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2020年04月24日11:37

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東方キリスト教の歴史 アズィズ・S. アティーヤ 教文館 2014年05月23日

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p.343
 ニシビス校は一種の共住修道生活校で、生徒は必ずしも修道士に限らなかったが、生活は修道生活に準じたものだった。規則は独身主義に立脚し、秩序、共住生活、労働の実践を強要した。…同校はネストリオス派教会の実際の改革者たちを輩出しているが、中でも五二五年から五三三年にかけての「東方総主教マール・アバー」(Mar Aba, pat of the East)は、傑出した人物だった。総主教座にある間、彼は広範に旅行し教会教義を強化しまたいたる地域で教会会議を開催して混乱に終止符を打ったが、最終的にシャープール二世(Shapur II)時代のキリスト教迫害により殉教した。
…ネストリオス派の教義は、六世紀末までに不変的な決定版が確立した。最大の貢献者はマール・ババイで、総主教マール・ババイ二世と同名のため区別し「大マール・ババイ」と称された。
p.344
「一つなるものは、二つの本性において全てのものから崇められる。神の子キリストである。始まりなき時に先だち、御父から賦与された御子の神性において――マリアから生まれた御子の人間性において、時の満ちるにおいて、結合された体において、御子の神性は母の本性のものでなく、御子の人間性は御父の本性でもない。この二つの本性は、本性成る人格(qnume)において、すなわち一つの子なる一人格において保持されている」とネストリオス派は、現在もギリシャ語「テオトコス」(Theotokos)と同意のシリア語"Yaldath Alaha"の使用を控え、聖母の代わりに「キリストの母を意味する"Yaldath M'shikah"を使用する。マール・ババイは教会行政の職務に当たり、教会全体に多大な影響を与えたが、それは総主教サバル・イシューウ(Sabr-Ishu':590-604)の激動の時代後の総主教座空白期だった。…ついにイェシュヤブ二世(Yeshuyab II:628-43)が後継者として総主教座に任命され、教会はいったん難題から抜け出たが、後述するように新総主教は歴史上初の中国伝道企画に乗り出した。
p.345
 先ず総主教座は、古代首都のセレウキア・クテシフォン(Seleucia-Ctesiphon)に存在した。スシアナ(Susiana)管区は、ジュンディシャプル(Jundishapur)、スサ(Susa)、アハワズ(Ahwaz)、ススター(Suster)の四司教区から構成され総主教直接の管轄である。他の管区は司教区を伴う首都大司教管轄下だが、(1)総主教区――カシュカル(Kashkar)の首都大司教とヒーラ(Hira)の司教、(2)ニシビス――ニシビスの首都大司教とバケルダの司教、(3)テレドン(Teredon)――バスラの首都大司教とデステサナ(Destesana)の司教、またナハル・アル・マラハ(Nahr-al-Marah)の司教区に司教がいない場合は教会のみ、(4)アディアベネ(チグリス川とザブ川との間にある現在のヘイダブ)――エルビル首都大司教とホニタとマアルタの司教、(5)ガラメ(Garamaca)――カルハ(Karkha)首都大司教とスキアルカダテ(Sciarchadate)とダクカ(Dakuka)の司教、(6)ホラーサーン(Khurasan)――メルヴ(マルウ)の首都大司教、(7)アトロパテネ(Atropatene)――タウリシウム(Taurisium)の首都大司教、(8)ラワルドシル(Rawardshir)、ライ(Ray)とヘラート(Herat)――当初は司教区で後に首都大司教センターに。その他、首都大司教に任命されない多数の司教区が存在したようだ。それらはマイペルカト(Maiperkat)、ニネベ(Nineveh)、シンガラ(Singara)、ドランゲルダ(Drangerda)、イスファハン(Isfahan)、ヘラート南部のニシャプル(Nishapur)やセゲスタン(Segestan)などだった。
p.346
アッバース朝時代の中世アラビア語の文書では、このキリスト教徒たちは、「ナストゥーリア」(Nasturiya)また「ナサーティラ」(Nasatirah)と称した。
p.349
(40) アラビア語'Aqnum'と同じくこのシリア語は、人格(人間)を描写する「本性」を意味する。元の文言は、「二つのqyane、二つのqnume、一つのparsufa」となっている。即ち、「二つの本性、二つの人格、一つの存在」である。'parsufa'は、ギリシャ語からの転訛である。
p.351
二二五年には司教区が、バーレーン対岸のアラビア南東部カタールのベート・カトラエ(Beth Katraye)に存在していた。キリスト教はイスラーム到来よりかなり前に、ヒムヤル(Himyar)、ガッサーン(Ghassan)、タグリブ(Taghlib)、タヌーハ(Tanukh)、タイ(Tayy)、クダーア(Quda'a)などの部族に伝わっていたし、またマリア(Maria)というキリスト教徒のアラビア女王が、モーゼスなる司教を招待し、彼は女王の家臣と共に過ごした。…中央アラビアならびに南部アラビアのキリスト教進展に関する信頼すべきシリア語資料情報は、『ヒルヤム人の書』(The Book of the Himyarites)にみられるが、同書は九三二年に著わされた比較的初期時代の特に六世紀についての重要な関連資料である。同書の主要テーマは五二三年のユダヤ人アラブ王マスルーク(Masruq)によるナジュラーン(Najran)とヒムヤルのアラブ・キリスト教徒の大虐殺、ならびにその救出のため五二五年のアビシニア〔エチオピア〕からの遠征をめぐるものである。
p.352
これは紅海で溺死したマスルークの敗北で終わっている。同書によると五世紀のアラビアには六人の司教がおり、その中でヒーラ司教はカシュカル(Kashkar)のネストリオス派首都大司教に教会制度上の忠誠義務があったようだ。またサナア(Sana'a)、アデン(Aden)、ダファル(Dhafar)に教会があり、マロサ(Marotha)とジェマナ(Jemana)には修道院と学校が併設されていた。六世紀後半イエメンのキリスト教徒アブラハ・アル・アシュラム(Abraha al-Ashram)王の治世によって、アラビアのキリスト教徒は活気を取り戻した。…今日の伝承によると預言者ムハンマドが最初にキリスト教について学んだのは、ヤコブ派修道士――ネストリオス派との説もある――セルギオス・バヒーラ(Sergius Bahira)だといわれる。しかし七世紀に入りアラビアにイスラームが台頭すると、キリスト教もユダヤ教も半島から一掃されたが、ただキリスト教宣教活動とは別個のネストリオス派の記録によると、ネストリオス派の教会会議などが六七六年総主教ゲオルギオス(Georgius:660-80)主宰の下で南部アラビアで開催されている。バヌ・サーリハ(Banu Salih)人のような遊牧民は、七七九年頃までキリスト教に深く関わっていたが、カリフ・マフディ(Caliph al-Mahdi)がイスラームへの改宗を迫り、その後、八二三年マムーン(al-M'amun)が彼らを迫害した。…

