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2016年03月03日00:24

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史談・ひな人形と三歌人

3月3日は桃の節句とされる。節句というぐらいだから、物事の節目の日にあたる。起源は定かではないが、昔は人形を川や水に流す「流しひな」だった。現に『源氏物語』では光源氏が身の穢れを浄化するため、人形に乗り移らせ、川に流すシーンがある。これなども「流しひな」の風習を物語るものである。

 時代が下って、江戸時代ぐらいになると、桃の節句は3月初めの巳の日だったのが、いつしか3日が桃の節句になり、「流しひな」が飾るひなになってきた。今の原型である。

 実は江戸時代、桃の節句は祝日としてちゃんと存在していた。それが明治になると、まだ東北、北陸は雪深く、お祭りで外出でもして怪我をしたらという配慮などから、祝日では無くなった。端午の節句よりも華やかなのに、祝日ではない理由である。

 さて今回はひな人形に祀られる三歌人に纏わる話。

 三歌人とは小野小町、菅原道真、柿本人麿を指す。

 この三人、ご存じの方もいるだろうが、皆、良い死に方をしていない。先ず小野小町は歌人と共に、絶世の美女とされる。彼女が若いときの肖像画は、後ろを向き、つややかな黒髪を垂れている姿が書かれている。これはそれほど美人だったということになる。

 それだけに言い寄って来る男性も多かった。例えば深草少将は彼女を口説き落としたくて、言い寄り、小町は「それでは百夜、通ってくださったら、あなたに従いますわ。」と言い、彼はしゃかりきになって通った。しかしとうとう99日目で疲労のあまり斃れた。

 これが題材になって、晩年の小町は老い、たそがれた醜い老女として描かれるものもある。

 そもそも考えてみれば、或る女性は歌の名人です、しかし伝記はありません。おかしな話である。しかし様々な事件から彼女に迫ることは出来る。

 この時代、気になる政治的事件がある。

 それは文徳天皇に子息、惟喬(これたか)親王がいたのに、当時政治的に台頭してきた、文徳天皇の伯父の藤原良房が藤原氏の血筋をひく惟仁親王を
無理矢理皇太子にしてしまった。このふたりの争いは有名で、呪詛合戦をしたたり、祈祷合戦したりと禍々しいサイキック・ウォーも『江談抄』あたりにも出ているし、相撲で勝負したり、色々な話が出て来る。

 ともあれ、惟喬親王は政治的に敗れた。

 やがて成人になった惟喬親王は失意のあまり都を去る。病を経て、出家。彼は素覚法師と名乗った。その隠棲した地、そこが比叡山の西の麓、小野の郷だった。ここはあの聖徳太子の時代に出て来る小野妹子、その小野氏の発祥の地なのである。人は病気が酷くなると、気弱になってくるものだ。そうなると、一番落ち着くのは、矢張りゆかりのあるところなのではないか。

 名を示す「小町」とはどういうものだったのか。これについて作家の山村美紗氏は「これは職位だったのではないか」と以前NHKの「歴史発見」で述べていたのを記憶している。恐らく本名は別だっただろう。但し、かなり惟喬親王に近い身分の高い高貴な女性、更に小野氏の血をひいている女性ということになる。

 となると、小町は惟喬親王失脚と同時に二度と政治的には浮かび上がることは出来なかった女性なのは間違いない。

 菅原道真は太宰府天満宮で祀られる学問の神様として知られる。しかしここに来た時、事実上彼は左遷させられたも同然だった。そこで失意の元で病死する。この時不思議なことが起きた。彼の棺を乗せた車が動かず、そこをお墓としたそうである。そこが現在の大宰府天満宮だという。

 彼がその後「歴史」に登場するのは1219年(承久元年)のこと。承久の乱前夜で、天皇、摂関家、鎌倉幕府の関係が微妙になり、戦いは避けられない情勢になるなか、世相は不気味な静かさを保った年である。元々京都の北野天神は摂関家の神様だった。ここに『北野天神絵巻』が献上された。この絵巻は豪華絢爛、道真公が怨霊になって、彼を無実の罪に追いやった人達に壮絶な復讐を行なう物語なのである。

 彼の左遷を画策したのは左大臣・藤原時平だが、雷神になった道真は彼の周囲に雷を幾つも落とした。気丈な時平は刀を抜いて睨みつけるが、彼も間もなく病気になり、39歳の若さで亡くなった。そして彼の一族は悉く不可解な病気で亡くなり、一家は絶えた。

 左遷の責任者である醍醐天皇にも道真は復讐をする。天皇は道真に正二位を追贈し、流罪の宣旨の記録を焼き捨てさせた。しかしそれでも絵巻では天皇に
無実を訴えて道真は現れる。

 とうとう清涼殿の柱が落雷で燃える。火はどんどん広がり、その燃え盛る炎の中で道真が現れる。周囲の者は弓を取って応戦するが、全く歯が立たず、逆に焼き殺された。この火事の煙が元で、遂に醍醐天皇も政務どころではなくなり、体調を崩し、出家する。その出家した日に天皇は崩御した。多分に一酸化炭素中毒の類だろうと思うが、火雷火気毒王の仕業と絵巻では語られている。ここ道真の復讐の物語は完了する。

 壮絶な物語だが、最後に残った人麻呂についても語っておきたい。人麻呂が
まともな死に方をしていないのではないかという推理については梅原 猛氏の『水底の歌・人麿論』に詳しい。彼はこの当時飛ぶ鳥落とす勢いで台頭してきた藤原不比等とは対極に人麿がいた。不比等が権力を完全に掌握した頃、人麿は亡くなっている。政治的に見て疑わしいタイミングだと考え、様々な史料を使って推理を試みた。すると、従来のような病死説では無理があること判明した。

 更に『万葉集』にもその裏付けがある。

 鴨山の 岩根に枕けるわれをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ(巻2、223)

 病死であれば、愛妻が近くに居るはずである。しかしそこにはいない。その代わりに鴨山という山の岩である。彼は罪人として、そこに連行され、死を覚悟していたのだろう。

 愛妻の依羅娘子(よさみのおとめ)と暮らしていたが、処刑される間際、人麿に対して彼女は歌を詠んだ。

 今日今日と わが待つ君は 石川の貝に交じりてありといはずやも(224)

 直の逢ひは逢ひかつまじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ(225)

 このふたつの歌を見て、どう思われるだろうか。人麿は人知れず水死させられたからこそ、貝に遺骸が混じっていると考えるのが妥当ではないだろうか。ちなみに当時の人は、死ねば霊魂は雲になると考えていた。矢張り死を想起させる言葉である。

 日本人は歴史上あまり良い死に方をしなかった人を祀ってきた。古代より天罰を下す責任者はアマテラスでも大仏でもなかった。怨霊である。その怨霊を慰めることで、災厄が発生せず、守護神とする歴史がある。

 小野氏も政治的には失脚したままだが、小町という架空の存在を造り、彼女を六歌仙とすることで、鎮魂とした。道真には本来ならば憎い敵であるはずの摂関家の守護神である北野天神の守護神になってもらうことで、鎮魂とした。また人麿についても、歌聖とすることで、幽事の世界では神様になれたのである。その悲劇的な死に方をした3人をひな祭りで祀ることで、鎮魂としたのである。

  最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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