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2020年05月06日12:25

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東方キリスト教の歴史 アズィズ・S. アティーヤ 教文館 2014年05月23日

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p.420
ついに大レオ一世(一一二九−三九年)は王冠を熱望し、見返りに皇帝フリードリヒ・バルバロッサ(Emperor Frederick Barbarossa)と同盟を結んだが、フリードリヒはレオ王即位前に小アジアのザレフ川で溺死した。
p.427
オルマニアンにとり「初代アルメニア開明者」は聖タッダイオス(St Thaddaeus)や聖バルトロマイ(St Bartholomew)で、両聖人の聖堂〔遺骨安置〕はアルメニア南東のアルタズ(Artaz,マクー[Macoo])やアルパク(Alpac,バシュカレ[Bashkale])に現存し、常時、崇拝されてきた。伝承によると最初のアルメニア福音宣教者は使徒ユダ・タダイ(Judas Thaddaeus)で、年代記によると紀元四三年から六六年、同国に滞在したが、紀元六〇年、聖バルトロマイが合流したといわれる。
p.428
 興味をそそるのは、アルメニアの著述家たちが聖書外典に登場するアブガル王(King Abgar)と主キリストとの物語を、父祖伝来の宗教の古さを強調するために繰り返し述べていることである。
…カイサリアのエウセビオス(Eusebius of Caesarea: ca. 260-340 A.D.)が、その著『教会史』の二場面でアルメニア人に触れている。第一は、オリゲネスの弟子アレクサンドリアのディオニュシオス(Dionysius of Alexandria,二六四年頃没)の「悔い改め」に関する書簡で、「アルメニアの人々に……その司教はメルザネス(Merzanes)だった」と述べている。
p.429
ペルシャの暴君がキリスト教をアルメニアから抹殺し、代わりにゾロアスター教導入に全力を尽くしたという可能性がある。
 しかしながらアルメニアのキリスト教は依然揺籃期にあり、学者の中にはキリスト教の正統性も使徒性もなく、むしろその性格はエビオン派でユダヤ教の色彩が濃かったと考える者もいる。アルメニアの主〔キリスト〕の人性ならびに神性に関する異説は養子説に近く、それは「神の子」は事実でなく、ただの養子になったとする初期の異端説だった。この思想の流れはアンティオキアからアルメニアに浸透していたが、特に三世紀のサモサタ首都大司教パウロス時代にとりわけ勢力があった。
p.430
厳しい拷問の末、グレゴリオスはついにアララト地方のアルタシャト(Artashat,アルタクサタ[Artaxata])要塞の地下牢に投獄された。
p.431
 聖グレゴリオスはヴァガルシャパト(Vagharshapat)の町の中心に、彼の見た神秘的寺院の巨大円柱を建てたといわれるが、後に彼はこの町をエチミアジン(Etshmiadzin)――すなわち「独り子は降りぬ」の意味――に改名した。
p.432
イェリザ(Yeriza)のアナヒト(Anahit)寺院は聖カラパク(Karapak)修道院になった。エラザムイン(Erazamuyn)のティル(Tyr)寺院、アルタシャット(Artashat)のアナヒタ(Anahita)寺院、トルタン(Tortan)のバルサミナ(Barsamina)寺院、フォルト・アニ(Fort Ani)のアルマズド(Armazd)寺院、ティル(Til)のナナ(Nana)寺院、パカリジ(Pacarij)のミトラ(Mithra)寺院、その他、数多くの寺院が莫大な財産や土地をキリスト教会に譲渡した。これまでの君主が慣例の犠牲を奉献したアシュティシャット(Ashtishat)の三つの寺院、ヴァハグン(Vahagn)、アナヒタ(Anahita)、アフロディテ(Aphrodite)は完全に破壊され、その場所にエチミアジン大寺院が建立され、聖グレゴリオスがカイサリアの町から持ちかえったバプテスマのヨハネの遺骨の安置所が奉献された。
p.435
