放下とは、何もかもきれいさっぱり放り出す、手放すという意味です。着は放下を強調する助詞で、格別の意味はありません。執着心があれば、人の心には様々な妄想が次々にわき起ってきます。無心になろう、悟りを得ようという心も、執着心のひとつといえます。
偉人の一人片岡寅吉氏縁の地を主に歩いた。1854年塩海の出生、12の時に福浦村露木富三郎方に奉公、同家を里方として真鶴の岡田商店に貰われ、二女を配し村内に別家し、後に村長より県会議員、神奈川県農工銀行の取締役となり・・・蜜柑の栽培にも貢献し
4時間にわたるシンポジウム、小田原敗北は名胡桃城の合戦と家康配下の二名の秀吉への報告の遅延だそうだ。障子掘りは関東だけでなく、大阪城にもあった、江戸期にも造られたが、北条時よりはいい加減なものだった。ここでも大河ドラマへに署名が行われていた
歴史小説家 伊藤 潤地方議員の選挙が近く、代議士の出席が多かった。北条五代は早大の先輩が書いていたものを夭折してしまったので、あとを引き継ぎ完成させた。80代死亡説や浪人出などの通説はなくなった。NHKの大河ドラマにと、先々代の市長からの動き
小田原城大外郭の会 山本 篤志さん歴史的な経緯よりも堀の調査・研究に終始した。北条氏統治まえの大森氏の砦だかの位置関係を聞いたが、知らないようだった。お堀のソメイヨシノは一本だけ咲いていた。
11名の参加があった、いつも来る千葉市原のおばあさんは、心臓疾患のため、娘さんからストップがかかったそうだ。美味しいソフトを何回も食べた。YouTubeは故障で待ってくださいだった。
関東大震災の講演で垣間見た本を探しに書店・古本屋・図書館を歩いた。図書館では二冊かり、本屋では残虐な殺し方をしたという関所破りにお玉の本があったので、購入した。小田原は歴史があり、多くの書物がある、興味を持ったものだけ買い集めているが、限り
チベットの仏具だそうで、断捨離ということでいただいた。修験道、合気道をよくする還暦のおにいさん。
星野和子 明治期の小田原と知らされていたが、地震時の小田原で以前にあった講演とほぼ同じだった。震源が陸地に近いところだったので、津波の被害は少なかったようだ。フォトに載せました。
二か所の農園で、施肥、収穫、剪定の講習があった。強剪定と弱剪定の二通りしかない、湘南ゴールドなどは木の上部より中の方の霜などに当たらないところがよい、あまり剪定してない、小粒が美味しい。デカポンなどは大玉がよいと言われている。フォトに載せま
田和千恵子ご自分の先祖を調べるうちに総理大臣経験の群馬の福田氏の家系だった。膨大な資料を冊子に残していた。時間が足りず、尻切れトンボのようになった。よく先祖を調べようとする傾向がみられる。