027 縄文遺跡で神の使いに出会う。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1289574647&owner_id=386027 なまはげのルーツに迫る。

これまでにあまりなかった視点なので、新鮮だと思いますよ。


▽Dr.TOM

犬戎伝説、または狼(犬神)信仰の関しては、ちょっと前に秩父三峰の資料を探ってるうちに、興味を持っていました。
古くは中央〜西アジアの遊牧騎馬民族⇒産鉄民族であるヒッタイト、アッシリアあたりに端を発するようですね。
http://www.raifuku.net/special/wolf/details/details_top.html
トルコ民族の前身である突厥族も狼トーテムの代表格であったとか、
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N157L100.HTM
稲荷の狐も、古くは狼や山犬の信仰と同類で、大きな差異はないとか。
http://www6.ocn.ne.jp/~kanpanda/kitsune.html

これまで一般人の間ではさほど取り沙汰されなかった分野で、にもかかわらず思ったよりも広範に分布しているのが狼信仰であり、それ故に興味津々な世界です。


▽AKKIY

 鷹鷲は、シャーマニズム、鍛冶屋と関係するそうですが、この地は銅鉄の製造、産地という関係はなかったのでしょうか。※


四天王寺の鷹」―謎の秦氏と物部氏を追って―
谷川健一 著 河出書房新社

「鷹と鷲」P19
鷹と鷲の間には、体の大小による呼称の違いがあるだけで、分類学上の区別はない。・・・エリアーデの「シャーマニズム」によると、ブリヤート人の間では、鷲に出現がシャーマン的召命の印であると考えられている。鷲と交わった人間の女が最初のシャーマンとなる例がある。ヤクート人の間では、鷲は聖樹の頂上にとまっている鳥霊とみなされている。シャーマンがそのイニシエーション的夢想の中で、宇宙樹のところに連れてこられるが、その頂きにいる至上存在は鷲の形で表される。ヤクート人の間では、さらに鷲はまた鍛冶屋と関係があるのだが、このことは鍛冶屋がシャーマンと起源的に同一であることを思わせるものである。またシベリアのオロチョン、アレウートなどの諸民族によると、「最初のシャーマン」は鷲から生まれたか、もしくは少なくともその技術を鷲から授けられたという。シャーマンは鷲の羽根で体を飾るが、これは鷲の力を借りて天空を飛翔することをあらわしている。奄美大島でもノロは鷲の羽かざりを冠にさしたことを見ると、これは必ずしも大陸だけの習俗ではなかった。


▽Dr.TOM

男鹿半島では八郎潟(八郎湖)周辺の町が鍛冶で有名だったそうです。

鍛冶神の関係では、一つ目、一本足、風神、雷神、鳥など、多くの象徴がありますが、狼(山犬)と鷲鷹トーテムも関係してるんじゃないかと、最近思うようになりました。ヒッタイト、アッシリア系の古代帝国やアジア北方系の騎馬民族などが、鋳鉄と共に狼トーテムを伝播させていたらしいという概要を摑んだからです。

たとえば身近なところでは、モンゴル相撲では両手を鷲の羽根のように羽ばたかせて舞う儀式的な踊り(勝利の舞い?)がありますが、同時にモンゴル人は狼を神として崇拝してもきました。(家畜を襲う害獣であると同時に、神の智慧と力のシンボルでもあったという、不思議なダブルスタンダードですが)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%BB%E4%B8%8A-%E5%A7%9C-%E6%88%8E/dp/4062138492

次の日記で、真山神社の狛犬の写真に不思議なオーブ映像が残っていたのも、鷲と狼という、製鉄民族の二大トーテムを現していたのかもしれません。


▽AKKIY

 男鹿半島も鍛冶と関係していましたか。

 狼(山犬)トーテムが鍛冶と関係することには、犬戎伝説が背景にあるのではないでしょうか。(根拠はありませんが)

 狼(山犬)トーテムが鍛冶と関係していたとすれば、その後狐に変身した可能性はないでしょうか。

 ところで「なまはげ」ですが、蘇民将来との関係はないのでしょうか。装束をみると連想するものです。子供が丈夫にという願いは、災害防止、豊穣にもつながるのでは、と勝手に考えています。

▽AKKIY

 狼ではなく犬が製鉄と関連する、との説をみつけました。※
言語学の説明は検証しようがないのですが、「犬は稲荷」という説は都合がよいので引用しました。

※2009/02/23
世界は犬つながり
先日書いた「赤犬、黒犬伝説」に関し、いくつかの投稿をいただいている。特に丹生神社に関しては、複数からの情報が来ています。あいにく日本の民俗学まで勉強が行き届かないので、あくまで参考に頭に入れて置く、としか言えないけれど、金と水銀が、犬族と大いに関わる事だけは間違いないようだ。
以前、日本は犬を食べないが・・・と言う記事を書き、稲荷は「いぬなり」と解釈してきた。つまり、日本の中に犬族はたくさんいたし、それなりの勢力はあったと考えてきた。
今日は視点を変えて、久しぶりに川崎真治先生の本を引っ張り出してきた。川崎氏の本は4、5冊読んだが、最終的には、受け入れられなくなった。しかし、古い著作「混血の神々」だけはかなり説得力があり、たまに引っ張り出しては、自分の考えとすり合わせることがある。この本の後に方向が変わっていった気がする。
さて、川崎氏は、犬族をアーリア人だとしている。それは高句麗の五部を考察した時に出てくるが、引用してみよう、「私がなぜ、狗加を印欧系人種であるとあえて言うのか。その論拠を示せば、いわゆる、印欧系人種と呼ばれる民族の樹立した国々の国号が、「犬」を内包しているからだ。」
En-g-land イン・グ・ランド 犬の国
G-er-man G・エル・マン  部・犬の・・・
In-d     イン・ド     犬の・・・
Ira-q イル・(ア)K   犬部族
I-ran    イル・(ア)n   犬
P-er-sia  P・エル・シイヤ 部・犬・牛
B-el-gium B・エル・ギウム 部・犬・牛
ご覧の通り、川崎氏は国の名前の中に、犬が入ってると述べる。また、鉄を表すiren,ireも犬族をあらわし、製鉄部族だったことも証明していると言う。
にわかに信じがたい話ではあるが、この理論を間違っていると言う根拠も、正しいと言う根拠もないため、比較言語学の成果を、どのように考えるかは簡単ではない。
ただし、これが正しいとなれば、日本も英国も、イラクもイランも、同じ部族がやってきて、製鉄部族としてそれなりの地位を築いたことは間違いない。それは我々が違う方面から証明してゆくしかない。ひとつの意見として、極めて重要な指摘と考えるべきだろう。
川崎理論でゆくと、夫余の四加である狗加はアーリア人で、それは高句麗では桂婁部(けろべ)になり、魏志に言わせれば、高句麗の王族だった事になる。つまり、「高氏」は犬だったのだ。
先日の記事からすれば、世界の支配者はアーリア人で、ロシアのアルタイ地方から世界に散り、それぞれに支配者になったと考えられない事もない。その割りに、韓国では大いに嫌われ、今でも大好物として食されている。そんなことしてるから、国家が分断されるのだぞ、犬はかわいがりましょうよ。いうまでもなく、アルタイは金と密接にかかわり、そこから世界に金山を求めて散っていったと言うのはとても説得力があり、彼等が直接日本へやってきて金山を押さえているのかもしれない。先日も言ったように、日本は黄金の国ジパングで、金がいっぱい詰まっているのだから。その証拠は、日本語がウラル・アルタイ系の言語だという事で証明される。
我が家は猫を飼っているが、犬も大好きだ。関係ないか・・・。
投稿日 2009/02/23 古代史 | リンク用URL | コメント (14) http://mayo.blogzine.jp/blog/cat6203655/


