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2021年11月14日16:42

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ボンさんのようだった北川俊司先輩

チューゲンの北川先輩から、さいごの便りが届いたのは、
「故北川俊司」と記された、今月初めにもらった葉書だった。

十年前、同じ寮の同期・イトーのときもそうだったんだ、
まさか本人が亡くなるとは。

愕然とした。

北川先輩の葉書には、
「ガンが再発して、京都の家族の元に戻り、
(21)年(10)月(8)日に、生涯を閉じました」
と書かれていた。
( )内には、家族に年月日を入れてもらうようになっていた。
先輩のガンのことなど、毎年やり取りしていたお年賀にも書いてはなかった。


先輩のご家族宛てに手紙を書いた。
京都の住所は書かれてなかったので、
先輩が長年住んだ静岡の富士宮市に。

一昨日、兄の北川誠司さんから電話をもらった。
びっくりした。
「弟の住所録に、山崎さんの電話番号をみつけましたので。
いただいたお手紙、仏前に供えました」
と。

北川さん兄弟は、10月の7日に電話で話し合い、
明日富士宮へ迎えに行く、と準備が出来ていたそうだ。

そして8日朝、先輩の家の近所のひとから
「冷たくなっています」の電話をもらいました、と。

「富士宮に三十年。近所の人たち総出で送ってもらいました。
京都の家族の元より、富士宮でさいごを迎えれて、
良かったと思います」
「弟は覚悟を決めてから、近所の人たちに聞かれ、
こう応えていたそうです。
『いい人生だった』『生き切った』と。」

誠司兄さんは、悔恨も哀しみも口にしなかった。
穏やかな口調、先輩と話しているようだった。

寮で春に年一回発行していた機関紙「白樺」。
そこの寮生の住所録にある実家の宇治が、
今も兄さんがいる住所だそうで、
年一度、またお便りを出します、と言うと、
大変よろこんでもらえた。

オレだって、北川先輩と、ずっと繋がっていられるよろこびがある。


卒寮十数年経った初夏、
キタダケソウを撮りに北岳に何度か通ってたとき、
三千メートルの稜線に上がりつく直前、降りてきた山男が、
「おう!ヤマザキ!」
顔を上げると、丸坊主になった北川先輩。
その坊主アタマを撫でながら、
「こんなんなってな。」
と、昔のまんま、相変わらずのやわらかい笑み。

北岳稜線小屋に知り合いがいて、毎年小屋開きのときは、
手伝いに上がっている帰りだ、と話してくれた。



寮と学校を結ぶ広い運動場を、いつもひとり走っていた。
『走るキタガワ』
寮生はみんなそう呼んでいた。

いつも静かで穏やかで、
その、東北の匂いがするような京都弁がやさしい

それなのに、なぜあんなにも存在感があったのか

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              東京ボンタ調衣装の秋山健

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           アンデスの少女・ハイジンリューシロー

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      浜田先輩と手をつなぐ汚いジャージの北川俊司先輩

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