 キリスト教がカスピ海南西(「ゴグとマゴグ」の地と同じ〔エゼキエル書三八−三九章〕)のギラン人(Gilanian)に最初に伝えられたのは、紀元一二〇年から四〇年で、アッダイ(Addai)の弟子アッガイ(Aggai)により伝えられたといわれるが、これは伝説の域を越えていない。
p.353
また四二四年のセレウキア・クテシフォン総主教(Catholicos)により招集された教会会議署名録には、ライ(Ray)、イスファハン、セゲスタン(Segestan)、ニシャブール(Nishabour)、ヘラート(Herat)、メルヴ(Merw)らの司教署名がある。歴史上の日付として確認される最初の記録は四九八年だが、総主教アカキオス(Patriarch Acacius:485-96)在位時に寛容政策を執っていた王カヴァダ一世(Kavadh I:488-531)がペルシャ王座をジャマスプ(Djamasp:496-98)に強奪され、王はネストリオス派の従者と共にトルキスタンに逃亡した年だった。同伴者にはアッラン(Arran)司教、長老四人、信徒二人がおり、彼らはトルコ人伝道に大きな成果を挙げた。…長老たちは現地で七年間働き、信徒たちは五三〇年まで逗留したといわれる。その後の状況を知るのは困難だが、無名のトルコ人王が自国民と共にキリスト教徒になり、七八一年、自国民を管轄する首都大司教を求める書状を総主教ティモテオス(Patriarch Timothy:778-820)に送付しているので、その頃までキリスト教が存続したことは間違いない。マルガーのトマス(Thomas of Marga)は、総主教ティモテオスが修道士八〇人を選び、司教按手を授け、福音宣教のため東方に派遣したことに言及している。ティモテオスの派遣使節団の一員にシャブハリシュ(Shabhalishu)の名が見られるのは、彼がトルコ人、タタール人、モンゴル人の語る言語に通じていたからだ。ティモテオスは、サマルカンドで居を構えるトルキスタンの首都大司教と、ブハーラ(Bukhara)とタシュケント(Tashqand)に二人の司教を任命した。ネストリオス派は恐らく一〇世紀から一一世紀にかけて、タタール系のケレイト人(Keraits)、ウイグル人(Uighurs)、ナイマン人(Naimans)、メルキット人(Merkites)を改宗させながら北東部のバイカル湖に進出した。一〇七七年頃ホラーサーン(Khurasan)のマルウ首都大司教アブディシューウ('Abdishu')は、ケレイト王が二〇万の人々と共に奇蹟的に回収した報告を、総主教(catholicos)に宛てて伝えている。
p.354
中世後期の中央アジアでのネストリオス派教会に関する情報は不十分だが、旧ソビエト連邦の南シベリアのセミリエチェンスク(Semiryechensk)地域での最近の考古学上の発見は、一四世紀までにトルキスタンに多くのキリスト教徒が存在したに違いないという事実を証明している。キリスト教墓地がイスイククリ湖(Lake Issiq Kol)近くの大トクマク(Great Tokmak)とピシュペク(Pishpek)村近郊で見つかった。…二、三紹介すると、一二五五年の石碑は「コレピスコポス(司教)・アマ」(Chorepiscopos Ama)と記名されている。また一二七二年の石碑は「ズマ」(Zuma)の記名で、司祭と同時に有名な将軍、「将軍ガワルディスの息子」(son of General Gawardis)の肩書きが記されている。また一三〇七年の刻銘は、「コレピスコポス・ヨハナンの妻ユリア」(Julia, wife of the Chorepiscopos Johanan)と判読されるが、遠隔地域での聖職者独身制の弛緩を表わしている。他に一三一五年の石碑は司祭サブリシューウ(Sabrishu')の名、一三二六年には名高い注解者で宗教教師のシュリラ(Shlila)の名、一三三八年には雄弁説教かペソハ(Pesoha)の名などがある。他の刻銘には女性名「中国人テリム」(Terim the Chinise)、司祭「ウイグル人バヌス」(Banus the Uigurian)、その他「カシュガルのキアマタ」(Kiamataof Kashghar)、「モンゴル人タッタ」(Tatta the Mongol)、「トゥスのゲオルギオスの息子シャー・マリク」(Shah Malik son of George of Tus)などの信徒名がある。
