これは東京のとある企業で働く安藤(仮名)さんからお聞きした話である。安藤さんが勤めているのは都区部にある総勢50名ほどの中小企業だが、毎年慰安旅行には結構良いところに会社に連れて行って貰っていた。
今年は東北の某県のひなびた温泉街と決まった。大型バスに乗り込んで、当地に着くと、温泉街の夕方であれば、明るいし、温泉客も浴衣を着てのんびりと歩いているのが普通である。
しかしそんな姿がないどころか、明かりの点いているところすら少ないのはどうした訳か。
バスは温泉街の共用の駐車場に駐車した。社長はフロントに向かっていく。
隣に座っていた丸山さん(仮名)は
「今回はちょっとハズレかもね・・・。」
「そうかもね。会社も経費節減というところかも・・・。」と安藤さんは答える。
居合わせた社内の人達も同じようなことをひそひそと話しているようだった。門の前でかなり年配の女将らしき女性が出て来て、会釈をして、社長に話しかけた。
「お坊ちゃん、覚えておいて頂き、嬉しゅうございます。」
と目を細め、
「皆様もようこそお越し下さいました。どうぞ。」
社長の知り合いが経営している宿だという事が分かった。幹事によって割り当てられた部屋に向かい、一段落して風呂に向かった。露天風呂は風情があって良かった。湯の神さまだろうか、観音様もあり、いかにもいい意味で古めかしい。照明はやや暗くてそれが逆にムーディでもあった。
ただよくよく見ると部屋に戻る際、飾り棚は蜘蛛の巣があったり、床の縁にはカビがあったり、清掃は行き届いている感じはしない。
湯上りのタイミングで一同が百畳以上もの大広間で夕食を摂った。
挨拶に女将が「こちらの温泉街は嘗ては賑やかでしたが、今ではすっかり寂れてしまい・・・」と云った。
宴会も進んだあたりで女将は社長にビールを注ぐ。社長は軽く会釈し、
「先代はお元気でしょうか。」
と聞くと、女将は飛び上がらんばかりに喜ぶ。
「お坊ちゃま。それはもう・・・。一同、精いっぱいご用意させて頂きました。どうぞごゆりとお過ごし下さいますよう・・・。」
というと、涙を拭う仕草も見受けられた。
料理自体は冷めていたが、気の合う仕事仲間と雰囲気でそのようなことは大して気にならなかった。安藤さんは営業という仕事柄、接待をすることもあるので、宿の仲居さん達の見事な動きに目を見張った。
疲れもあって、安藤さんも含め、お酒の酔いも手伝って、直ぐに寝入ってしまった。
翌朝。
会社の幹部たちが全員を起こしに回っている。何事かと確認すると、準備が出来次第、直ぐに出発だというのだ。洗顔と歯磨きを終えるとバスに皆乗らされたという。
バスが出発すると、社長がマイクで説明を始めた。
「ここは先代(社長の先代)が懇意にしていた旅館でな、偶には慰安旅行に使ってみようかと幹事に云った。でも実を言うと、今は場所を移動して、別のところで営業をしているんだ・・・。」
一同は隣の人達と顔を見合わせる。
すると幹事にマスクを渡し、
「朝、支払いをして欲しいと仲居さんから声を掛けられました。信じられないかもしれませんが、こちらの宿の女将は既に亡くなっているとのことです。衰退する温泉街の宿で最後の少数の客まで頑張って対応していたのだけど、宿の一室で自殺を図っていたとのことです。」
バスの中、どよめきが起きる・・・。「ええっ。」とか、「そんな信じられない」とか、「嘘でしょ」とか、「私たちが見た人は誰だったのか」とか・・・。
「私ども幹事が宿の予約後、仲居さんの枕元に亡くなった女将さんが立って、お願いに来たとのことです。『50人ほどのお客さんがこれから来るから、おもてなしをして欲しい。』と。毎晩毎晩立つから怖かったけど、生前自分たちをかわいがって下さった女将さんの言う事なので、宿を開ける準備をしたそうです。仕出し屋さんも既に閉店した旅館から50人もの注文が入ったので、びっくりしましたが、女将さんのことは知っているので、半信半疑ながらもひょっとして、女将さんのご親族かなと思い、注文を受け容れたのだそうです。」
一同はキツネにつままれたような感触を覚えたという。女将さんは参加者全員が確かに見ている。しかもこの幹事によれば、仲居さん達は誰一人、枕元に立った時以来、女将さんとは会っていないという。
逃げるように旅館を去った安藤さん達はサービスエリアでそれぞれ朝食を摂り、帰途に着いた。
後日全員が社長の指示で念のため、慰安旅行の参加者合同でお祓いを受けた。
お祓いを終えると、社長が集まった全員の前で先ずお詫びをし、女将さんは皆さんを怖がらせるためではなく、もてなしたくて出て来たのだから、どうかそこは許してあげて欲しいと述べた。
あの涙はそういうことだったのかと安藤さんは合点したという。
不思議な話があるものだ。霊ももとは人だから、恨むこともあれば、恩返しをすることもあるようだ。
最後まで御覧頂き、ありがとうございました。
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