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2017年09月24日12:20

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北澤秋司先生を伊那に訪ねる

北さんに逢いに行こうと決めたのは、数日前だ
この土、日に行こうと。

今年1月、ヨメハンとこんな会話をした
「北さんとこ、ずう〜と行きたいと思ってるんだよなあ
でも、ひと旗揚げにゃあ、行くわけにゃいかねえ。。」
「そんなこと言ってたら、ずーっと、行けない!!」

今年のお年賀に、
『11月動脈瘤の大手術を受けましたが、健康を取り戻しつつあります。
先が見える歳になって、うろうろしていてもしょうがない。
やり残した仕事の整理など多忙を装っていたほうがいいのかな。』
とあったんだ

おれの農学部時代、北さんに憧れて3年の秋、
治山工学研究室に入った
3年、4年(前期は休学して南米放浪)、5年、と
そこで山を歩き、酒を飲んだ
町で飲むなど贅沢は、めった無かったが、
「ゆきずり」っちゅう、先生お気に入りのスナックで、何度かおごってもらった

1987年春、旅に出よう、と、1年勤めただけの山の測量会社をやめたその日、
品川の駅のホームから先生んちに報告を入れた

1990年暮れ、ヨメハンを北さんの研究室に見せに行った

1991年春、結婚式にきてもらった
「卒業論文は『天竜川上流の洪水に関する研究』です。
山崎君は旅先から便りをくれるんです。おっきな字で。」
スピーチしてもらった
おれのオフクロが(秋山をサポートして司会をやった妹だったかもしれん)、
先生にお車代やらなんやらを渡したポチ袋を、
さいご参列者で輪をつくってもらってくぐる、なんやグチャグチャになってるときに、
先生はおれの羽織の袖にポソッと落とし込んだ


1994年秋、ガキが生まれた年に、おれは農学部に行き、
先生におれの夢・地質探検家の相談をしに行った
3時間、話をきいてもらい、先生は「人脈をつくれ」と言った

おれがアルプス調査所をやめ、ティティカカ湖を周って、
最初に信濃毎日に記事を載せたのは1995年の夏である

1999年春先、先生の退官記念講演を聴きに行った
それが先生と会ったさいごであった
あとは毎年のお年賀だけでつながっている


きのう23日日曜日、うとお峠を越え、
伊那谷に降り立った辰野町役場駐車場でクルマから自転車を降ろし、
天竜沿いに153号を南下した
伊那の町の中心・河畔の橋のたもと、入舟から先生宅に電話を入れた
「卒業生の松本の山崎です。わかりますか?」
「わかるよー」

「伊那に来てるので、伺っていいですか」
「いいよー」

伊那の町の南方西春近の先生のうちに上がらせてもらうと
「山崎はフリーだ」
「食ってけさえしてりゃあ、それでいい」

先生の奥さんが伊那の山栗をむいてくれた
となりでじかに一個一個手渡してくれる
いくつもいただいた

三十五年昔のこと、話したこと、先生もおれも、すべておぼえている

おれはせっせと山栗をむく奥さんに
「奥さん飯田ですよね?」
「よくしってますね?」
「先生から聞いてます」

二年生、伊那の学部に上がってすぐ、森林工学科全員、授業の一環で、
霧ヶ峰・八島湿原に演習に行った
バスガイドに成り切ってる先生は、
「ヨメサンもらうなら飯田からもらえ」
なんでかと訊くと、たんにじぶんの奥さんが飯田出身というだけのこと。
霧ヶ峰の地形の成りたちとはなんも関係ない
おかげで学術的なことはなにひとつ憶えて来れなかった

先生は農学部に来る前、下伊那地方の中学の先生をしていた
そのとき、相撲部屋に行った卒業生がいて、一年目に死んでしまった、
だの懐かしい話を三十五年ぶりに聞いた

学生時代、下伊那の山村をまわって、アンケートを取るバイトをしたことがある
自家用車の所持だとか、パソコンを知ってるか、などの。
ある家のオバチャンが「わたしの息子は北澤先生に教わった。あの先生は光っとった」
と話してくれ、おれは泣きそうになったのを覚えている
そんな話はじかに先生には話さない。先生は嫌だろうから。

おれは先生の家で今回、一時間四十五分、覚せい剤を打ったようだった

「また来い」
十八年と七カ月ぶりだったんだ
北澤先生は八十四だと。おれのオヤジオフクロと一緒だ
顔もからだつきも、前回会ったときのまんまだった
でっかく、悠然と。

ひと旗上げて、そんなに空けないうちに、また。。必ずや。

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