p.355
初代ハーン・バーリク(Khan Baliq)のラテン派大司教モンテ・コルヴィノのヨハネ(John of Monte Corvino)は、一三〇五年同じような手記を著わした。…
…シリア語の「カルデア外典」(Breviarum Chaldanicum)によると、「聖トマスにより、中国人もエチオピア人と共に心理に顔を向けた」、「聖トマスは中国人に囲まれ、至高の王国へ飛び去った」、「インド人も中国人も……トマスを記念し救い主の御名を誉め讃える」と記しているが、これによるとキリスト教の伝播は使徒時代に遡ることになるが、史実としてはあり得ない。…最初の伝道記録によると総主教イェシュヤブ二世(Yeshuyab II:628-43)時代、厳密には六三五年頃であることが知られている。
p.356
サーマーン朝ブハラのナスル二世アフマド(Nasr II b. Ahmad:913-42)治世時代の宮廷詩人アブ・ドゥラフ(Abu Dulaf)の例を挙げると、九四二年、彼は君主から中国使遣団員の故国への帰郷に連れ添うよう命じられた。…中国首都大司教の明確な一覧表を手にするのは無理だが、少なくともわかっているのは、一〇九三年頃に総主教サバリエシューウ三世(Sabaryeshu' III)が司教ゲオルギオスをセスタンの地に任命し、その後、同司教を中国北部のカタイ(Khatai; Cathay![中国])司教座に転任させたことだ。
p.357
一二六六年、中国のハミ(哈密/新疆ウイグル自治区[Hami;Kamul])教区の司教ヨアンネスは、総主教デンハ一世(Denha I:1265-81)の聖別式に参加している。イアムズィ(Iamzi:Yang-chau-fu)の町にネストリオス派が三教会あり、マール・サルギオス(Mar Sargius)とよばれたネストリオス派キリスト教徒が、一二七八年から八〇年にかけて中国キアン・スウ(Kian-su)地域の統括責任者だった。…一三世紀の終わりには、ネストリオス派総主教座にヤハバラーハ三世(Yahballaha III:1280-1317)のような中国系出身者が就任した。一二四五年コシャング(Koshang)生まれのウィガル(Uigar)の大執事の息子で、シリア語名モルコス(マルコ)は北中国のカタイ(キャセイ)の司教座に登庸され、その後、一二八〇年エルサレム巡礼時に総主教に選出された。
p.358
六世紀のアレクサンドリアの探検家コスマス・インディコプレウステス(Cosmas Indicopleustes)は、同島のキリスト教徒に言及している。
p.366
アル・ムタワッキル(al-Mutawakkil:846-61)時代、ネストリオス派総主教テオドシオス(Theodosius)が追放され辱められキリスト教徒は法的無資格者と見做されたが、これはキリスト教徒イブラーヒーム・イブン・ヌーハ(Ibrahim ibn Nuh)なる人物が、総主教への嫉みからカリフに不満を述べた悪質な陰謀の結果だった。
p.367
その時代の誇りはネストリオス派のフナイン・ビン・イスハーク(Hunayn b. Ishaq:809-73)で、現存するのは数冊だが彼は一〇〇冊以上の翻訳に携わった人物だ。
p.368
フナインは後継者の息子イスハーク(Ishaq)、甥のフバイシュ・イブン・アル・ハサン(Hubaysh ibn al-Hasan)やイーサ・ビン・ヤヒヤ・ビン・イブラーヒーム('Isa b. Yahya b. Ibrahim)の協力を得たが、まさに彼らはネストリオス派学者だった。…カリフ・マンスール(Caliph al-Mansur)は七六五年頃、重い胃病治療のため著名なネストリオス派医師ジュルジス・ビン・バクティーシュー(Jurjis b. Bakhtishu)をジュンディシャプル医学大病院から召喚した。…事実、彼の息子ジブリール・ビン・バクティーシュー(Jibril b. Bakhtishu)は、マアムーンの主治医としてカリフ宮廷の出入りの自由を得た。