▽Dr.TOM

生物学の進化の順序は別として、信仰上のトーテムとしては、狼も(稲荷の)狐も犬も原点は大差なかった、という説がかなり有力らしいです。
http://www6.ocn.ne.jp/~kanpanda/kitsune.html
(ヤマイヌ・「稲荷神は狼だったのか」)

また、製鉄とこの犬族トーテムが関係深いとい状況証拠は、突厥族などを代表とするアジアの遊牧騎馬民族に狼トーテムが多かったこと。その文化的ルーツに世界最古の鉄の帝国であるヒッタイトがあり、スキタイやアッシリアなどの騎馬系の民族がそれと混交したり継承したりして、世界に伝播させていったこと。などの痕跡から、間接的に推測できるのだと思います。
http://www.raifuku.net/special/wolf/wolf_top.html
(狼神話)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4
(スキタイ - Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88
(ヒッタイト – Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2
(アッシリア – Wikipedia)

そして、これをごくおおざっぱに括ると、アーリア語族の民族が浮かび上がってくる、というのも、なんとなく頷けることです。
但し、現代においてこの「アーリア人」というのは、かなり曖昧な概念であり、個々人の思い込みの部分で語られていることが多い、と言わざるをえません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
(アーリア人 – Wikipedia)
広義で言うなら、敵対していたアングロサクソンとケルトも、みんなアーリア系になってしまうし、日本人までアーリア人の子孫だ、という説まであるくらいです。
その中で日本人一般がイメージしやすいのは、強烈な人種的優越論を掲げたヒットラーのゲルマン・アーリアンや、インドの凄まじい階級社会の頂点に立つバラモン階級のインド・アーリアンでしょうか。
したがって、非常に独善的で高慢な、知能指数は高いけれど冷血な人種差別を振りかざす人達、即ち「西洋人=白人」という図式で短絡しそうな先入観があります。

でも、私はこの図式には反対で、東洋人と西洋人という振り分けでいくなら、どちらにも属さない、両者のルーツのひとつとなっているのがアーリア(プレ・アーリア?)、というイメージがあるのです。
現在の学説で定義されているインド・アーリアンとイラン・アーリアンの以前に、アジア・シベリアから西域にかけてのアーリア人の祖がいるわけで、これこそが「鉄+遊牧騎馬民族+狼&鷲トーテム」のアーリア(の祖)なのです。
宗教的には基本的に自然崇拝+多神教ですが、(地よりも)天や星の信仰色が強く、シャーマニズムや神仙道・陰陽思想などのルーツであり、先史の古代宗教としてはミトラ教→ゾロアスター教でしょう。

▽Dr.TOM

このプレ・アーリアのうち、主に西洋やインドに流れたグループの子孫が、冷血エリート化したのだと思います。アジアから日本まで流れてきたグループは、歴史の流れの中でマイノリティとなって、裏に埋没している観があります。突厥、契丹、匈奴、高句麗、高麗などの系統がそれです。主に上信越、関東以北に「犬神グループ」として多く流入してきています。
鉄で武装した最強騎馬軍団だから、一網打尽に先住民を征服したかと言うと、そうでもなくて、最終的にはグニャグニャの陰謀と権謀術数で骨抜きにされて、手品のように摩り替え、乗っ取られたのが、現在にまで到る官僚支配の国、日本の成立基盤です。日本は硬派の侵略者によって征服された国ではないのです。

犬神信仰の民は、むしろ、歴史の転換期に、時々風穴を開けるけど、すぐに陥れられて、表舞台から退場してしまうような役回りが多かったでしょう。
これはあながち日本に限ったことではなく、世界的にも純度の濃いプレ・アーリアは一時期世界を席巻しても、さらに俗物パワーに勝るアングロサクソン(純度の薄いアーリア)とか、漢民族とかに、結局はしてやられちゃうのです。

もうひとつ謎なのは、アーリア語族とセム語族との関係です。ヒットラーが狂信していたように、両者はそれほど相容れない敵対関係だったのでしょうか。案外、近い部分もあったのではないか? 出口王仁三郎は、太古の富士高天原の神人族(『富士宮下文書』の王朝よりも、さらに万年単位も以前の話)がユダヤを含むセム族の祖であり、色白、面長で彫りが深く、ギリシア彫刻のような顔立ちをしていた、と言っていたそうです。
ここまでくると、現代人が思っているような「東洋人」のイメージは全く当てはまりません。丸顔短頭のいわゆるモンゴロイド系の東洋人というのは、神話的に言うと国津神の系統であり、「西洋人と東洋人」という分類の軸では計れないのですね。
するとアーリア系とセム系は共に天孫族であり、その天孫の二大潮流だったのではないか、というのが、私の荒唐無稽な予想なのです。さらに飛躍すると、アーリアが男性太陽神の系統であり、セムが女性星神系だったのではないかと。


▽AKKIY

 鉄・狼(犬族)トーテム・鷲・アーリア人の関連はまんざら奇説でもないということのようで、ちょっとびっくりしました。

「主に上信越、関東以北に「犬神グループ」として多く流入してきています。 鉄で武装した最強騎馬軍団」というのは、駒、高麗といった地名のおおいことからも首肯できるようにおもいます。


▽Dr.TOM

付け足しますと、日本における鉄と騎馬の民族は「上信越→関東」以外にも、南方から入ってきている形跡はあるでしょう。アジアを南下してから九州に上陸してきた、扶余・高句麗系の神武や物部氏がそれです。
出雲を侵略しつつ混交したりしながら、結局、百済系の王朝に入れ替わってますから、一過性の支配者であることは世界の雛形を演じています。とは言え、一度は中央を制覇したことで、侵略者の暴虐を働いているのも、こちら南方経由の北方民族だと思います。

一方、上信越→関東の鉄と騎馬の民族は、一度も朝廷内部の中央政権に食い込んだことはありませんね。対抗勢力として、関東武士のルーツにはなっているでしょうが。
そもそもこの上信越組は、高句麗や高麗などが滅びる時に、小人数単位で落ち延びてきた亡命グループのような気がします。それ以前の古代においても、日本海貿易を通じて列島に流入し、帰化したような人達が居たのでしょうが、軍事的に制圧するために軍団を組んで上陸したのではないはずです。
だから時々、ストレスから乱暴や悪戯をしつつも、民の生活を必要以上に脅かさないよう、人里離れた山に棲み分けつつ、必要に応じて共生する、鬼やなまはげのような伝説として、後世に伝えられたのではないでしょうか。
なぜだかこちら日本海経由の北方民族のほうが、(南方経由と同じ祖から分かれていながら)列島の先住民と融和的だったのです。京の都の「鬼」への怖れ方や、敵対排除の感覚と比べれば、なまはげへの愛着は対照的です。

