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2019年09月01日20:40

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岸田劉生

もちろん《麗子》も《切通》もありますが。


没後90年記念
岸田劉生展
@東京ステーションギャラリー
フォト

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38歳で早世した画家の16歳からの画業を160点でたどります。


展覧会構成
第一章「第二の誕生」まで1907-0913
第二章「近代的傾向-離れ」から「クラシックの感化」まで1913-1905
第三章「実在の神秘」を超えて1915-1918
第四章「東洋の美」への目覚め1919-1921
第五章「卑近美」と「写実の欠除」を巡って1922-1925
第六章「新しい余の道」へ1926-1929


生涯と重要作品のおさらいメモ。
まず16歳のときの水彩風景画の巧みさに驚きました。
時代は1905年に雑誌『みずゑ』が創刊され、水彩ブームだったといいます。
その同年に劉生は両親を失っている、とさらりとかいてありましたが、ええっ?
銀座の薬屋の四男で、3歳のときにものすごいおぼっちゃま写真がありましたが
大丈夫だったのかしら。
親の反対がなかったからか、東京師範付属中学を中退して、黒田清輝の主催する
白馬会研究所に入り、1910年に入選。同年文展にも入選。早熟な天才だったのですね。


ゴッホの影響をうけた強いタッチの絵
デューラーの影響を受けたエッチングなどは初めてみました。


しかし売れるかどうかは別問題だったのか、22歳で結婚するも生活は大変だった様子。
そんなときに生まれた重要文化財。
・道路と土手と塀 (通称・切通之写生、国立近代美、1915)
同じ場所を角度をかえた作品
・代々木付近(代々木付近の赤土風景、豊田市美、1915)
も出ていました。
個人的には二つ隣の
・冬の崖上の道(個人蔵、1915)
が好きでしたね。空と土と草しか描かれていない作品です。


しかしこのとき肺病となり(誤診だともいわれます)鵠沼に転居、室内で静物ばかり描くように。
そして生まれた名作
・ツボの上に林檎が載って在る(国立近代美、1916)
晩年は冬瓜がお好きだったようですが、この時代は林檎。
本展のメインビジュアルは初めて描いた麗子像だそう。1918年。


1923年、関東大震災で自宅が倒壊(このときの倒壊した自宅での家族写真があるのがすごい)
京都に転居。肉筆浮世絵などに興味をもちます。
ところが会場内の説明によると「1924年11月ごろから茶屋遊びで生活と制作に支障をきたし」
親友だった武者小路実篤の尽力で絵の制作に戻るよう鎌倉に転居したそう。
このころの作品としてでていたのは日本画的な軸。うーんたしかに油彩に戻ったほうがいいような。
《筍図》とか《瓜之絵》とか、それこそ武者小路実篤ではあるまいに。


そして晩年。といっても35歳〜38歳ですが。
満鉄の招きで大陸に渡り、再び手がけた風景画が最後のコーナーでした。
これはよかった。
・満鉄総裁邸の庭(ポーラ美術館、1929)
それまでとタッチも全く違う。
再び何かをつかみはじめたようにみえました。
その年に急逝しているのが惜しまれます。

10月13日には劉生ゆかりの場所を徒歩で巡るツアーもあるようですね。

10月20日まで。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201908_kishida.html

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