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2021年11月17日20:10

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ポタリストの記録・【東村山市北部往還・その4】

■古戦場址;将軍塚・久米川■

今回のライドで新たにスポットに含めたのがこちらだ。正福寺通りを東進し、広い市道が見えてきたら、北上する。この界隈は住宅地と武蔵野の畑が広がる長閑な景色だ。関東ローム層で生産された野菜の無人即売所があった。オール100円。売っていたのはほうれん草、小松菜とインゲン豆。ほうれん草、小松菜はちょっとリュックでは持ち帰れないので諦め、インゲンを買った。

その先、踏切。本来単線で一駅区間だから滅多に遮断機が下りるはずがないのだが、珍しく降りていた。

踏切を渡ると、次第に狭山丘陵と病院が迫って来る。「トトロの森」も狭山丘陵だったのを思い出した。昔はもっと広く、子どもたちから見たら、妖怪がいたとしてもおかしくないほど、森が深かったのかもしれない。

この先は予想していた通り、礫ダートの山道だ。

以前八王子市の絹の道探索したのを思い出す。久しぶりに礫ダートをクロスバイクで進む。押したり、乗ったりだ。ちょっと冒険モードになる。ただ八王子の場合は心霊スポットが多かったし、道了堂跡は殺害事件は別の場所と分かっていても、長居は無用だと本能的に感じた。私はヤロウだから良いが、女性は絶対に1人ではいかない方が良い。あすこで暴行されたら、先ず助けに来てくれる人はいないはずだ。

しかし東村山のこの山道はそんな心配はいらない。東村山、所沢、それぞれから人が来る。子供会の子どもたちともすれ違うし、しょっちゅう来ていそうな女の子たちともすれ違う。この丘陵は八国山と呼ばれている。

かつて当地からは駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八ヶ国の山々を望めたことから八国峠と呼ばれるようになったとされた。

こちらの地域は緊急事態宣言やまん防で分断されていないところが好ましい。恐らく県境とはいえ、地域の人達の接触はあるのだろう。

将軍塚は鎌倉幕府末期、新田義貞が布陣したとも、久米川の戦い以後、勝利宣言を喧伝するため、旗を立てたともされている。山は城に次いで防御力の高いところだが、水はどう確保したのだろう。

『三国志』で魏を攻略していた諸葛孔明は街亭(がいてい)を守り切ったら、長安まで一気に攻めるところだったのを、任命した先鋒の馬謖(ばしょく)が大軍が一度に通れない街道の交差点ではなく、山に布陣してしまった。寄せ手の司馬懿(しばい)が水も漏らさぬ包囲をしたため、水源を絶たれて敗北した。街亭の戦い(228年)である。戦後処理で孔明は軍事裁判に馬謖を呼び出し、泣いて斬った。自身も責任を取って、丞相(総理大臣)を返上し、右将軍に位を落とした。あの故事の「泣いて馬謖を斬る」はここに由来する。

それぐらい山で水源の確保は大事なのだ。

将軍塚は標識こそないが、埼玉県所沢市になる。

ここから直進のハイキングコースはまだまだ続いているが、下に下る道がある。そこを下ると住宅地を抜けて、久米川古戦場址だという。戦いの前に布陣しただけなのかもしれない。

下る方が実は大変である。殆ど自転車を手押しで進んでいく。ただ幸いにして、前からこちらの道は誰も来ない。ところどころ湧き水が流れている。今から700年も前だから水脈も変わっているかもしれないが、意外と水は豊富だったのかもしれない。

下から陽が見える。漸く住宅地に出たようだ。

古戦場址は今は長閑な武蔵野の住宅地にありがちの公園になっていた。

「兵どもが夢のあと」にやや興ざめしたが、ただその先に空堀状のものがあり、その堀を越えると所沢市松が谷地区である。このあたりも陣地として使われたとしてもおかしくない。堀の向こうは一段低くなっている。と思ってみたら、以前所沢駅、航空公園、また川越まで自転車で行った際に通過した貯水池である。そのさらに北側は丘になっており、「SEIBU」と書かれたショッピングセンターも見える。所沢駅のようだ。貯水池脇からクルマが流れて来るが、最終的には府中街道に出る。しかし府中街道に行かず、
住宅地に入ってしまえば、狭山丘陵を越えずとも東村山市街地を抜けることも出来る。所沢、川越方面からの帰り利用することにしよう。

■徳蔵寺■

住宅地を抜けるとこちらも初めてだが、名刹が見えて来る。徳蔵寺である。こちらは臨済宗大徳寺派に属し、創立は1560年、開山は元和年間(1615〜23)とされている。

1560年と云えば、桶狭間の戦いと川中島の戦いがあった年、元和年間は大坂夏の陣があり、戦国が終わった年だ。まさに激動の時代に出来たということになるが、ということは、鎌倉幕府滅亡の争乱時にはまだ存在しない。しかしその前進にあたるお堂があったとしてもおかしくない。実際、府中街道を中心に街道筋が当時は存在しており、人の往来もあったからである。そこで詳細に調べてみると、寺の過去帳に「徳蔵寺の御本尊 観世音菩薩は、遠い昔、藤原盛貞が守り本尊として当寺に安置し奉り、 開基として回向したものである」と書かれている。新田義貞が元弘3年(1333)に鎌倉の北条氏を攻めた際、 藤原氏盛貞が今後の戦勝を祈念して安置したと考えられている。仏像自体は室町時代なので、矢張り徳蔵寺の前進にあたるお宮があったと見るべきかもしれない。

ガイドブックなどでは複雑な曲率の保存館の写真が目立つが、山門を抜け、本堂の方がそれらしい。大徳寺は勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。一日中いられるほどの敷地面積がある。個人的に京都のお寺で最も好きなお寺のひとつ。広過ぎるので、修学旅行生は余り来ないところも良い。徳蔵寺は流石にそこまではないものの、間口は狭いが、奥行きがあり、高さのある本堂がある。

本堂に行く途中に六地蔵は勿論、嘗て存在した正位寺を吸収、本尊を合祀し、そちらで安置されていた十体のお地蔵様も一緒に祀られている。本尊は薬師如来とのことだが、安産の神様もおられることになる。

その前に2つの大木があり、下から見上げると樹齢はよく分からないが、下から見上げると、場所が場所だけに霊木のような佇まいを見せている。

時間もだいぶ圧して来た。帰宅後は家事もあるため、ここまでだ。こちらのお寺の前にはマドンナという名前のパン屋さんがあり、そこで郷土の有名人、志村けん氏の「バカ殿様」を模したかわいいクリームパンが売られていた。帰宅後、老母と頂いた。ちょっとクリームは多めだが、パン生地はしっとりとしていて、これならば他のパンを購入してもハズレはなさそうだ。東村山名物の黒焼きそばを挟んだパンもあったので、次回はそれを頂くことにしよう。

東村山市街地を抜けて帰路に就いた。

ハイキングコースを手押しで進んだこともあり、距離も35km程度、平均速度も18.5kmだったが、時間を考えれば難なく5か所も名所を回る事が出来たのは大きい。徳蔵寺は調べれば調べるほど色々出て来そうなので、また訪れてみたい。

最後まで御覧頂きまして、ありがとうございました。

(了)
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