常々、論じてますが、物部氏、または物部も、南方経由と日本海経由の2ルートがあるわけで、関東以北の先住(先着)物部のほうがおおらか。熾烈な権力の暗闘にさらされてきた南方経由の物部氏のほうがクセ者であると同時に、「驕れる物部は久しからず」で悲劇的です。


▽Dr.TOM

ひとつ書き忘れました。

>ところで「なまはげ」ですが、蘇民将来との関係はないのでしょうか。装束をみると連想するものです。子供が丈夫にという願いは、災害防止、豊穣にもつながるのでは、と勝手に考えています。

気づきませんでしたが、蘇民将来にもてなされた牛頭天王と、なまはげの、ファッションや功徳の共通性、・・・・・・確かに!ですよね。
スサノオと習合した牛頭天王というと、まず思い浮かぶのが祇園の八坂神社。関東の氷川神社(スサノオが祭神)には、あまり牛頭天王の影を感じないので、蘇民将来の伝説は関西より向こうが本舗なのかと思っていたら、いつぞや岩手県奥州市のセクハラ・ポスターで話題になった黒石寺の祭りが「蘇民祭」というのですよね。いったいどういういわれの祭りなのか、興味津々でした。
いまだ不明の部分は多いけれど、研究の価値はありそうです。


▽AKKIY

蘇民将来の伝説は東北ばかりでなく、伊勢にもあるとききますが、
東北は色濃く伝説が残っているように思います。


コメント(17)

▽トピック「日本化および和風化について」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=11631210&comment_count=354&comm_id=1384494
コメント346〜355に、
騎馬民族の和風化をテーマに考察がありました。

とりあえず、↓こちらにも転写しておきますので、コメントの続編がありましたらどうぞ。
▽346 AKKIY

大林太良氏の「馬の文化・牧の文化」説※1,2を読みながら、小生が関心を持つサカ族を含む遊牧民族の列島渡来および列島東国を中心にみられる馬牧畜の文化に興味を持ちました。
 
 三種神器には、騎馬民の文化の象徴武具という弓がなく剣であること、および狩猟民的文化の定義について疑問に思いながらも、「牧畜もやる、畑作もやる、狩猟もやるという形の文化」が大陸から渡来したことに同意するものです。
 
 いわば騎馬民文化和風化の基盤は、中国東北地方に萌芽していたものかも知れません。
 また、列島にサカ族が渡来し影響したとすればモンゴル系であり、欧州大陸のイラン系とは異なることを戦法の差異にみることができるように思うものです。
 直接騎馬民族が列島に渡来したものとは考えませんが、東国における馬畑作文化を思うと、半島経由ではない騎馬民渡来を推測している小生にとり興味深い内容でした。

・大林太良氏の「馬の文化・牧の文化」説抄録
1.弓は騎馬民の文化で列島にも欧州大陸にも伝わった。
2.列島ではアルタイ語系統のスキタイとか匈奴の段階における弓を使う騎馬戦の伝統を  受け、欧州大陸ではインド=ヨーロッパ語系のイラン系のサルマタイの重武装、槍を  使う騎馬戦の伝統を受けた。
3.中国東北地方において遊牧民文化は、森林の狩猟民の文化、狩猟民的要素と混合し、  列島の東国に伝わり、武士社会につながった。

※1
・騎馬の文化
紀元前2000年紀、この時代はチャリオット(chariot) の時代というように、馬が引く馬車の時代なのです。・・・チャリオットにはエリートの戦士が乗っており、雑兵は地上を走る。エリートの戦士とそうでない戦士との区別ができてくる。・・・これのきっかけが、チャリオットであったのです。・・・日本でも、たとえば、鎌倉時代をみると、身分の低い者は馬に乗って鎌倉の町に入ってはいけないという法律がありました。・・・鎌倉時代のいろいろな本に繰り返し出てくるのは、貴人のことを「うまひと」というが、これは貴人が馬に乗るからそういうのだという説明です。・・・その後の段階(小生 注:チャリオットにつぐ段階)において騎馬をするようになってくると、今度は馬に乗れる人と乗れない人という区別がでてきた。これは、大変重要なことです。
紀元前1000年ごろ、ユーラシア大陸で、鉄がどんどん使われるようになってくると、それとともに今度は馬のほうもそれとだいたい同じ時期に、チャリオットの時代から騎馬の時代に変わります。・・・そして、最初の軍事的騎馬集団を開発したのは、いわゆるスキタイであるといわれています。・・・ところで、スキタイは言葉の系統からいうとイラン語なのです。つまり、その後の時代における内陸アジアの遊牧民はチュルクであるとか、あるいはモンゴルであるとか、アルタイ語系統の民族が主流になります。ところが、その前の段階は、むしろ、インド=ヨーロッパ語系のイラン系の民族が主体であったのです。ですから、イラン系の民族によって開発された騎馬文化をアルタイ系の民族が受け継ぐわけです。・・・ヘロドトスの『歴史』と司馬遷が書いた『史記』の「匈奴列伝」とを読むと、スキタイと匈奴の文化がひじょうに似ていることに気づくでしょう。
その類似点は、次のように四つほどあります。
 一農耕をしない純粋な遊牧民であること。
 二家畜とともに移動し、定住する町や集落をもたないこと。
 三弓矢を主な武器として、全員が騎馬戦士であること。
 四戦術は機動性に富んでいて現実的であり、不利なときにはあっさり退却すること。
これは以前、オリエント博物館にいて、いまは創価大学にいる林俊雄氏がまとめたものですが、たしかにそういうことがいえるでしょう。
▽348 AKKIY

