市の学芸員の古文書による講演があった。お殿様から家臣に送られた戦に備えた兵隊、武器の調達の文書だった。印は北条氏が始め、織田信長などにも大量の文書を送るのに用いたそうだ。帰りに虎朱印の和菓子とお茶をいただいて帰った。古文書は聞いてみると、な
気功の練習があるというので行ってみた。黄帝内経(こうていだいけい)に記された養生訓から24節気と病気の関係、外丹霊動功よる健康法。夏は心や小腸の病気、五行の火、火は五臓の心、心を陰とした場合、陽にあたる六腑が小腸。春は五行の木、肝の病気が増
お城に通じるところに鳥居がないので、お伊勢さんの遷宮の時の木材を使って建てるそうです。500円で寄付をしました。
まき子夫人のお言葉 美しきものにはほほえみを 淋しきものには優しさを たくましきものに さらに力を すべての友に思い出を 心の夢醒めることなく
昭和29年4月相模湾の小田原沿岸に鰤の大群がやってきた。この年、真鶴、岩江、米神、小八幡、五ツ浦(前川)、大磯の漁場で57万尾。お伊勢さん、成田山に参拝した。
昭和29年4月22日米神漁場では箱網の中での網寄せができないまま捕獲がはじまった。網起こし船が満杯になると漁場から離れ大漁旗を揚げ機械船市場前まで曳航された。23000尾
昭和29年4月2日岩江漁場で落とし網(箱網)を張った。網が重くなってきたため音頭をとりつつ声を合わせて締めていった。暴れる鰤は予想以上の大漁で一度では揚げきれず、後網に逃がしてから捕り込んだ。2日間で27000尾。
小揚げされた鰤を漁師のいおかみさんたちが天秤棒にぶら下げた竹籠に入れて市場まで何度も往復した。千度小路と呼ばれた小田原魚市場。足の踏み場もないほどの水揚げされた鰤と品定めをする魚屋、買受商。大漁すぎて市場に入りきれず、陸揚げした浜で競を実施
縄文土器は台形土器で特徴的で旧大陸とは無関係で日本列島にしかなく最先端であり、人口に比例し、活力のあるものである。中東にも土器はあるが9千年で、1万5千年続いた縄文土器には及ばない。中近東は貯蔵、盛り付け、縄文は入れ物、加工、煮炊き、貯蔵で
ちらしがあったので行ってみた。明治天皇以来、歴代天皇が浜に出て、地引網など見学したので、御幸の浜と呼ばれる。太鼓演奏の食堂・老人ホームは江戸時代本陣だった。ただで、衝きたてのお餅、蒲鉾を頂いちゃった。