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2022年11月28日21:37

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ポタリストの記録【4代目のタイヤの習熟走行・その3】

■安養寺〜田園地帯の古寺。しかし格式は高い〜■

安養寺は真言宗智山派のお寺で、南北朝の永和年間頃(1375〜78)に開山されたと言われる。

同市内にある高尾山の薬王院と法類(注・浅からぬ関係)にある。それだけでなく、川崎市の平間寺(通称・川崎大師)、成田山新勝寺を本山としている。

長閑な田園地帯にあるので、とても親しみやすいが、格式は立派だ。

駐車場・駐輪場が実は山門とは正反対の裏手にあるので、そこを停め、ぐるりと回らないと、山門には行けない。サイクリングのラフでややチャラい格好だが、それでも順序通りに行くことにした。

山門は創建不明。この不明というところがまた良い。寂れていところに年代を感じさせる。山門を潜ると六地蔵がお迎えしてくれる。

境内は植生が豊かで、どの季節に行っても、花がそれなりに見られる。これからの季節は千両・万両、寒椿か。また訪れてみたい。久しぶりにお賽銭を入れることが出来たのは良かった。正月三が日の初詣は仕事柄、社会人になってから一度も出来ていないので、ここで「抜け駆け参拝」を行なう。

川口川に戻り、更に上流を進むことにした。

■法蓮寺(注・表記出来ないが、しんにょうに点がひとつ付く)〜あのDJのご実家〜■

川口川の源流は新小峰トンネルの先、今熊神社の手前に当たることもあり、川口川は少しずつ傾斜を増していく。サイクリングロードと言うには狭い遊歩道をのんびりと進む。
南側の丘陵の向こう側は「夕焼け小焼け」の童謡の舞台になっているぐらいだから、長閑なところだ。

直進すれば長福寺、左折して川口川に架かる橋を渡ればすぐに秋川街道になる信号のない交差点を右に目を向けると、突き当たりの高台に法蓮寺が見えて来る。

途中の中学校から大勢ジャージ姿の子たちが見えて来る。時間にしては早いので、学校行事があったのか。近年、東京都の中学生たちもジャージ登校の学校が増えている。ここもそうなのか。

中学校の校門を通過すると、住宅地とは道ひとつ隔絶した高台だ。生活道路なので、飛ばして来るクルマは先ず無いが、交差点に注意し、久方ぶりにフロントをローにし、リアを5→4→3と落としてダンシングで駆け上がり、電柱にアースロック。

宝池院 法蓮寺は時宗のお寺である。鎌倉時代、嘉元2年(1304年)に開山された。室町時代は川口氏という豪族が保護していたという(河川の名もこの豪族からだろう)戦国末期、武田氏滅亡の折、松姫一行は八王子に落ち延びたが、従っていた小督姫がこちらのお寺に身を寄せ、遊行上人の導きで出家し、玉田尼として生きていた。松姫は八王子市恩方地区で庵を結び、ひっそりと暮らしていた。徳川家康からの差し入れも内密にあったという。こちらのお寺も江戸幕府から保護され、10石を拝領していた。

なお、ご存じの方も多いかもしれないが、FUNKY MONKEY BABYS(ファンキーモンキーベイビーズ、所謂「ファンモン」)のDJケミカルの実家として知られ、DJケミカルご自身もグループとしての音楽活動の傍ら副住職を務めていたが、将来的に本寺の住職となるため、メンバーから抜け、住職をされているという。

山門から川口川方面を見ると、大変な急坂であることが分かる。嘗て川口川は暴れ川で、しばしば避難所として使用されたのかもしれない。実際、現代になっても東日本大震災の際、地震発生から大津波までタイムラグがある事が分かっていた人は一目散にカーナビの「卍」の記号がついているところに逃げて助かった人が少なくなかった。

八王子市内では有数の古寺なので、本堂は立派だが、生憎お賽銭をを投じることは出来ない。コロナの影響はまだまだ続いている。

最後に長福寺に向かう事にしよう。

■長福寺〜伊達家に献上された萩が時代を越えて戻って来る〜■

長福寺は先ほどの川口川沿いの道まで下りて進むのも良いが、何度か訪れている。住宅地をゆっくりと法蓮寺沿いに進み、自転車と歩行者しか通れない生活道路になる。左手に打ちっ放しのゴルフの練習場を越えると、直ぐにお寺である。

真言宗智山派のお寺で、安養寺と同じ宗派だ。

開山されたのは、江戸時代の寛永二年(1625年)に没した勝恵法印とも、延宝七年(1679年)に没した頼永法印が創建されたとも伝えられている。

中興第一世智隆和上は、大正6年に『仙台萩(宮城野萩)』をもらい受け、根分けを繰り返しながら境内周囲の萩を育成して来ました。現在2,700株もの萩に囲まれ、別名『はぎ寺』とも呼ばれ、東京随一の萩の名所として多くの方々に参拝されている。

ただ、残念だが今の季節は当然見ることが出来ない。だが本堂はとても立派で、その周囲にユーモラスな像が数多くある。

萩寺になった経緯についてはちょっと見逃せない。

実は仙台萩は全部とは言わないが、江戸時代の初期、大悲願寺(東京都あきる野市)から仙台に渡った。あの独眼龍こと、戦国武将の伊達政宗が江戸を訪れ、秋川で川遊びをした後、大悲願寺に立ち寄った際、満開の萩に遭遇する。

仙台に帰国後、どうしてもこの萩の苗が欲しくて、政宗は書状を送る。大悲願寺側はこれを快諾し、献上した。

以後、東北にも萩が広がることになる。

何とそれが時代を越え、再びトンネルの向こう側の多摩地区の街に伊達政宗に献上された萩の子孫たちがカムバックして来たのである。

本堂で100円を投じ、おみくじを引いた。姓名診断もお受けしているので、数字を見ただけで、吉凶がほぼ分かるが、「11」の大吉だった。

それ以上望むべからず、そう戒められた感があり、物足りなさを感じた。矢張り人間は欠陥が或る程度あった方がそれを乗り越え、成長できる伸びしろがあるのだ。

萩寺こと、長福寺の坂下、川口川手前の公園で、先ほど24時間営業のスーパーで購入した、焼き立てパンと飲料水で休憩した。コロナ第8波の昨今、外食は余程の事がない限りしないことにしている。老母は80歳を越えており、発症すれば先ず命は無いからだ。ならば今外食する必要はどこにもない。

次回はアウトロ、帰路です。

最後まで御覧頂きまして、ありがとうございました。

(続く)

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