今年もまた8月15日が近付いてきたか、という気分でこのドキュメンタリーを録画しました。日本映画専門チャンネルの番組表を見ていて、“?”と思ったわけです。沖縄の“決戦”については岡本喜八監督の映画をはじめ、メル・ギブソンの「ハクソー・リッジ」など、いろいろ見ました。先日は「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記」(2019)という、若い世代が沖縄での戦争に思いを馳せるという、好感のもてる(もちろん“戦争”に対してではありません)作品にも出遭え、人間としての反戦という基本姿勢を明確にしました。
まず今回は題名に“?”だったわけです。沖縄の戦禍に対して“スパイ”って何よ、という感じ。そうは思うけど見始めたら、タイトルはまず「沖縄戦史」と出ます。そして「沖縄」と「戦史」の文字の間に空間ができ、そこに“スパイ”という文字が浮き上がりました。そして、その意味はしだいに分かるようになります。
この作品のホームページから引用すると、“第二次世界大戦末期、米軍が上陸し、民間人を含む20万人余りが死亡した沖縄戦。第32軍・牛島満司令官が自決する1945年6月23日までが「表の戦争」なら、北部ではゲリラ戦やスパイ戦など「裏の戦争」が続いた”ということです。僕はこの記述に対して異を唱えたいけどね。つまり“裏の戦争ではない、これが戦争の素顔なのだ”と。
日本軍は、陸軍中野学校で訓練された青年将校42名を派遣し、本島南部に拠点を置いた軍とは別に、十代の少年たちを中心に護郷隊を組織して米軍と戦います。その戦いを体験者の証言から明らかにしたのがこの作品でした。関係者たちも“思い出したくない記憶”だけに口は重いのですが、しだいに全貌が見えてきます。
そして明確になるのは、“戦い”が住民を守るためのものではなく、勝利のためには手段を選ばないという方法になるということでした。戦争は国民を守るものではなく、国体護持という大命題を完遂する、それが最優先なのです。だから住民を徴用して軍事物資を地下に隠した後、その事実が米軍に漏れるのを恐れて働いた人間を殺したりする。
それらの“非道”な実態が、明確に綴られます。ひとたび戦争になると“非道”があたりまえ。というか、そもそも“人の道”などという発想は戦争にはない。それを“戦時だからやむを得ない”とか“国を守るためだ”という論理で無理強いするのが、戦争の本質なのだと我々はもう一度思い直す必要があるでしょう。
そして軍部はこの考え方を、本土でも適用するつもりだったと明かされます。長野県松代に大本営を移し、“徹底抗戦”を行う計画が機密文書として残っている。国を守るという目的で作られた軍隊が、国が解体しても戦い続けるというこの“矛盾”を、平気で“計画”として予定していた訳です。こんな組織が(そして考え方が)存在してはいけない、と僕は考えます。
僕は以前から、“軍隊の存在そのものが矛盾である”と考えていますが、“現実を見ろ”という主張が多く、憲法に反して軍隊が作られました。さらには戦争の放棄をうたった憲法を“実態に合わない”から変えようとする現実論を唱える輩がいます。言論は自由ですからその口に戸は立てられませんが、戦争が結果的に人としての生活を無視する方向に進む事実については、やはり無視できないと思う。
このドキュメンタリーは、沖縄での悲惨な戦いの“責任”を問うのではなく、あんな事実を再び繰り返さないようにと、我々に注意を喚起しているのです。僕個人としては、あの戦争を遂行した全国民がそれぞれ自分の責任を反省するべきだと考えますが、沖縄に立つ石碑は違いました。明確に“罪は許すけど、忘れない”と刻んであるようです。この文字を刻まざるをえなかった“無念さ”を我々は忘れてはいけないと思う。
人間がひとりひとり、個人として“戦争反対”を唱えても、世の中の大勢はそうはいかないこともあります。しかし、まずは個人が、明確に反対を表明することしか道はない。かといって安易に野合する気は僕にはありません。慰霊のための桜が満開になった映像に涙するのも結構だけれど、涙で終わると何も救われない。
ともあれ、このドキュメンタリーは、ある事実に対して明確にスポットライトを照らしてくれました。全世界の人々すべてに見てもらいたい作品です。
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