またおそらくエビオン派の影響による奇妙な事例に、親族内婚姻の一夫多妻があった。四世紀後半の王アルシャク三世(King Arshak III)には、ファランドゼム(Pharandzem)とオリュンピュアス(Olympia)の二人の妻がいたが、個々の事例をもって全てを一般化するのは非歴史的なので、総主教ネルセスがこのような慣習に抗議し、修道院に引き籠った事実を銘記しておく必要がある。
p.436
教会は当初からタロン(Taron)地方のアシュティシャット(Ashtishat)に教会本部を設置したのは、国の首都で王の居住地ヴァガルシャパット(Vagharshapat)即ちエチミアジンに対応し、アルメニア教会の本部をアシュティシャットにしたのである。
p.437
すなわち聖書や諸文書を読む朗読者(Vendzanogh)と、その朗読文を土着の会衆にアルメニア語に翻訳する通訳者(Thargmanitsh)である。
p.440
イエスのキリスト論の重要問題に関するアレクサンドリア総主教キュリロスの大定言は、「イエスは受肉の御言葉における本性の合一」だったが、カルケドン公会議では教皇レオ(Leo)の、コンスタンティノポリスのフラウィアノス(Flavian)に宛てた有名な「教義の書簡」(Epistola dogmatica)で定義された「主は混合せず、変易せず、分離せず、二つの本性」の文言に移行された。…同会議はカルケドン信条用語はネストリオス主義的傾向だとして、「エフェソス信条」を満場一致で表明した。
p.441
ネストリオス主義やネストリオス派に対するアルメニアの伝統的敵愾心、またギリシャ・ローマからの教会独立と民族独立を放棄せざるを得ない不本意な状況が、カルケドン信条反対の決定的要因だった。
p.445
同年開催されたシラガヴァン教会会議(Synod of Shiragavan)は、ギリシャ人の「常套手段」に対し、キリストは「合一された本性」(the united nature of Christ)という古くからの教義を再確認した。
p.446
「パウロ主義を名乗る異端」の熱狂的で秘教的カルトの蔓延に、教会も国家も容赦なく追跡し弾圧した。
p.449
一方グレゴリオスの兄弟で総主教継承者に目された大ネルセス司教(Nerses the Graceful)、後のネルセス四世(一一六六−七三年)は、ギリシャ、ローマ、シリア、アルメニア諸教会の大合同の拡大協議会を構想した。
p.463
「聖三訶」(トリスアギオン)で始まり(5)、ニカイア信条告白とアレイオス派ならびにマケドニオス派の破門(アナテマ)で終了する(6)。
p.465
司教の下にいる「掌院」(ヴァルタペト/Vartapet)は、教授能力と説教能力が共に優れた宗教知識を備えた高位修道士である。…彼らはビザンティン教会の掌院(archimandrites)に匹敵する。
p.466
(1)書記(ドピル/dpir)、(2)執事(サルカヴァグ/sarkavag)、(3)司祭(カハナまたはエレツ/kahana, eretz)、(4)大司祭(アヴァグエレツ/avagueretz)、(5)大長老または博士(ヴァルタペト/vartapets)、(6)司教(エピスコポス/episcopos)、(7)監督・総主教(パトリアク/patriark)、(8)総主教(カトリコス/catholicos)である。
p.468
哲学者といわれた総主教オトズンのヨアンネス(John of Otzun: 717-28)は、アラブの保護下で勢力をもったアルメニアの異端分派に対し、『反幻影思想』なる論文を著わし、大きな貢献をした神学者だった(17)。ナレグのグレゴリオス(Gregory of Nareg: ca. 1002(18))の『哀歌』は、アルメニア版のトマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」だといわれている。総主教ネルセス四世(一一六六−七三年)が「恩寵溢れる者」すなわち大ネルセスと称されたのは、彼の修道院時代初期に著わした恵みと優雅さに満ちた詩のためだった。…
