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2017年01月09日06:47

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クラーナハのレクチャー

現在、国立西洋美術館で開催されている《クラーナハ展》、
企画された国立西洋美術館研究員の新藤淳氏のレクチャーを聴きました。

事前に提示された課題本は
『クラーナハ"ルター"〜イメージの模索』(マルティン・グルンケ)
フォト



今回のクラーナハ展が誘惑する女が中心というイメージだったのにルターとは、と思い、
さらに読み始めると同書は論文そのもので、巻末の訳者による解説を読んでようやく論旨の意図がわかる始末。

でもおそるおそる臨んだ講演会ではかなり謎が解けました。
いくつかのQ&Aを記録しておきます。

問い。
同時期の画家としてはデューラーの方が有名ではないか?
答え。
全くその通り。
日本でもデューラーの研究者は前西洋美術館長前川誠郎先生とか、東大の秋山聡先生とか…たくさんいらっしゃる。
それに対してクラーナハはとても少ない。
でもフランス文学の好きな人とかシュルレアリスムを経由したりしてその世界に入っていくようだ。
そもそもデューラーはドイツでは神様みたいというか大スターで、クラーナハは2番手3番手。

問い。
クラナッハでは?
答え。
研究者の間では20年以上前からクラーナハ。
クラーナッハにすることも考えたし、いっそクラナハと表記する場合もある。
ボッティチェリとか日本語ではいつも表記の問題が起こる。

問い。
今回の展示では中国の芸術家に《正義の寓意》の複製を描かせたり、森村泰昌の作品をもってきたりと西美ではあり得なかったような展示だが?
答え。
確かに国立国際美術館なら自然ということはある。でも巡回があるなしと関係なく、当初からこうした企画だった。
クラーナハは500年前のドイツの画家である。
では我々はそこから何を持ってくるのか?
古い時代の問題(作品)を今日的に捕らえられないか?
ルネサンスといえばイタリアが本家王道。
デューラーにはじまるドイツルネサンスはどうしても周辺というかマージナルである。
そもそもイタリアルネサンス自体が古代ギリシアへの憧れなのにさらにその輸入…ということは孫引きか。
しかしそうした文化の翻訳プロセスでおこる歪みが面白いのではないか。それこそがダイナミズムではないか。
そうした狙いを持った展覧会構成である。


レクチャーでは、幾つかのキーワードが提示されました。

◆記憶
◆蝋(ろう)etc.

「クラーナハ ルター」で検索しても
「ルター」で検索してもクラーナハの画像が出てくる。
中学生向けの参考書でもルターの画像はクラーナハの絵。
つまりルターのイメージを作ったのはクラーナハなのである。
クラーナハによるルターの肖像画は何バージョンかあるが、そのうちのひとつに次のような銘文がある。


ルターの精神の肖像を生み出すのはルター自身であり、それは不朽である。
しかしルーカスの蝋は、死によって消滅すべきルターの顔貌を写す。


ここにはプラトン哲学の影響を見ることができる。
プラトン哲学では、現実とはイデアのコピー、描かれたものはさらに現実のコピーであることから絵画は二重に劣っていることになる。
銘文にいう精神とはイデアに置き換えると解りやすい。
そしてプラトンが記憶について語るときに出てくるのが「蝋」。
心のなかには柔らかい受容体があり、インプレッションにより記憶が残る。つまり蝋は記憶のメタファーである。
ルーカスとはクラーナハ。

そしてクラーナハによって作られたルターの記憶(イメージ)が
カトリックによって偶像破壊の対象になるほど高められたことなど
興味深いお話は尽きませんでした。


1月15日まで。
1月28日から大阪の国立国際美術館に巡回。
http://www.tbs.co.jp/vienna2016/

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