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2018年09月29日14:32

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風水雑談:【風水の見地から見た尖閣の所属問題・その2】

■中国が600年も統治していたという大法螺■

 事変以後も中国は言いがかりを繰り返している。例えばラオスで2012年に開催されたアジアフォーラムで、中国の楊潔箎外相(当時)は

 「中国は尖閣諸島を600年間支配している。」

 と述べた。彼の論拠としているのが、『順風相送』という明の時代に編纂されたといわれている書物である。上下巻に分かれ、確かに航路の部分に「釣魚嶼」という記述がある。これは魚釣島とされている。原書の序文には「永楽元年」と書かれており、西暦になおすと1403年。
 
 尖閣諸島のひとつ、魚釣島が記載されていることは紛れも無い事実だ。

 しかし、果たしてこの書物は1403年に書かれたのだろうか?

 序文にちゃんと書いているではないか!

 と言いそうになるが、序文の末尾にはこう書かれている。

 漢文がワードでは書けないので、書き下し文に直して記す。

 長岐港に収入す 即ち籠仔沙機なり 仏郎番ありてここに在り

 矢張り横書きだと何だか落ち着かない気がする。何が何だか分からない言葉がたくさん出て来たが、航路の話なので、地名と国名がここでは出ている。

 長岐港=日本の長崎港

 収入す=入港、寄港すること

 籠仔沙機=長崎を当て字にしたもの

 仏郎番=フランク王国の人。しかしフランク王国はとっくに滅亡しているから、フランク人が長崎にいるはずがない。番は蛮に通じるため、南蛮人となり、西洋人。日本の種子島に鉄砲をポルトガル人が伝えたのは1543年。長崎の貿易が公式にスタートしたのは1570年からである。或いはもっと時代が下って、江戸時代の長崎の出島かもしれないが、明は1644年に滅亡しているので、だとしても、江戸時代初期のはずだ。

ということは、記載されている1403年に書かれたという上巻は事実だろうが、下巻はどうも1403年どころか、少なくとも1570年以降と考えるのが有力である。

 600年という数字自体がいかに出鱈目か分かると思う。

 まるで江戸時代に造られたものを奈良時代に造られましたと売ろうとする悪徳骨董商と大差のない論法である。

しかしそれにしたって、中国がその時代から支配していたことに変わりが無いのではないかという疑問は残る。

 その他にはないのだろうか?

■中国領ではないという決定打、「陳侃三喜」という言の葉■

 中国の歴史の最も旧い尖閣に関する記録として、明の官僚の陳侃(ちんかん)という人物が琉球に向かう『使琉球録』という記録が残っている。これが彼の最晩年、1534年(ちょうど織田信長が生まれた年だ)と記されている。

 中国政府は『順風相送』と『使琉球録』に出て来る釣魚嶼という言葉を用いて、「だから尖閣諸島は古来より中国領であった。」と強弁を弄して来た。前者は少なくとも600年ではないことは判明した。では後者の場合はどうなのか?

 実は陳侃は正直にも初めて琉球に出航する場面のことも書いている。その部分を見ればどうなのかかが明らかとなる。

先ほどの例によって、書き下し文を見てみよう。

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 琉球国の進貢船至る、予等これを聞きて喜ぶ。閩(びん)人、海道を諳せず、方(まさ)に切にこれを憂うに、其の来たりて其の詳を詢(はか)るを得るを喜ぶ

 翌日また報ず、琉球国の船至ると。すなわち世子、長史蔡廷美を遣わして来りて予等を迎えしむるなり。則ちまた其の必ずしもこれを貢者に詢らずとも、しかもこれに前駆をなす者あるを喜ぶ

 閩(びん)人の善く舟を操らざるを慮り、看針通事一員を遣わし、夷梢善く舟を駕する者三十人を率い、代わりてこれが役を為さしむ。則ちまた其の必ずしもこれを前駆に借らずとも、しかも舟を同じくして共に済る者あるを喜ぶ

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 口語訳(大意)

 福建の人たちは航路を知らないので、どうやったら(琉球に)渡航出来るのか(陳侃は)憂いていたところ、琉球から公式の貿易船が来た。我々は詳しい琉球の情勢を知ることが出来ると喜んだ。

 更にその翌日、琉球からの迎接船が入港するそうだ。この船は琉球王の太子の船であり、貿易船のクルーに相談せずともこの船に先導してもらえば渡航できると(二度)喜んだ。

 琉球王は「福建の人たちは船旅に不案内だろう」と察して三十名の職員をクルー及び水先案内人として明の国の船舶に協力して派遣した。迎接船に案内して貰わずとも、渡航は出来る、それで彼は(三度)喜んだ。

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 これを見てどう思われるだろうか?

 それでも中国領だと言い切れるのだろうか。とどのつまり、16世紀前半になってもまだ明は尖閣諸島の存在はおろか、島の名も知らないどころか、行き方すらろくに知らなかったということになる。行き方も知らない島を

「我が国の領土だ」

と強弁を弄しているのだから、このようなことはあり得ない。それだけは確かである。

 陳侃はそれにしても正直な人物である。

 三度も喜ぶことで、当時の中国に琉球への渡航技術は無かったことを白状している。寧ろ琉球の渡航技術と知識の方がはるかに恐るべしだ。既に中国人の水先案内が出来るほど、尖閣諸島海域について熟知していたほどだからだ。

「陳侃三喜」という四字熟語を今後は広めて理論武装すべきである。

 なお、上記の史料は国立公文書図書館に行けばどなたでも見ることは出来る。漢文の知識が必要だが。

 まだある。本題の風水の見地から見た、琉球王国と尖閣である。それについては次回にしたいと思う。

 最後までご覧頂き、ありがとうございました。

(続く)

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