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2020年05月05日23:55

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東方キリスト教の歴史 アズィズ・S. アティーヤ 教文館 2014年05月23日

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p.246
 アンティオキア単性説教理の偉大な主唱者は、総主教セウェロス(Severus: ca. 465-538)だった。彼はアレクサンドリアと関係深く、若き日アレクサンドリアで学び、後に迫害から逃れた時も追放された時もアレクサンドリアに避難した。…一方がセウェロス対抗派の継承者で教会会議派の皇帝派(メルキタイ)すなわちギリシャ正教の流れ、他方はシリア単性説派の流れで間もなく「ヤコブ派」(Jacobite)と称されるが、同教会の偉大な聖人ヤコブ・バラダイオス(Jacob Baradaeus)の名からきている。…
…この「三神論」の奇妙な異端的発想は明らかに多神教の性格を帯び、ヤコブ派のシリア人総主教ミカエルの「シリア年代記」によると、皇帝ユスティニアヌス時代のコンスタンティノポリスの無名の修道士ヨアンネス・アスクナージュ(John 'Asqucnages')の創作にまで辿り着くことになる。彼は「三位一体」を構成する三つの本性の一致を否定し、独立した神的三人格の存在を主張している。その後の彼の生涯は不明だが、後にこの異端的考えが多様な哲学者や神学者の間で強力な支持を得た。アリストテレス学派の注解者ヨアンネス・フィロポノス(John Philoponus)は、そのひとりだった。
p.247
他にフォティノス(Photinus,アンティオキアの司祭)、アタナシオス(皇妃テオドラの親戚)、セルギオス(Sergius,テッラの司祭でアンティオキア総主教になった)などがいた。この三神論学派は短命に終わったが、シリアの単性説の中に深く浸透する兆候があった。…
…第一に皇妃テオドラの黙認があったことで、彼女は東方単性説派教会全体の強力な影の同調者で、シリア出身の司祭の娘といわれている。第二はヤコブ・バラダイオスの間断無き努力の賜物だが、その身を惜しまぬ活動は伝説になっている。…シリア単性説派の決定的な再起時期は五四二年で、皇妃テオドラの扇動とアラブ王アル・ハーリス・イブン・ジャバラ(al-Harith ibn Jabalah)の境界線を孕む問題の時期だが、老コプト総主教がアジア地域に二人の大司教、すなわちエデッサ首都大司教にヤコブを、ボストラ司教にテオドロスを任命した時だった。
p.249
一人はコンスタンティノポリス幽閉時代の旧き同志アンティオキアのセルギオス(Sergius: ca. 542-62)だった。もうひとりはアレクサンドリア出自のエジプト人「黒人パウロス」(Paul the Black: 564-81)で、シリア各地の修道院で修道生活を送った人物である。…皇帝の追跡者に追われ、ガッサーン朝のアラブ王アル・ハーリス・イブン・ジャバラやその後継者アル・ムンズィール(al-Mundhir)の宮廷に避難したり、時にはアレクサンドリア南西のマレチオス砂漠に避難せざるをえなかった。
p.250
しかしエジプト東部境界線に近いカシオン山の聖ロマノス(St Romanos)修道院で、五七八年七月下旬三人の代表団メンバーが不可解な死を遂げた。…
…滞在中彼はベート・アラバーヤ司教にアフーデッメハ(Ahudemmeh)を任命し、最初の「東邦大司教」(metropolitan of the East)として位置づけ、ペルシャのヤコブ派総主教座(「アフリアノ座」[Maphrianate]または「カトリコス座」[catholicate])の礎となった。
p.253
その後、新たな考えがこの聖人に閃き、ついに四〇キュビット(約二〇メートル)の柱を立て、頭を蔽うフードのみで三〇年間、風雨に身をさらし立ち続けた。
p.254