・・・騎馬民は、(日本の弓のように長くなく、短いのですが、強力な弓です。まさに馬上で射るのに適しています。P92)短くて小さいけれど強力な弓を馬上から射ていた。では、戦法はどうかというと、スキタイの場合、わざと逃げて敵に追わせ、深追いをしたところをたたいたということをヘロドトスも記しています。これはスキタイの得意な戦法で、スピードが武力になっているわけです。ユーラシアの騎馬文化においては、このように弓を使う騎馬戦が昔から伝統だったのです。ところが、ユーラシアの内部においては、その後変化が生じます。スキタイと同じ系統でイラン系の言語を話しているサルマタイやパルティアが盛んになってくるのです。この場合は、重武装というか重防御です。つまり、重い鎧を着て、馬にも鎧を着せる。そのため、馬のスピードが落ちてくる。その代わりに大きな槍をもっている。・・・この戦法は、その後ヨーロッパに入っていきます。・・・ところが、日本の場合にはサルマタイ的な形式はほとんど入らなかった。結局、スキタイとか匈奴の段階における弓を使う騎馬戦の形で日本に入り、日本で保存された。ですから、いわゆる関東武士の場合でも系列とすれば、そちらの系列を引いていると考えられます。ただ、いま述べたように、弓が(弦を外すと反対のほうに弓体が反ってしまいます。P82)弯弓
ではなく、長い弓になってしまうという形ですから、必ずしもいわゆる遊牧民文化の生活様式、あるいは軍事技術がそのまま入ってくる、または保存されたのではない、ということも、ここで述べておく必要があると思います。(P88〜93)
※2
・馬と雑穀の文化
東国の牧の文化の源流、系統に関して、私は以前から一つの仮説をもっています。・・・
古墳時代の後期、つまり6,7世紀になると東国から信濃にかけて高句麗系の文化が盛んになる、と(森浩一氏は)話しています。ことに高句麗的な積石塚などが長野県にたくさんありますが、それはやはり、高句麗系の馬の文化が発達したのではなかろうか、と考えているのです。
 私は、それを受けて、この地域の馬の文化というのは、まさに畑作の文化ではないかと考えました。というのは、関東地方の西部は、ごく最近まで谷の水がかりのいいところでは水田をつくっていたけれども、それ以外はほとんど畑作地帯でした。・・・『万葉集』の歌(巻14東歌3537番「柵越(くへご)しに麦食む(はむ)小馬のはつはつに 相みし子らしあやに愛(かな)しも」P109)をみても、馬を飼っているところでムギもつくっている。そういう関東の文化は、おそらく馬を飼い、畑作でムギとか雑穀をつくっている高句麗のような文化と結びつくのではないかと考えられるのです。高句麗というのは、朝鮮半島北部に限らず、いわゆる満州といいますか、中国東北地方の南部も高句麗でした。もともと高句麗の本拠地は、むしろ満州の方にあったわけです。・・・このように考えてくると、中央アジアに騎馬文化がひじょうに発達する、そして漢の時代、つまり匈奴の時代には、蒙古高原の方にたくさん
強大な騎馬遊牧民文化ができますが、重要なことは中国東北地方、つまり満州の方になると、そうではないということです。それは森林がたくさんあるからです。そこに入ってくる遊牧民文化は、森林の狩猟民の文化と混ざり合ったり、あるいは狩猟民的要素を受け入れて、牧畜もやる、畑作もやる、狩猟もやるという形の文化で、これが満州から朝鮮半島北部にかけて発達します。まさにそういうものが、高句麗とか扶余とか、そういう文化の元はそこからきたと思います。そしてそれが日本に入ったのです。
 ですから、先に述べたように、馬の文化は入ってくるけれども、羊の大群などは入ってこないのです。むしろ、山で鹿を狩ったり、猪を狩ったりして、それが重要な動物性蛋白源になっている。しかも、山のなかで、あるいは丘で馬を走らせている。そういうところからだんだんと、いわゆる武士の社会が出てくるのではないか。そして中世以後においてはまさにそれが日本の社会を動かす重要な原動力になったのではないか。そういう意味において、武蔵野あるいは東国の牧の問題というのは、日本文化あるいは日本社会の歴史においてたいへん重要なものなのです。(P115〜116)
(『北の神々 南の英雄 列島のフォークロア12章』「馬の文化・牧の文化」大林太良 著 小学館)
▽349 Dr.TOM

興味深い、かなりしっくりくる説でした。

高句麗自体は馬文化の原形ではなく、ミックス発展形らしいことは、韓ドラ時代劇を見ていても感じます。

当時、高句麗や扶余の周辺にも少数民族という形で遊牧騎馬民族が群雄割拠していたようで、ドラマではだいたい異国情緒たっぷりのワイルドで派手なファッションや髪型で描かれることが多い。
そして戦争や貿易などの時、彼らの力を借りるため外交交渉したりするのですが、恩賞として土地を与える約束をしようとすると、自分等は定住しないからそんな狭い土地は要らないと断られ、それが意外でおったまげるような場面もありました。

もちろんドラマのことですから、誇張やつくりごとはあるでしょうが、日本人一般よりは高句麗系の血や文化を色濃く受け継ぎ、あるいは、歴史的に身近に感じてきたであろう韓国人の中に、そういうイメージがあるということ自体が、興味深いと思った次第です。
つまり、彼らにとっても、純粋に近い遊牧騎馬民族は、エキゾチックな異民族であり異文化なのですね。

▽350 AKKIY

Dr.TOM様
 
 5月頃になるときまってTVで放映される武士姿の鎌倉流鏑馬風景に「和風化した遊牧民の末裔」を感じながらも、元寇討伐の恩賞としての領地分配に不服を持つ武家の勢力が鎌倉幕府を倒す契機の一つとなったことに、林俊雄氏が分類した「一 農耕をしない純粋な遊牧民」と東国武士の姿の間に存在する大きな乖離を感じていました。

 原理派とも称すべき江上波夫氏が提唱した騎馬民族征服王朝説を受け入れることはできないものの、騎馬民の列島渡来を捨象することもできないと感じていた小生にとり、折衷派とも穏健派ともいえる大林太良氏が提唱する、中国東北地方における騎馬遊牧民文化と畑作民文化、狩猟民文化融合説は、全てではないものの、かなりの部分肌にしっくりとする内容と思えました。

 さらに、同じ遊牧民であっても、アルタイ語系統のスキタイ、匈奴に比べると、欧州大陸ではインド=ヨーロッパ語系のイラン系のサルマタイは、まさに「エキゾチック」そのものの異民族の遊牧民であるように思えてなりません。
 遊牧民とひと口に括るのは危険であり、時代と部族の差異をよく見極めなければならない、とも大林太良説に感じた次第です。

▽351 Dr.TOM

もうひとつ言うなら、小部族単位でマイペースで素朴な移動牧畜生活を営んでいた原始的な遊牧民と、アッシリア、ヒッタイトからモンゴルに至るような、鉄器の大帝国を建国した騎馬民族への流れは、単純に結びつけていいものなのかどうか、首を傾げます。

但し、大雑把に言うと、騎馬民族は土地や定住にこだわらない、能力主義で、人材として認めれば、他民族の思想信条や文化との交雑もさほどこだわらない、という傾向があるようです。
したがって、旧い因襲に縛られて民族や各派閥が対立・膠着状態にある時、全部ぶっ壊して新しい体制を作り上げる、というような発想を産む気質の萌芽は、素朴な遊牧民の中にも、もともとあったものなのかもしれません。
そこから、帝国化・コスモポリタン化の機動力が産まれ、乱世を経ての帝国建国の場面には、必ずと言っていいほど、騎馬民族やそっち系の人材が、陰に陽に働いていたのではないか? というのが私の仮説です。

帝国建設の後は、血統的にも文化的にもミックスしますから、建国から時代を経るほど、原型の騎馬民族文化は混ざって薄まり、当然、混血文化になっていきますよね。
▽352 AKKIY

