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2024年05月05日21:11

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能面師になった南波先生に五十一年ぶり会いに行く

横浜市立屏風ヶ浦小5年2組のときの担任・南波好之先生とは、
今もお年賀を出し合っている。
高校くらいには
「あのクラスでまだ年賀状をくれるのは、山崎と中島だけだ」
と書いてあり、大学ぐらいになると、
「もう山崎だけになってしまった」と書いてあった。
中島志津佳は、おれが一番好きだった女子。

おれは京都から5年生の10月に転校してきたので、
南波先生に教わったのは、5か月ほどだろう
それでもいつまでも忘れられない思い出がある。

クラスの男子5人くらいで、横須賀の南波先生の団地に遊びに行った。
先生は新婚で赤ちゃんがいた。
すぐそばに海があり、みなに釣り竿を貸してくれて、
先生に引き連れられ、テトラポットで海釣りをした。
ハマったら死ぬ、とおもい、怖かった。
成果は、ひとりのやつが一匹釣っただけ。
先生は家の冷蔵庫から前日じぶんで釣った魚を出し、
食べさせてくれた。

それから、体育のサッカーの時間に、薮田というヒネた生徒が、
フィールドの外からプレー中の新海シンジにツバを吐いた。
ナンバ(みな、先生をそう呼んでいた)は遠くからすっ飛んできて、
「ヤブター!!」と叫びながら、振りかぶってのビンタ!。
ヤブタはスローモーションのようにうしろに吹っ飛んだ。
気の強いヤブタは、無言の涙目で先生を睨んでいた。
おれはそれを、すぐ目の前でみたのだ。
おっかない、というより、きもち良かった。
先生は当時二十六、七くらいだろう。

もうひとつ、おれたちは、当時流行のスカートめくりやら
ボインタッチなんかをやっていたが、
一度、常習犯のやつら何人か黒板の前に並ばされ、
ズボンをじぶんでおろさせられた。
女子はそんなふうに恥ずかしいんだぞ、という戒めに。
その後、スカートめくりをやめたのかどうかの記憶はないが。


先生は三十二で能面師に付いて、能面作りを習い始め、
五十二で教師を退職。以後、能面師となった。
おれはその当時、毎年もらうお年賀が、
なんで怖い能面の全面写真なのか、不思議に思っていた。

2011年お盆過ぎ、おれは箱根町役場にクルマを乗り捨て、
チャリで横須賀の先生のうちをいきなり訪ねたが、
先生は留守だった。
この何十年のお年賀では、
おれは山の写真やら南米ペルーのことを書いて出していた。
「山崎はずいぶん活躍しているな、と見ていた」
「ハイ!それらはもう、だいぶ前のことですが、
この6月に退職して、またじぶんの一番やりたいことを
やろうとしているところです」

先生の人生も紆余屈折あったようだが、一本の道を貫いている。
七十八か九、お元気だ。

「先生は私立中に行く特別成績いい生徒の『お受験』に
熱心でないので、六年生に上がるとき、担任から外された、
とおふくろたちは言っていました」
「ハハ、ふつうは5・6年と、つづけて受け持つのにな」

12時に京浜急行馬堀海岸(まぼりかいがん)駅近くの
小さな個展会場に入り、先生が作ってきた能面を観て、
能面の話を聞いた。
おれたちの屏風ヶ浦小のあとに受け持った、
せがさき小学校時代の教え子も姉妹で花を活けにきていて、
花瓶への水やりなど、おれも手伝った(下心もありで)。
先生のファンで個展開催中、助手みたいにしている橋口さんは、
天草の出で、信州好きなので、たくさん話をした。
地元の人たち、能面にえらい興味をもっている高校生男子なども、
来場した。
おれは閉館の5時、南波先生と橋口さんとともに会場をあとにした。

先生、おれは頑張ります。


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