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2020年02月05日04:59

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“売り文句”の中に、すでに“誤解”が存在する。しかし貴重なドキュメンタリー。豊島圭介監督「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」(2020)。

いちはやく試写を見せていただきました。僕は1969年にこの討論を収録した本を読んでいますが、もはや内容は憶えていません。しかもテレビで部分的に放送された(ウィキによると13分らしい)映像を見ていないので、今回の映像と音声は貴重です。何が貴重かと言うと、1969年11月25日に三島由紀夫が自決したとき、僕は極めて大きな衝撃を受けたから。

もちろん僕は、三島由紀夫のファンではありませんし、彼の著書をきちんと読んだ覚えもない。また彼が“日本人”という前提で物事を語る部分には、まったく相いれないわけです。そういう意味で、あの時期の同世代たちが三島に噛みついた“現場”が映像と音声でよみがえったのは、実に貴重だと思う。

「50年目の真実」のインタビュー部分には興味ありません。せいぜい楯の会が自衛隊で“実弾演習を行っていた”という真実が興味深かったことくらい。半世紀を経た今、関係者からの言辞を拾い集めても、並べ方が“無方向”だから週刊誌のインタビュー記事程度にしか響かないわけです。少なくとも、あのとき赤ん坊を抱いて壇上にいた芥正彦と対峙したカメラは、あの時間と空間をそれなりにとらえた。が、残念ながら後付けインタビューは、あのときの三島由紀夫の1/100程度くらいしか芥に迫り得なかったわけで、この映画の実態を明確にしています。

つまり逆に、いやだからこそ、三島由紀夫がていねいに東大の面々と語り合う姿が、僕には感動的でした。三島が“私の大嫌いなサルトル”とサルトルの言葉を引用すると、芥正彦がサルトルはすでに乗り越えられたみたいな発言をする。三島は“日本人”を強調し、芥は日本人というこだわりを否定するのですが、現状認識などでは了解点が多い。この了解点を大学側(つまり政府)と民青は無視して入試再開を相談していたわけです。だからこそ三島は、東大全共闘からの“誘い”に乗って900番教室に現れたのでしょう。

ということで、このドキュメンタリーの良さは、あの討論の実態を映像と音声で再現したところにあります。1969年5月の濃密な討論が生々しく再現されている、その事実は今でも鮮烈でした。傍観者(僕やマスコミ、知識人たち)が何を言おうと、この事実は生きています。だから、このドキュメンタリーを、つけ足したインタビューなどから読み解こうとせずに、生き続けている討論(内容を虚しいと考える人は見なくていい)から、あの時代を感じてほしい。

三島の自決を惜しんでも、それは感傷であり意味を持ちません。もっとも三島ファンだったという女性小説家には大きな意味があるのでしょう。あるいは当時主宰者だった学生が50年後に語る言葉には、彼の人生があるとはいえ、その程度のドキュメンタリーなら週に何本かテレビで見られます。この映画の貴重さは、三島由紀夫という45歳の有名作家が、彼の母校の後輩たちからの“挑発”を受けて立ち、ていねいに応えているところにあり、その姿が16ミリの画質だとは言え、鮮明に我々に届いているということなのです。

平野隆というプロデューサーは公式ページで、“「議論する」なんてダサイ。「熱くなる」なんてカッコ悪い。そんな風潮が蔓延している昨今、この映画はドンキホーテの如く何かに向かって疾走しています”と述べています。そんな製作者側がプレスシートに、学生運動に走った過激派を“危険極まりない”と表現している。つまり彼らにとってドン・キホーテは、せいぜい安売り多売店同様の商業主義的意味しかないのでしょう。

だからこのドキュメンタリーの“正しい見方”は、当時の状況を後年の解釈なしでそのまま受け取る、ということです。少なくともこれだけ当時の映像が残っているのですから、その言葉を当時のニュアンスどおりに感じ取ることは可能です。そして映画というものは、それができる有効な媒体なのですから、それを意義あるものにするのは観客のあなたなのです。このドキュメンタリーはすでに作者の手を離れて、観客と向き合う“作品”となっているということです。
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