Dr.TOM様

 「帝国建設の後は、血統的にも文化的にもミックスしますから、建国から時代を経るほど、原型の騎馬民族文化は混ざって薄まり、当然、混血文化になっていきますよね。」
  ↑
「イラン語を話す遊牧民による黒海北岸を本拠に、紀元前6〜5世紀を中心にギリシア、古代オリエントの両世界に相対したスキタイ人の国家」※1は、起源6世紀当時、「世界最強のペルシア帝国の支配者ダリウス」にも屈服しなかったほどの軍事強国でした。※2
 
 その後、紀元前3世紀頃、スキタイは消滅といいます。
「周囲の諸民族と混交し文化の独自性消失」※3がその滅亡の主因とききますので、上記にある貴兄のご指摘のとおりと思います。
 
 列島に渡来した騎馬民も同様にして「混交」により歴史の表舞台から消滅し、水面下に活躍の場を移したのかもしれません。

※1遊牧国家の発生
 紀元前18世紀から、同じく8世紀にかけてのおよそ千年間、中央アジアの草原地帯には、アンドロノヴォ文化と呼ばれる青銅器文化の時代がつづいた。・・・その第3期(前12〜9世紀)になると、羊の飼育と乗用の馬をもち遊牧民の活動が開始され、つづく第4期(前9〜8世紀)になると、乗用の馬を飼育して、多数の羊、山羊、馬を飼育する遊牧社会が成立した。この中央アジアの草原地帯で活動をはじめた遊牧民は、やがて西方へも活動の範囲をのばし、古代オリエントから鉄器文化を学びとると、飛躍的な発展をとげ、ここに強力な遊牧国家が出現した。黒海北岸を本拠に、紀元前6〜5世紀を中心にギリシア、古代オリエントの両世界に相対したスキタイ人の国家は、・・・遊牧民によって史上はじめて建設された強力な国家であった。このギリシア人によってスキタイ人と呼ばれた遊牧民は、もともと、中央アジアの草原地帯に居住した、イラン語を話す遊牧民の一部であり、紀元前8世紀ごろ、サルマートと呼ばれる同じイラン系遊牧民の東方から圧迫を受け、黒海北岸方面へと移動してきた人びとであった。スキタイ人を含めて、この中央アジアに広く活動したイラン系遊牧民は、ペルシア人によってサカと汎称された。中国人の文献に見える塞(さく)も、彼らを指した名称と考えてよい。つまり、アンドロノヴォ文化の後を継いで、中央アジアの草原地帯に活躍した遊牧民はまずすべてイラン系の人びとであったと考えられる。
 ところが、紀元前3世紀の末、中央アジアの草原地帯の東隣、モンゴリアの草原地帯に、中国人が匈奴と呼んだ(モンゴル語またはトルコ語を話す)遊牧民による強力な国家が成立し、中央アジアにもその勢力を伸ばし始めた。当時の中央アジアの草原地帯の主人公は、中国人によって月氏と呼ばれた遊牧民であった。この月氏とは、スキタイをあらわすアッシリア語のスクジャを写したものといわれ、もしそうであれば、月氏もまた、イラン系遊牧民に他ならない。・・・匈奴による3次にわたる中央アジア遠征は、月氏をして遠くアフガニスタン北部への移動を余儀なくさせた(紀元前2世紀後半)。かくしてここに、中央アジアの草原地帯における、イラン系遊牧民に代わるアルタイ系遊牧民の活動の時代が始まる。P20〜23(『中央アジアの歴史』 間野英二 著 講談社新書)

※2
 前514年ごろ、当時世界最強のペルシア帝国の支配者・・・ダリウスがスキタイを征服しようと企て・・・70万の大軍と600隻の軍艦という大兵力を投入したにもかかわらず、ダリウスはそれを達成できず、不名誉にも大損害をこうむって撤退せざるをえなかった。P32(『スキタイ王の黄金伝説』I.B.ブラシンスキー著/穴沢峺訳六興出版)

※3
 紀元前3世紀頃、(周囲の諸民族と混交し文化の独自性を失い)スキタイ最後の首都ネアポリスから人煙が途絶え、スキタイは歴史の舞台から全く姿を消してしまった。P41
(『スキタイ王の黄金伝説』I.B.ブラシンスキー著/穴沢峺訳六興出版)
▽353 Dr.TOM

騎馬民族国家の崩壊、衰退に関しては、「しかしあまりに肥大した帝国を守るために、帝国は外人傭兵を大量に入れる。これが帝国分裂の原因となった」という、アッシリアに関しての記述を見つけました。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51002242.html (文明拡散の大元・アッシリア - 民族学伝承ひろいあげ辞典)

ペルシャもまた、建国の主導は騎馬民族系だったと思いますが、いずれの騎馬民族帝国も短期に領土拡張した軍事大国なため、獲得した広大な領土を治めていくのに、様々な人種的・文化的・経済的な矛盾が噴出する、という構図は、とてもわかりやすいものです。
その意味では現代のアメリカなども、形を変えた騎馬民族帝国の末期症状なのかもしれませんし。

だからと言って、騎馬民族的な文化・精神がすべて暴虐でいかがわしいものか?というと、それは頷けない部分もあります。
アメリカも建国当初のオープンな理念と、現在の陰謀と搾取の戦争ビジネス国家とでは、まるで別の国に見えてしまいます。
但し、ネイティブ(インディアン)を騙し討ちして駆逐していった歴史の原点に、腐敗の萌芽はあったと言うべきなんでしょうけれど。旧大陸文明の呪縛からの脱却、フロンティア精神においては、見るべきものがあったと思います。(…と、過去形にしてしまう私ですが)

騎馬民族国家の建国は、どうも因襲を打破する破壊神としての役回りで、維持して治めていくのは苦手なようですね。
それでか、古代史ファンの注目度も、メソポタミア、エジプト、インダス、漢民族の中国などと比べると、どちらかというとマイナーであり、傍流に押しやられる傾向があると思います。
興味本意に見る限り、ダイナミックだし、ホントは凄く面白いと思うんですけどね。(同時代に生きてたら命がけで、冗談じゃないでしょうけど。がまん顔あせあせ(飛び散る汗)
▽354 AKKIY

「騎馬民族国家の建国は、どうも因襲を打破する破壊神としての役回り」
 ↑
 モンゴル元王朝の東南アジアにおける破壊の影響はフィリピンをのぞいて大きく、ベトナムのインド文化断ち、ビルマのパガン王朝崩壊を招いています。※
 しかし、ジャワのマジャパイト王朝は、元の侵入を逆手にとっています。
今の日本が、「騎馬民族帝国アメリカ」との交渉において範とすべきは、マジャパイト王朝のようなしたたかな姿勢ではないでしょうか。