…一三世紀の代表的作品は、ガンザクのキュリアコス(Kyriakos of Ganzak)の『タタール人について』、ヴァラム(Vahram)の押韻詩『キリキア王の歴代記』、ヴァルタン(Vartan)の『世界史』などが挙げられる。一四世紀以降になると大司教ステヴァン・オベリアン(Archbishop Stephen Oberlian)の『シウニク史』(History of Siunik)、セムバト(Sembat)の『年代記』、ヘトウム(Hethoum)の『年表』と「タタール人物語」がある。その他、一五世紀のメドソフのトマス(Thomas of Medsoph)の『ティムール・レーンの歴史』、一七世紀のティブリズのアラキル(Araqil of Tibriz)の『ペルシャ侵略史』(一六〇二−六一年)、一八世紀のクレタ島カトリコスのアブラハム(Abraham of Crete)の『時代史』などが挙げられよう。初期の最重要著書のひとつにダテヴのグレゴリオス(Gregory of Datev、一四一〇年没(20))のアルメニア神学の概論が挙げられるが、一三九七年に完結した『論点の書』(Book of Questions)は現在もアルメニアの「神学大全」(Summa theologiae)としてしられている。
p.478
(18) 彼の過ごした修道院で著わされた「ナレグの書」(The Book of Nareg)は、実際には修道士に対して語っているもので、肉体の否認を勧める霊的な著書である。
p.484
 おそらく最も一般的に受け入れられている証言は、有名な旅行家、地理学者、商人で後にシナイ山の修道士になったコスマス・インディコプレウステス(Cosmas Indicopleustes)によるもので、彼は皇帝ユスティニアヌス時代の五二〇年から五二五年の間に、東方航海記録『キリスト教地誌』(Christian Topography)を著わした。彼は内陸部インドの現在トラヴァンコールのキローン市(Quilon in Travancore)、当時のカッリアナ(Kalliana)で、聖職者、信徒の群れ、司教のいるキリスト教会の存在を確認している。
p.487
聖トマスの末裔のキリスト教徒たちは、おそらくインド北部インダス河口近くのタッタ(Tatta)辺りで人知れず生存していたといわれる。…
…三二五年のニカイア公会議の「ペルシャならびに大インド」の司教ヨアンネスの参加という曖昧な来歴、その後まもなくコンスタンティノポリスにインド人セオフィロス(Theophilus)なる人物の登場、皇帝コンスタンティウス(Constantius:337-40)のインドならびに東方諸国の宣教、カナン人トマスの指導によるシリア人のインド集団移民、三四五年の東方総主教(eastern catholicos)に支援された商人、イシューウ・ダド(Ishu' Dad)の出版マークのある『ロマ書注解』に言及されるインド人の司祭ダニエルなど、これらの記事や他の全ての関連記事が、南インドにはキリスト教会がすでに相当以前より存続していたとの五世紀のコスマス・インディコプレウステスの記述を確証している。
p.530
ヘラクリウスはマロン派に対して新たなマケドニオス(Macedonius)〔聖霊の神性の完全拒否といわれるが定かでない〕主義者の説得に成功し、それにより皇帝はカルケドン紛争に起因する単性説派の分離を阻止する力になると考えた。これは単意説(Monotheletism)教義で、神人両性のイエス・キリストの意志は一つにして不可分と定義された。イエスの性は一つにして統合されていると信じる単性説派はこの新教義に魅力を感じなかったし、西方の正統派グループは後にこれを異端として断罪した。しかしレバノンのシリア人は単意説に固執し、次第に正統派やヤコブ派の両派から分離した。
p.577
カルタゴは卓越した神学者を生み出したが、当時、各地で勢力をもってきたドナトゥス派に対処するために独自の会議を開催し、中でも三九〇年の「カルタゴ会議」は有名である。この分派はイスラームの到来まで存続したが、分派の起こりは四世紀初頭フェリックス(Felix)がカルタゴ司教にカエキリアヌス(Caecilian)を叙階したことによるというのは口実で、教会のヒエラルキアはフェリックスが聖書を放棄しキリスト教迫害者に屈した「裏切り者」であることをすでに知っていた。そこで三一二年、七〇人の司教たちがマジョリヌス(Majorinus)なる人物を対抗司教として選出した。コンスタンティヌスの平和な時期の三一五年頃マジョリヌスは死去し、その後この派の推進者だったドナトゥス(Donatus)が後を継ぎ、彼は対抗勢力を凌ぐために地域の村々や農村に多数の司教を叙階した。ドナトゥス派は厳格主義者で同時に民族主義者でもあったが、キュブリアヌスの権威を盾にローマからの独立を推進した。