マルガーのトマス(Thomas of Marga)は、九世紀のベート・カルダク(Beth Kardagh)のヤコブ派柱頭行者が雹の降りしきる中で倒死し、アディアベネ(Adiabene)のネストリオス派大司教がそれを嘲笑したと記している。八四八年ヤコブ派総主教に即いたバシレイオス二世(Basil II)は、以前メソポタミアのベート・ボッタン修道院にいたが、当時柱頭行者ラザロ(Lazarus the Stylite)として知られていた。
p.255
すなわち聖者の柱のまわりに修道施設が建設される場合である。
p.256
創設者バルサウマーはエウテュケス異端論争で役割を担った人物で、皇帝テオドシウス二世の特別招待で四四九年のエフェソス公会議に参加した。
p.257
「マール・マッタイ」(Mar Mattai)が四世紀後半この修道院を建立したが、彼はもともとアミド(Amid,ディヤルベクル)地方の出身だった。
p.261
古代の南インド教会のFather V. C. Samuelは、イェール大学神学部に'The Council of Chalcedon and the Christology of Severus of Antioch'(May 1957)に関する論文を提出しているが、その中で難儀な問題や用語に関して広範で明確な説明をしている。彼は明確に東方の悪口をいうために西方で作り出された'Monophysitis'という用語の使用に反対し、代わりに'Meaphysitism'の使用を提言している(本書結語章、五九一頁以下参照)が、これは人性と神性の'union'(一致)を意味し、いわゆる単性説教会の正統派教父たちの間での'one-ness'(単性)は決して見られないとの誤解を正すためである。著者は彼の論点を構築するためギリシャ語、アラム語文献を広範に使用している。
p.267
(70) Al-Shabushti,pp.70,157,230,245-6.同著者は、チグリスのテクリット近郊の「アル・ハディラーハ」(al-Hadirah)と称される地にあった、「聖女修道院」に関して、いささか同院の品位を落とす事柄について記している(p.69)。
p.269
ホスロー二世パルヴィーズ(Chosroes II Parviz:590-628)の最初の妻で有名な女王シーリーン(Shirin)は、ヤコブ派キリスト教徒だった〔叙事詩コスローとシーリーン」に登場〕。その後の論争時代、ヤコブ派修道士マルーサ(Marutha:629-49)はサーサーン朝末期に活躍した人物だが、彼はペルシャとメソポタミアに付属司教一五人を擁するテクリット首都大司教に起用された。
p.270
この時期の最初の偉大なヤコブ派聖職者はマルーサ(Marutha)だが(2)、彼は六二九年からアラブ征服後の六四九年に死去するまでテクリット首都大司教を務め、アラビア半島のアル・ヒーラ(al-Hirah)からペルシャ全領域以東を管轄する「東方マフリアノ(総主教代理)」(Maphrian of the East)の位称を最初に賦与された人物である。
p.271
ヤコブ派総主教ヨアンネス一世(六三一−四八年)の要請で書かれたといわれる福音書書簡はマルーサによるものだが(3)、バル・ヘブラエウス(Bar Hebraeus)によるとアラブの首長アムル・ビン・サアード(Amir 'Amr b. Sa'ad)の強い要請で、マルーサが第一福音書をアラビア語に翻訳したという。またこのヨアンネス総主教座ゆえに活躍できた人物に、ケンネシュレー修道院(convent of Kenneshre)の司教セウェロス・セボクト(Severus Sebokht, 六六七年没(4))がいるが、彼はギリシャ哲学、数学、天文学、神学に秀でていた。…このケンネシュレー修道院出身で七世紀の最も卓越した人物は、エデッサのヤコブ(Jacob of Edessa:633-708)で、彼は司教、神学者、釈義家、文法学者、哲学者、歴史家だった。
p.272
修道士が彼に反抗したとき、ヤコブ派総主教ユリアヌスは修道士側に立った。…