・モンゴル族の侵入とヴエトナム
13世紀が東南アジアの歴史にとって、大きな転換期となっていることは、多くの専門家によって指摘されている。・・・中部ジャワ、カンボジア、北部ビルマなどに代表される偉大な石造建築の時代の終幕ということである。ささやかな部族国家から始まり、莫大な富と人力を支配するに至った東南アジアの諸王国は、王を神の生まれ変わりと見、その神を記念しようとして、朽ちない石に刻んだ。そのスタイルはインドばなれしていたけれども、その衝撃はインド文化から受け継いだものと言える。それが突然やんだのである。・・・モンゴル族の東南アジア侵略がそれである。・・・東南アジア諸国のうち、中国に隣接するヴエトナムは、南宋の降服よりも早く1257年にモンゴル軍の攻撃を受けた。この時ヴエトナムの李朝はすでに滅亡し、陳朝が成立してから約30年を経ていた。紅河を渡ったモンゴル軍は難なく国都の大羅城(もとの昇竜、現在のハノイ)を占領したのち、軍を引き揚げた。陳の大宗は引き続き元朝に入貢を強いられ、また元朝の行政監督官を受け入れたため、しだいにその圧制に苦しむこととなった。もっとも、元朝はただヴエトナムを圧迫しただけではなく、1276年〜68年ごろ、チャンパーとカンボ゙ジアがヴエトナムを攻撃した時には、派兵してヴエトナムを保護している。
(東南アジアの歴史 永積昭 講談社現代新書 P69〜71)

・モンゴル族の侵入とビルマ パガン朝の滅亡
(モンゴル族は)1253年にはタイ族の大理国を滅ぼしていた。そして1271年には、パガン朝に対して服属を要求したが拒絶されたので、フビライは1277年に討伐の軍を送り、ンガサウンジャンの戦いでビルマ軍を撃退した。・・・そして1283年に元軍は同じコースを通ってビルマに侵入し、パガン朝最後の王ナラーティハパテは南方に避難した。・・・苦境に立った王が1287年に暗殺され、2世紀半の繁栄を誇ったパガン朝は滅びた。ビルマの分裂はこのあと200年ほどやまないのである。(東南アジアの歴史 永積昭 講談社現代新書 P72〜73)

・モンゴル族の侵入とマジャパイト朝
8世紀中ごろにはジャワ島中央部にシャイレーンドラ朝が起こり、大いに仏教をひろめた。・・・なかでも最大なのは、世界的にも有名なボロブドウールである。・・・シャイレーンドラの本家はしだいにヒンドゥー教を奉ずるマタラム朝に圧迫されて衰退したのである。・・・マタラム朝は929年ごろ東ジャワのクディリに移転してクディリ朝と称した。・・・1222年にクディリ朝は滅び、最後の王を負かしたケン・アンロが新しい王朝(シンガサリ朝)を開いた。・・・第5代かつ最後のクルタナガラ王(在位1268年〜92)の時、モンゴル帝国の東南アジア進出は一段と激しさを増していたのである。・・・1292年、兵92万、兵船1000隻から成るという元の水軍は泉州を発し、チャンパーに寄航した後、翌年初めにジャワ北岸に達した。しかし、元軍のめざすクルタナガラ王はすでにこの世になかった。(先王クルタガラの女婿ヴィジャヤは・・・ジャコトワンの政変を逃れていったんジャヤカトワンに降服し、・・・ひそかに再起の機会をうかがっていたヴィジャヤにとって、元軍の来襲はまさに天の助けと見えたことであろう。(ジャコトワンを捕虜にしたことで派兵の目的は達せられた元軍は)1293年
4月24日、ジャワ島を出帆して帰路についた。数々の元寇の中でも、このヴィジャヤほど存分に元軍を利用した例はまれである。彼はその年のうちに即位し、新しくマジャパイト朝を建てた。フィリッピンを除く全東南アジアは、なんらかの形で元軍の侵略にさらされた。おびただしい人命と物資とを注ぎ込んで、いったい何が得られただろうか。
(東南アジアの歴史 永積昭 講談社現代新書 P45、47、51、73〜76)
 水神が牛から馬へ変化したという石田英一郎氏の「河童駒引考」は、牛トーテムと騎馬民の馬トーテムを農耕社会において説明するところに魅力を感じるものです。※
 
 また、水馬の伝播をになった「イラン系の騎馬民族」にサカ族を連想します。

※河童駒引考 全集5)
 わが国民間伝承に広くみられる河童が水中に馬をひきこむといういわゆる河童駒引伝説を、ユーラシア大陸諸地域の伝承、文献、考古資料と比較しつつ、水と牛馬のかかわりあいを説き、共通した文化要素が展開していることを明らかにした名著である。
柳田国男は、「山島民譚集」(定本27)の中でわが国の河童駒引伝説の成因を、元来水神に馬を献げるという、事実としての動物供犠が存在していたが、やがて水神の零落退化した妖怪としての河童が逆に馬を水中に引きこむという伝説に変容したものであると説いた。石田はこの説をさらに世界史的な視野から解明することにつとめ、その結論として、農耕社会における牛馬と水の密接なる関連性の中で、原初的には牛の家畜化、聖獣視がおこり、牛を多産豊穣の神として神聖視する思想が、ことにユーラシア大陸南縁に先史時代からあり、かつ農作物の生長と家畜の繁殖をもたらす水が聖牛思想と結合して、牛を水神の聖獣とみたり、水神に牛を献げる儀礼となってあらわれたり、水神が牛と同一視されるに至ったことを説き、やがて馬が農耕地域に進出するようになり、馬の神聖視、聖獣化がおこり馬と水神との結合がおこり、かくして宗教的神話的世界における牛馬交替の現象が生じ、さらに馬を水中にひきこもうとする水精としての北欧のネッキ、地中海のポセイドーン、中国の河伯、蛟竜、雷公等とともに日本の河童の駒引伝説も生じたのであるとした。そしてわが国のこの種の伝説も水精と馬との結合を語る伝承の一類型にすぎぬと指摘し、水精と牛馬との交流が農耕社会においては普遍性をおびて展開していることを主張した。ことに石田の強調点は馬に先行して牛の経済的宗教的役割の優位性があったとする点にある。
また水馬の思想や水神が馬神をかねる信仰は、イラン系の騎馬民族によって、オリエントからユーラシア大陸の東西に伝播されたのではないかという想定もしており、騎馬民族の移動ないし馬の輸入定着による農耕生活や信仰の伝播、変容、ひいては国家の形成等を究明する上においても深く示唆を与える好著である。なお本書は昭和23年に刊行された。
(赤田光男)
しかし、学者さんの文脈を見てくると、イラン系人種というのは、もともと中央アジア、または西方・北方寄りのアジアに住んでいたんでしょうか? それがオリエントや西域を経由して、枝分かれしつつ、またアジアに移動するというような離合集散?