■ここ10年で急激に人気が高まった海外旅行先を大調査!注目はコーカサス三国&バルト三国
(Suits-woman.jp - 01月05日 08:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=211&from=diary&id=5925132

東京オリンピック開幕イヤーの2020年。今年は、今まで以上に多くの外国人観光客が訪れると予想されます。その一方で実は、海外に行く日本人も年々の増加の一途をたどっていることをご存知でしょうか?日本政府観光局(JNTO)によると、2018年に1895万人と過去最高を記録。また昨年2019年の1〜10月の日本人出国者数は、前年同月比6.9%増の1672万6100人。仮に11、12月が昨年と同水準で推移した場合、2000万人の突破は確実の状態となっています。

約半世紀ぶりにアメリカとの国交が回復したキューバの人気が急上昇!
そこで今回ご紹介するのは、阪急交通社よる約10年の間に旅行者が増えた国に関する調査結果。日本人に人気の海外旅行先といえば、ハワイやグアムを含めたアメリカや台湾、韓国、香港、イタリア、フランスなどが思い浮かびます。しかしここ10年で海外旅行に行く人が増加するともに、訪問先となる国の幅も広がっているのではないでしょうか?

そこで同調査では、2009年の旅行者数10人未満の国を対象とした「約10年前に旅行者がほぼいなかった国の上昇率ランキング」を調査。結果は次のとおりとなりました。

約10年前に旅行者がほぼいなかった国の上昇率ランキング
1位 キューバ

2位 サンマリノ

3位 ボリビア

4位(同率) アルメニア ※コーカサス三国

4位(同率) アゼルバイジャン ※コーカサス三国

4位(同率) ジョージア ※コーカサス三国

7位 バハマ

8位 コソボ共和国

9位 マケドニア

10位 アンドラ

1位は「キューバ」。約10年前に日本人観光客がほぼいなかったことが意外に感じるかもしれませんが、キューバは1961年からアメリカと国交断絶しており、2015年にようやく国交が回復した歴史があります。以後、キューバは世界中の観光客が訪れる観光立国となっているのです。

行くなら今のうち!ミャンマーのビザなし措置は今年の9月末まで
さらに同調査では2009年の旅行者数10人未満の国を除外した「約10年前も旅行者がいた国の上昇率ランキング」も発表。結果はこちらになります。

約10年前も旅行者がいた国の上昇率ランキング
1位 ミャンマー

2位 ラトビア ※バルト三国

3位 リトアニア ※バルト三国

4位 エストニア ※バルト三国

5位 モンゴル

6位 スリランカ

7位 バチカン

8位 オマーン

9位 ポーランド

10位 コロンビア

こちらの1位はミャンマーに。実はミャンマーは2018年より日本と韓国を対象に、観光ビザの免除が施行されています。ビザ免除措置は限定的なもので、現在のところ2020年9月末までの予定。これにより、免除の間に行ってしまおうという人が増えているのかもしれません。



世界三大仏教遺跡のひとつ「バガン遺跡」。草原にたくさんの仏塔が建っています。

周遊しやすく治安もいい、コーカサス三国とバルト三国に注目
またここまでご紹介した2つのランキングで気になることがあります。「約10年前に旅行者がほぼいなかった国の上昇率ランキング」ではコーカサス三国が同率4位に入っており、「約10年前も旅行者がいた国の上昇率ランキング」では2位から4位にバルト三国がランクイン。どちらも小さな国が集まったエリアですが、なぜそれぞれ人気を博しているのでしょうか?

アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアからなるコーカサス三国が位置するのは、黒海とカスピ海の間。ロシア、トルコ、イランと国境を接している場所に、東洋と西洋が織り交ざった多用な文化が息づいています。一方ラトビア、リトアニア、エストニアのバルト三国は、フィンランドの南に位置するバルト海の東にあります。三国それぞれの首都全てが世界遺産に登録されているのが特徴です。

同調査によるとそれぞれの三国の魅力は小さな国で周遊がしやすく、治安も国民の人柄も良いことだそう。さらに街と自然の風景が楽しめて、写真映えするスポットが数多いといいます。

この先海外旅行の多様化はますます進みそう。日本人がほとんど訪れないけれど魅力的な国々は、まだまだたくさんありそうです。

【調査概要】
調査主体:阪急交通社


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