…これを受け継いだのはアラブ人の司教(bishop of the Arabs)ケンネシュレーのヤコブの愛弟子ゲオルギオス(George:686-724)だった。
p.273
最も重要な例はエリアス(Elias)の場合で、彼はシリア正統派のキリスト両性論者だったがアンティオキアのセウェロスの著書を研究し単性説派に改宗した。…もうひとりの総主教テクリットのキュリアコス(Kyriakos of Tekrit:793-817)は、ユリアヌス派(総主教ユリアヌス)のアルメニア人獲得に尽力した。彼の後継者テルマハレーのディオニュシオス(Eionysius of Tellmahre:817-45)時代、総主教の「天のパン」の見解が修道士との間で論争となり、教会は分裂し、頓挫した状況だった。不満派は対抗してカルタミーン修道院(Qartamin)のアブラハムを総主教に選出しムスリム当局の信用失墜を招いた。
p.274
 最後に注目すべきヤコブ派の人物モーセ(ムーサ)・バル・ケファ(Moses bar Kepha)を紹介し本項を閉じたいが、彼は九〇三年に九〇歳で死去した。
p.276
シリア語文書の歴史家たちは、二人の地味な人物、イェシュー・バル・シューシャーン(Yeshu' bar Shushan, イエス・バル・スザンナ[Jesus bar Susanna])と、マール・アロン(Mar Aaron)修道院修道士イグナティオスを挙げている。…
…すなわちディオニュシオス・バル・サリービ(Dionysius Bar Salibi)、シリア人ミカエル(Michael the Syrian)、そして中世後期のヤコブ派史上、最も有名な人物グレゴリオス・バル・ヘブラエウス(Gregorius Bar Hebraeus)である。
p.277
 その他、同時代の傑出した人物に通称「大ミカエル」と称されるシリア人ミカエル(Michael the Syrian)がいる(21)。…
 しかし同総主教はヤコブ派とビザンティン教会との関係で、弟子テオドロス・バル・ワハブーン(Theodore bar Wahbun)の裏切行為で苦渋の痛手を蒙った。
p.278
しかしスルターンの対応に疑義を抱いた彼は意を翻してキリキア行きを決断し、キリキアでアルメニア総主教グレゴリオス・デグハ(Gregorios Degha)と国王レオ(Leo)と結託し、アルメニア国内でのヤコブ派総主教に就いた。
p.280
ヤコブ派総主教イグナティオス二世は一二四六年、彼をグボス(Gubos,故郷のメリテネ近郊)司教に叙階した。若干二〇歳だった。翌年、同じマラティヤ地域のラカパネ(Laqabhin,ラカビーン)に転任した。…同年イグナティオス二世が死去し、相対立する両派が総主教を擁立した――すなわち、ディオニュシオス(Dionysius/Aaron Anjur,アロン・アンジュル)とヨアンネス・バル・マダニ(John bar Madani)である。
p.281
結局彼は一二五八年アレッポに戻ったが、次期総主教イグナティオス三世は一二六四年彼を東方世界のマフリアノに登用した。
p.295
(11) エリアスからキュリアコスまでの時代、バル・ヘブラエウスによると、シリア語文書活動はエデッサのテオフィルス・バル・トマス(Theophilus bar Thomas)が代表的存在として記されているが、彼はディオニュシオスによるとカルケドン派だが、バル・ヘブラエウスはマロン派と記しており、ライト(Wright,pp.163-4)やシャボー(Chabot,p.91)は彼をヤコブ派として言及しているのは、おもしろい。
p.297
(33) Bar Madaniは、テクリットの「マフリアノ」だった。魅力が欠如している彼の性格ゆえに、人々は彼をモスールの町から追放した。彼はバグダードに退去し、ヤコブ派トマスの三人の息子――シャムス・アッダウラー(Shams-al-Daulah)、ファクル・アッダウラー(Fakhr-al-Daulah)、タージ・アッダウラー(Taj-al-Daulah)の世話になったが、三人は共にカリフ・アル・ムスタンシル(Caliph al-Mustansir)宮廷の有力な医者だった。