以下のサイトも参考になります。
http://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/5d31cf45bc91dce4d26a6ce7b0ce26f1
史上最古の騎馬民族 - 今を知る為の歴史探求

もともとアジアに居たかもしれないイラン系を、私はプレ・アーリアと表現したかった気がします。
秦の始皇帝なども、このプレ・アーリアのイラン系騎馬民族だったのではないかと。
「もともとアジアに居たかもしれないイラン系を、プレ・アーリア」という表現ではないのですが、下記の榎本 出雲氏および近江 雅和氏の記述に注目しています。
 なお、石田英一郎氏の「河童駒引考」は、23年とかなり年代を経過していることは事実です。
                      記
「スキタイ・サカ族がまだバイカル湖の西側、アルタイ地方にいて、ペルシヤ高原に入る前の頃の神話篇に出てくる「カイ王朝」と関係があるのではないか。もしそうだとすれば、中臣・藤原氏の系統は、シベリヤ遊牧民が源流であったと考えられるから、シベリヤ・シャーマンの巫術も絡んでくる。」(『古代は生きている―石灯篭と稲荷の謎−』 榎本 出雲 近江 雅和 彩流社 P32)


 まず結論を先にいうと、藤原氏はペルシヤ系のスキタイ・サカ族だったということである。・・・
河内の安宿が大和に移って『万葉集』の明日香になり、枕詞の「飛ぶ鳥」から飛鳥になった。「飛鳥汁」が牛乳で煮込んだ野菜汁であることをみても、ペルシヤ語のshi(−)r(ミルク)、shi(−)ri(−)(純白の)があり、汁の語源からも白色尊重のペルシヤ系の習慣が分かる。また、サカ族は中国の文献では白狄ともいわれるが、「白」にはペルシヤ系の意味があり、「狄」には鹿の意味もあって、「藤原氏は白い鹿に乗ってきた」という伝承(『日本書紀』)があり、「白」が象徴されている。また、スキタイ・サカ族は「鹿」との関わりがあり、・・・藤原氏に関わる鹿島神宮や春日神社が鹿を神の使いとしている理由がここにある。・・・日本の飛鳥時代の北部中国は、先にも述べたように、名前は中国でも中身は五胡が中心だった。こうした背景があって百済への移住部族は五胡の部族が多かったのである。一方、中臣氏は西方ペルシヤ系の部族、それも多分にイスラエル系を含んだ部族で、シルクロード経由で内蒙古または黄河流域を東進して来たもので、さらに満洲経由または山東半島から朝鮮半島に移住し、黄海寄りの南朝鮮の地に住んでいたものと思われる。文化的にはイスラエル、ペルシヤ、アラブ系で、それに伝統的な漢文化を身に付けた優秀な部族だった。したがって、同じ朝鮮半島経由でも、日本海沿いに新羅に移住してきた人達とは違う。・・・話を不比等に戻すと、不比等が由縁あって預けられた先がやはり田辺の大隅で同姓である。「田辺」はおそらくアラブ語の「ナビィ」(予言・予言者の意味)で、神奈備山の「ナビィ」でもあり、これに「神を尊ぶ」という意味のアラブ語の接頭詞の「タ」がついた「タナビィ」が語源と思われる。「ナビィ」が「ナベェ」になっているのは、ペルシヤ訛りの発音にある傾向である。いずれにしても、河内の安宿は、百済系渡来者の多い土地だった。この「アスカ」の語源は、ペルシヤの古代帝国「アスカ王朝」にあり、それが中国では「安息国」とよばれていた。751年、唐で反乱を起こした安碌山もペルシヤ系のサマルカンド人で、「安」の姓はペルシヤ系を呼ぶ中国名であった。
・・・(ゾロアスター教、拝火教、祅(けん)教(きょう)は、)アスカ王朝の前の紀元前539年から同330年まで続いた「アケメネス王朝」の国教であった。この宗教の中味は、ペルシヤ系とイスラエル系の二つの系統の信仰を内蔵するもので、始祖のゾロアスターはアルメニア人だという説と、モーゼだという両説があり、最古の世界的宗教的性格を持っている。・・・成田はアラブ語のnari-taで、真言宗の系統の寺はペルシヤの拝火教の系統を引いていることに(火の霊が木片か紙に付加されて守護神となる成田山のお札は)繋がっている。ペルシヤ系といっても、「失われたイスラエルの12部族」の話にあるように、ペルシヤによって奴隷から自由民にしてもらったイスラエル系が多分に含まれているので、ユダヤ教の要素も内蔵する訳である。藤原・中臣氏にはこれが感じられる。また、「光明子」の「光明」は、仏教的な意味と解されているが、終りの方で述べる藤原氏のイナリ信仰の面から考えると、アラブ語の「光り輝くもの」を意味する「イナリ」に基づくものと解したい。この「光り輝く」という信仰は、予言者マホメットのイスラム(絶対的)に神に帰依する信仰)の基本姿勢である。
・・・「伊奈利」は後に空海によって「稲荷」と書き表すようになったが、『日本書紀』にいうような秦氏の専売ではない。推古紀の聖徳太子出生記事に「厩戸王子」とあることから、キリスト教的なものが指摘されているが、キリストという呼び方はギリシヤ語源のヨーロッパ語で、「アラブ語」では「イサ」、ペルシヤ語では「イシ」「イセ」である。これが分かれば伊勢神宮の外宮に通じる何本かの参道両側の石燈籠には、すべてダビデ紋「✡」がついていることや、丹後・籠神社の奥宮とされる真名井神社の神紋、聖徳太子の側近だった秦河勝が建てた赤穂の大石神社の神紋が、いずれも「✡」を使っている訳がはじめて解ける。日本語の砂子(いさご)町、「石」のつく地名は、一応この線を考えてみる必要がある。藤原・中臣氏の祖先神とされているのがアメノコヤネノ命
(天児屋根命)だが、この神名はペルシヤ神話に出てくる古代ペルシヤの第二王朝「カヤニ王朝」(小生 注:「カヤネ王朝」?P214)(コヤネに変化する)の話が背後にあるように思われる。スキタイ・サカ族がまだバイカル湖の西側、アルタイ地方にいて、ペルシヤ高原に入る前の頃の神話篇に出てくる「カイ王朝」と関係があるのではないか。もしそうだとすれば、中臣・藤原氏の系統は、シベリヤ遊牧民が源流であったと考えられるから、シベリヤ・シャーマンの巫術も絡んでくる。P28〜32
(『古代は生きている―石灯篭と稲荷の謎−』 榎本 出雲 近江 雅和 彩流社)
「失われたイスラエル12部族」、正確に言うなら、南北12支族うちの北イスラエル10支族と、騎馬民族との混血、または文化的混淆、…という視点になると、これまたひとつのトピックを立てなければならないくらい重いテーマなのですが、とりあえず以下のサイトを見てください。

▽世界最大のミステリー「遊牧騎馬民族イスラエル10支族とユダヤ人」の謎
http://shinsengumi3.seesaa.net/article/149030041.html
(携帯→) http://shinsengumi3.seesaa.net/article/149030041.html

こちらのサイトでは、古代イスラエルがアッシリアに征服された時、周辺のスキタイ系騎馬民族との混淆を示唆しています。
その後、アッシリアがペルシアに滅ぼされた時、ぺルシアとのミックスの可能性は、前々段のコメントの御指摘の通りです。
つまり何段階もの重層的な歴史を経て、北イスラエル10支族と騎馬民族はミックスしている可能性があるわけです。