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【漫画で紹介】“クリスチャン最大の祝日”イースターとは? 新型コロナの影響で変化も
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 神を信じる全てのみなさん、そして無神論者のみなさんも、こんにちは。



 最近は日本でもイースターに関連するイベントが増えてきましたね! 東京ディズニーランドがイースター・イベントを始めたのは2014年のことです。でも、クリスマスやハロウィンと比べると、まだまだ影が薄いような気が……。そもそも何月何日だっけ?



 そんなイースターですが、実はキリスト教徒の間では最大のお祭りなんです! その重要度は、クリスマス以上と言われることもあるほど。



 どうしてイースターには卵をデコるのか? ウサギがモチーフに使われるのはなぜ? クリスチャンはどんな風に祝っているの?



 この記事では日本の人口1%以下、激レア存在であるキリスト教信者の私が、クリスチャンのイースターを紹介します。



●イースターってなに?→「イエス・キリストの復活を記念する日」



 クリスマスはイエス・キリストの「誕生」を記念する日ですが、イースターはその「死と復活」を記念する日です。キリスト教で最も重要な出来事は、「イエスが十字架で処刑され、三日後に復活した」ことなので、イースターをクリスマスよりも重要視する場合もあるんです。



●イースターって何月何日?→「春分の日の直後の満月の次の日曜日」



 クリスマスは12月25日、バレンタイン・デーは2月14日と、毎年日付が決まっているのに対して、イースターは毎年日付が変わる「移動祝祭日」です。計算の基準となる春分の日が毎年変化するからです。



 なんでこんなに複雑かというと、イエスの死の出来事がユダヤ教の「過越の祭」の直後に起こったから。ユダヤ教の暦は太陰暦と太陽暦のミックスなので、現代世界の大部分で使われているグレゴリオ暦上でその日付を特定するには、複雑な計算式が必要になります。



 2020年は4月12日! ちなみに、2019年は4月21日、2018年は4月1日でした。最も早い場合で3月22日、最も遅い場合で4月25日なので、だいたい三月半ば〜四月半ばと覚えておくといいのではないでしょうか?



 また、教派や国によっては採用している暦が違うので、イースターとそれに関連する祝祭日の日付がずれる場合があります。



●クリスチャンはイースターをどうやって過ごすの?



四旬節・大斎(おおものいみ/たいさい):イースターの約40日前



 イースターを十分に味わうには、復活をお祝いするだけでは不十分。その前に、キリストの「死」を悼まなければなりません。その心構えのために、「四旬節」や「大斎」と呼ばれる準備期間があります(教派によって名称・期間が変わります)。イエスの苦しみを追体験すると同時に、自分の行いを振り返る特別な期間です。具体的に行うのは神への「祈り」、他者への「善行」。そして、この期間にもっとも特徴的な慣習が「食事の節制」、いわゆる「断食」です。



 とはいえ、まったく食事をとらないわけではなく、「卵・乳製品・肉」などを控える「食事制限」です(これを「斎(ものいみ/さい)」といいます)。糖質制限ダイエットの逆みたいな感じでしょうか……。この期間、カトリックでは魚はOKで代替食としてよく食べられるのですが、正教会では魚もNG。本気でやるとかなりキツイはず。