p.298
彼は総主教座に選出され帰還したが、反総主教派ディオニュシオスが一二六一年バルサウマー修道院で暗殺されるまでは総主教として自由に采配を揮うことができなかった。彼は一二六三年に死去した。数々のスキャンダラスな詳細な出来事については、バル・ヘブラエウスが詳述している。
p.304
総主教管区のアンティオキアはイグナティオス(Ignatius)、エルサレムはグレゴリオス(Gregorius)、ウルファ(エデッサ)はセウェロス(Severus)、ディヤルベクル(アミダ)はティモテオス(Timotheus)、マルディンはアタナシオス(Athanasius)、モスールはバシレイオス(Basileus)、アレッポはディオニュシオス(Dionysius)といった具合である。
p.305
 女性執事制度は、婦人の洗礼補助者が初期時代に存在していたことは知られているが、幼児洗礼、堅信礼の採択に伴い、消滅したままである。
p.307
これにはトリスアギオン(Trisagion, 聖餐式用典礼文)すなわち、「聖なる主、聖なる全能者、聖なる不滅者」の讃美が誦され、大論争になった単性説派の条句、「汝、われらのために十字架に架かれし者(18)」がこれに付加されている。
p.308
七世紀初頭カンブレー(Cambrai)司教聖ガウゲリクス(St. Gaugericus)時代の「ボッビオ典礼書」(Bobbio Missal)には、シリア語聖ヤコブ典礼の「キリエ・エレイソン」を三度繰り返した後に続いて、「誰がわれらのために十字架に架かりしか」というシリア単性説派の「挿入句」をガリア語で唱えるよう明示されている(20)。
p.328
ギリシャ語典礼を執行したアンティオキアの人々とは異なり、「アッシリア教会」すなわち「ネストリオス派」は、後にアラム語といわれる特殊なシリア語方言を話し、彼らの同じ言語の古代典礼に固執した。
p.329
にも拘らず、ネストリオス派初期時代の有益な歴史記述は、教父時代の多数の著作に散見されるし、またエデッサ学派や中世盛期のネストリオス派伝道活動の状況を容易に読み取ることができる。
p.330
 先ず三人のマギー(占星術師)がアラム語を話したのは、明らかに彼らがウルハイ王国(kingdom of Urhai)すなわちエデッサから到来したことしかありえないと主張されており、エデッサは東方パルティア王国と西方ローマ帝国の二大帝国の狭間の領主国の中で、多様な言語と唯一の自治体制ならびにアラム語を保有していた。
p.331
しかしアッシリア人の伝説によると、マギーの人数は単に三人ではなく一二人が四人の三グループに分かれており、黄金持参グループはアルティバンの子アルヴァンディド、サトロスの子ホルムセッド、ゴナパルの子コスナサプ、マハロスの子アルシャク。没薬持参グループは、ワルゾドの子ザランダル、ケスロの子アクレホ、コリテの子アルバケスト、シェシュロンの子アシュトンカコドン。乳香持参者は、コハラムの子マハロス、カシャンの子アクシェロシュ、バルダンの子サドラク、ビルダドの子メロダグだという。
…アブガルは、パレスチナのエリュテロポリスのローマ総督サビヌス(Sabinus)に特使を派遣したといわれる。エデッサの特使はマリヤブ(Mariyab)とシャムシャグラム(Shamshagram)で、公証人に書記官ハンナーン(Hannan)を伴っていたが、エルサレムの帰路、病人を癒す新たな預言者を知らされた。彼らはこの預言者が思い皮膚病に罹る王を癒すに違いないと確信し、直ぐ王にこの朗報を伝えた。エデッサとエルサレム間がローマ領土で塞がれてなければ、アブガルはエルサレムに向かっただろう。王は特別死者にハンナーンの派遣を決定し、イエスが自国に来て病を癒し新たな信仰を伝えてほしい旨の招待状を託した。この外典書簡やイエスの返書は、四世紀のカイサリア司教エウセビオスによりギリシャ語で引用され、四世紀後期にはシリア語で著わされた著者不明の『アッダイの教え』(Doctrines of Addai)にも引用されている。