その極めつけが6世紀以後のハザール系騎馬民族との決定的な邂逅でしょう。
と言うより、結果的・実質的には、もとからのオリジナルなユダヤ・イスラエル人は、血族的繋がりのないハザール人に、国とユダヤ教そのものを乗っ取られ、自らは国内の被差別民みたいな立場に転落してしまうんですね。
これはミックスと言うより、「庇を貸して母屋を取られる」状態ですかね。

このへんは未だにタブーっぽい歴史ですが、ユダヤ問題や日ユ同祖論を語る上で、決して避けては通れない視点なので、関心のある方は、長いですけど、ぜひ以下のサイトに目を通してください。

▽ハザールとユダヤ 〜ハザール系ユダヤ人について〜
http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fha200.html
(携帯→) http://www.google.com/gwt/n?u=http://bit.ly/lFj5ny

ところで、「日“ユ”同祖論」という言い方は違う!というお叱りもあります。
いや、南ユダ2支族のほうからも日本に入ってきている、というマイナーな説もあったので、それもありかもしれないけれど、失われた10支族=北イスラエルを言うなら「日“イ”同祖論」が正しいわけです。

そして、この日本と同祖かもしれない古代ユダヤ&イスラエルは、少なくともハザール系に看板を乗っ取られる以前までの騎馬民族混血がリミットでしょう。
その後から現在に至るまでの、ハザール系が支配するイスラエル国家や、ハザール系ユダヤ人とは、民族的に「同祖」と言えるほどの血の繋がりはありません。(↓参照)

また、北イスラエル10支族のほうを語るなら、バール神信仰をはじめとする多神教文化が旺盛であり、『聖書』の一神教信仰が「同祖」とは言いがたいものがあります。むしろシュメール・メソポタミアをベースとする騎馬民族混血だったかもしれません。

(参照↓)
▽世界史のタブーである東洋系(オリエンタル)ユダヤ人と白人系ユダヤ人のルーツ 【ユダヤ問題特集 第2章】
http://www.asyura.com/09/wara6/msg/144.html

ちなみに、ナチスドイツに迫害されたのも、このハザール系が支配層になってからのユダヤ民族ですが、世界金融を牛耳って、闇の世界権力の一角として冷酷非情な世界支配戦略を企んでいるのも、またハザール系です。そして、それに不屈の批判精神をもって内部告発的な活動をしているジャーナリストや文化人などにも、ハザール系は多いでしょう。

どっちみち、良くも悪くも、人種・民族だけで色分けしてあれこれレッテル貼りするのは、私の趣味ではありませんのであしからず。
差別され迫害された可哀想な歴史があるから、永久に善なのではないし、極悪冷酷の天才的キチガイ支配層がいるから、その民族全体が極悪なのでもありません。

 Dr.TOM 様

 ハザールとユダヤ 〜ハザール系ユダヤ人をご教示いただき、ありがとうございました。

「北イスラエル10支族のほうを語るなら、バール神信仰をはじめとする多神教文化」に親近感をもつ一方、一神教のユダヤ教を前提とした場合の「日ユ同祖論」に違和感を持つ小生にとり、大変参考になりました。

 興味深いことは、ハザールの拠点が黒海周辺であり、スキタイの拠点と重なっており、民族混交が行われたのではないか、と推測させられることです。

 また、6世紀以後のもとからのオリジナルなユダヤ・イスラエル人ハザール系騎馬民族が移住したとすれば、列島と関わり合いをもたなかったであろうか、とも推測します。
> AKKIYさん

ハザール人の出自については謎が多いですし、スキタイ系民族の定義自体も広範であること、もとより騎馬民族は混血・混淆しやすいこと、などから、ハザールがスキタイの枝分かれであることは想像できます。

また、ハザールがユダヤ教を国教とした帝国を築く6世紀よりも以前、つまりユダヤ教徒の体裁を纏う以前に、その枝分かれの一派が日本に流れ込んでいた可能性はないとはいえないでしょう。
でも、それは広義にスキタイ系騎馬民族の流入と解したほうがいいかな。

逆にユダヤ教国家としてのハザールが滅びて離散する頃に流れてきたとすると、早くとも10世紀以後だから、日本建国に携わったグループではないことになるので、同“祖”と言うほどルーツの深いものではないでしょう。

しかし、国家乗っ取りのテクニックとして、ユダヤ人になりすまし、ユダヤ人になりきってしまったハザールは、大和朝廷を裏支配した藤原不等人の手練手管と似ているような気もします。
その現代世界版が、世界の金融や政治を裏支配する(ハザール系)ユダヤ・エリートやユダヤ・ロビーなのかもしれません。

したがって、ユダヤ教徒という形で日本に入ってきていたかどうかは別として、むしろユダヤと日本を平行同時進行的にコントロールしてきた、という仮説も“あり”かもしれませんね。

それだけしたたかではしっこい民族、裏を返せば、それだけ厳しい生存競争にさらされてきた経験値を持つ、サバイバルのプロフェッショナルなのかもしれません。

[・531年 - サーサーン朝ペルシア帝国でホスロー1世が即位(- 579年)。サーサーン朝の最盛期を迎える。
• 559年ごろ - サーサーン朝ペルシアのホスロー1世が突厥と同盟してエフタルを滅ぼす。
• 583年 - 突厥が東西に分裂する。
• 587年 - 蘇我馬子が仏教受容反対派の物部氏を滅ぼす。
• 593年 - 聖徳太子が推古天皇の摂政となる。

• 600年 - 日本が第1回遣隋使を派遣。

「ハザールは6世紀ヨーロッパの東部に突如出現した騎馬民族である。出自は定かではないが、民族集団として注目を受けるようになって以来アルタイ系騎馬民族の諸相を色濃く持つ。トルコ系言語を話し、謎めいた突厥文字を使用する。・・・ハザールでは二重王権が実践されていたということが1つの理由となるのではなかろうか。」 城田 俊]

※時期的に聖徳太子の摂政、推古天皇との双文制、サーサーン朝ペルシアの文様の列島への流入も気になります。

[■■第5章:「ハザール系ユダヤ人問題」に関する注意点
「アルタイ系騎馬民族の諸相を色濃く持つ。トルコ系言語を話し、謎めいた突厥文字を使用」
「ハザール王ヨセフ自身が明らかにしたように、彼らは自分たちがセム系ではなく、非セム系(ヤペテ系)の「ゴメルの息子」にルーツを持っていることを自覚していた。」
※仮に遊牧民としても、ハザール系ユダヤ人はウラルアルタイ系の匈奴とは別派であることを意味するのか。
「アフナーはキブツばかりでなく、軍隊を経て社会人になっても、ガリチア人の優位がついて回るのを知った。
ドイツ系、オランダ系、アメリカ系ユダヤ人などの出る幕がないほどであった。オリエント系ユダヤ人にいたっては、ガリチア人の助けを借りない限り、手も足も出なかった。」
以上、『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』(新潮社)より]

※日本の裏社会の兄弟仁義を思います。

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