 ちなみに、この断食期間の前に「食べられるだけ食べておこうぜ!」という趣旨で行うお祭り騒ぎがカーニバル(謝肉祭)です。



 ただ、同じキリスト教徒でも教派によって過ごし方はさまざま。プロテスタントはこの食事制限を行わないところがほとんどで、四旬節は「キリストの受難までの道のりを意識して生活しましょう」くらいの意識です。筆者はプロテスタントなので、この期間に食事制限をしたことはありません。一度チャレンジしてみたい……でもしんどそう……。



 カトリックでは、長い間この慣習が守られてきましたが、現在は四旬節のうち特定の日に限定して食事の節制が勧められています。とくに儀式や慣習を大切にしている正教会では、現在でも期間中の節制が強く意識されています。もちろん、無理は禁物です! どちらの教派でも、節制を行う場合には信者それぞれの事情(健康状態や妊娠など)が考慮されています。



枝の主日・しゅろの主日:イースターの1週間前の日曜日



 いよいよイエスの受難の日が近づいてきました。この日はイエスが処刑のちょうど1週間前にエルサレムに入城した日で、民衆がしゅろの枝を掲げて歓迎したことから「枝の主日・しゅろの主日」と呼ばれています。



 この日から受難日までの1週間は「受難週」、「聖週間」。受難日とイースターに向けたカウントダウンが始まります。



受難日(聖金曜日)



 イエス様の命日とも言える日。夕方〜夜にかけて集会が行われますが、この日ばかりは、教会がお葬式のような空気に包まれます。集まった信者たちも、それぞれがキリストの十字架上での死に思いを馳せつつ静かに帰宅。初めて教会に来られた方は戸惑ってしまうかもしれませんね。でも、イースター当日とのギャップが面白いので、参加される方はぜひセットで!



聖土曜日



 イエスの喪に服す1日。この日の夜から明け方(=イースターのはじまり)にかけて、徹夜の集会を行う教派もあります。



復活祭(イースター):受難日から3日目の日曜日



 前日までの静けさとは打って変わって、この日は正真正銘のお祝い! イエス様が復活した喜びをみんなで分かち合います。集会の後、クリスマスと同じように食事会を行う教会も多いです。料理を持ち寄る場合、みんなが卵料理を作りがちなので、食卓がゆで卵であふれかえることも……。日本では新学期や新生活が始まる3月〜4月に重なるので、進級・進学・就職の報告やお祝いの場を兼ねることもあります。



 挨拶の言葉としては「ハッピーイースター!」「イースターおめでとう!」など。「実に復活!」という掛け声もあります。



イースターは終わらない



プロテスタントの筆者の教会では、イースターを祝うのは当日限りですが、カトリック、正教会、聖公会などの教会暦では、まだまだイースターは終わりません! 「ペンテコステ」という別の祝祭日まで、「復活節」「復活祭期」という期間が続き、お祝いムードは5月ごろまで持続します。



●ヨーロッパのイースター・卵とうさぎの謎



 キリスト教文化が根付いた国々では、イースターが祝日、その前の1週間(受難節)が「イースター休み」という名目で休暇に設定されています。早い場合は2月ごろから、卵やウサギをかたどったチョコレートがスーパーマーケットに並び始め、DIYコーナーでは、イースター・エッグのデコレーション用品が購入できます。



 このように、イースターといえば卵とウサギのイメージですが、これがいつから・どのように定着したのかはわかっていません。



 卵を飾る・食べる週間は古くから、さまざまな教派で共通のものです。卵から雛鳥が生まれる様子が、生命の誕生やイエスの復活を連想させるから。そしてなにより、断食中食べられなかった卵を食べよう!という発想からきていると推測されます。



 一方、イースター・エッグを子供達に配るイースター・ラビットのイメージは、カトリックやプロテスタントなどの多い西ヨーロッパが由来の比較的新しいもので、正教会や東欧諸国では馴染みが薄いようです。



●外出自粛こそが真のイースター休暇の過ごし方?



 2020年春、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の世界的な蔓延と混乱の中、受難週が始まりました。ヨーロッパでもカレンダー上、イースター休暇が始まりましたが、厳しい罰金付きの外出制限が行われている国が多く、例年のバカンス気分はありません。取り締まりを強化する国もあるようです。配信などオンラインで礼拝を行う教会も増えています。



 ただ、本来イースター前の1週間は「イエスの受難」のため静かに祈る期間。この機会に受難週の本当の意味を再認識しようというムーブメントが、クリスチャンの間で広がっています。



 とはいえ、イースターとその後の復活節までお祝いできないのはつらいところ。早くこの事態が収束することを祈っています。



(ねとらぼGirlSide/SONO)


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