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中東の子どもの日常をマンガで! シリアの小学校に入学した6歳児を迎えた衝撃的な生活とは?
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 第23回文化庁メディア芸術祭(2020年3月発表)のマンガ部門優秀賞を受賞した『未来のアラブ人』(花伝社)は、フランスで発行され、23か国語に翻訳されシリーズ200万部のベストセラーとなったバンド・デシネ(マンガ)だ。

 フランスで生まれ育ち、6歳でリビアを経てシリアに渡ったリアド・サトゥフさんの子ども時代がテーマで、その描写には一切の忖度がない。だから「えっ?」と思うシーンも多いものの、水木しげると吾妻ひでおに影響を受けたというだけに、その内容はとにかくシニカルかつコミカルだ。日本版は2019年7月に発行されたが、好評につき2020年4月に続巻『未来のアラブ人2 中東の子ども時代(1984−1985)』(リアド・サトゥフ:作、鵜野孝紀:訳/花伝社)が発売された。

 主人公のリアド少年は、プラチナブロンドのロングヘアにすまして優雅な佇まいから、2歳にして「完璧」だった。そんな彼はシリア人である父の都合で、カダフィ政権下のリビアと、ハーフィズ・アル=アサド政権下のシリアに移り住むことになる。



 リビアでは入居するはずの家を他人が占拠していたり、シリアではイスラム教徒のいとこから「ヤフディ(ユダヤ人の意味)」と呼ばれてボコボコに殴られたりと、ハッピーな生活とは程遠い。そして時には「イスラムの伝統で不浄な生き物とされる」犬を、子どもたちがなぶり殺すのを見てしまうなど、日本に住んでいたら考えられないようなことが起こる。

 そんな6歳までのエクストリームな日常を1巻では描いていた。一方、2巻では7歳になり学校に通う日々を描いているのだが、これもまた容赦がない。たとえばヒジャブをまとう一方で、ミニスカートからムチムチの足をさらけ出す女教師は子どもたちを殴りまくり、親戚の未亡人の女性は義弟の子を身ごもったことで、父と兄に殺されてしまう…。シリアではいわゆる「名誉殺人」が、とても身近な場所にあるのだ。

 漫画家のヤマザキマリさんをして「この巻を読んだ後であれば、どんな星の宇宙人と遭遇しても私は決して驚かない」(本書帯より)と言わしめてしまうほど、エクストリームさに磨きがかかっている。

 しかし、本書の内容はただ恐ろしいとか、驚くとかばかりではない。リアド少年はやられっぱなしではないし、シリアでの日々には時に笑いもある。また彼が出会うイスラム圏の人たちは表情も行動もとても豊かで、戒律に縛られた窮屈なことばかりの世界ではないとよくわかる。中でも子どもたちは皆、1人1人の個性が際立っている。

 リアドさんに以前インタビューした際、なぜ子どもの目線で周りの人を描くのかを聞いたことがある。その際彼はこう答えてくれた。

“私は日本が大好きです。フランスにはない集団意識を感じることができます。来日した際は、子どもが好きなように遊んでいるのを見るのが好きでした。日本では、子どもの想像力やありあまるエネルギー、言わば「子どもらしさ」を大切にしていると感じます。それが、日本人が大人になると規則正しく振る舞えるようになる理由のひとつのように思います。世界を子どもの目線で見ることは重要です。学ぶことが多い。どの大人もかつては子どもだったわけで、子どもの背丈から見える世界を提示することは、その世界をより身近に感じさせ、時に忘れていたものを思い出させてくれるのです。幼年期とは、自分は何でもできると思える、人生の中でも貴重な時期です。外の世界を知り、さまざまな感情を覚えていく頃、そんな子どもの目線で世界観を構成することで、大人の世界の不条理や矛盾を純粋な形で見せることができるのです”
 そしてシリアでは犬を虐待するのはよくあることなのかと聞いたら、

“シリアでも動物好きはいると思います。ただ、田舎の人間が粗暴なことも確かです。続巻ではフランスの田舎もそれほど変わらないことを描いています。『未来のアラブ人』はまだまだ続きます。6巻まで描くつもりです!”
 とも語っていた。
 そんな日本大好きなリアドさんは自身のSNSに、新型コロナウィルスの終息を願ってアマビエのイラストをアップしている。

新型コロナの終息を祈って。Histoire populaire japonaise: en 1846 le Yokai Amabié apparut, et livra cette gentille prophétie: "Si une épidémie se propage, montrez aux gens un dessin de moi et ils seront sauvés!" Alors voilà (au cas où) #amabie #アマビエ #水木しげる #shigerumizuki pic.twitter.com/hR0MceN1Ut
— Riad Sattouf (@RiadSattouf) March 26, 2020
 水木しげるにインスパイアされたそれは、かわいらしくもちょっとだけセクシーだ。日本とフランスを自由に行き来できる日が、1日も早く戻ることを願いつつ、それまでは同書でリビアとシリア、そしてフランスのリアルな生活史を学んでおきたいと思う。

文=朴順梨


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