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2008年05月27日12:45

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言葉は使うもの

小中学生の携帯「持たないで」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=499112&media_id=4

携帯の話じゃなくて、英語教育を小3から導入するとの提案の話。

言語は早いうちから始めるに越したことはないけど、英語だけ単体で教えてもダメだと思う。

自分の経験から言うと、日本人が英語(もしくはその他の外国語)が苦手なのは文法が怪しいとか語彙が少ないせいではない。

それより、他人の言うことを批判的に分析したり、自分の言いたいことを論理的に伝える訓練が欠けているのだ。

言いたいことが論理的に頭の中で整理できないから、日本語であろうと英語であろうと日本人は話下手なのである。

それはまた、日本では「理由」を与える習慣があまりないからだと思う。

日本では、大人も子供も公のことについて個人的な意見を聞かれる機会があまりない。聞かれたとしても大概結論部分だけでその「理由」までは問われないことが多い。

そんな訳で、日本語を喋るときはなるべく理屈っぽくならないようにしてしまう。でも、理由がつかない結論というのはその人の主観を超えられないので、自己主張と個人的な感想の区別がなくなってしまう。

うちの娘は週5日は現地の学校、土曜日は日本語補習校に通っている。英語を話す時はいろいろと細かく説明してくれるのだが、日本語になるととたんに口数が少なくなる。

日本語が分かっていないのかな、と思っているとそうでもない。本なんかを読ませるとちゃんと分かっている。

どうやら、日本と米国の教育環境の違いがそのまま言葉の使い方にも反映してしまっているらしい。

「美しい日本語」なんて言うように、日本語教育はどちらかというと他の人に何かを説明するための媒体としてより、日本人の心の美しさの現れとしての言葉という方に重点が置かれているような気がする。

小学生の作文の時間に、何でも感じたことを書いていいんだよと先生に言われて、余計に書くことがわからなくて悩んだ覚えがある人が多いであろう。

「日本人の美しい心」が勝手に思考してくれる訳もなく、ない日本人の感性をしぼってそれらしいことを書いても、なんかお仕着せの道徳とか美意識をなぞっている文章しか書けない。

だから、日本の子供は語彙とか読解問題には強いのであるが、自分の言葉で説明しなさいとか自分の意見を述べなさいという問題に滅法弱い。

逆に、米国では子供の時から論理的な思考を行う訓練を積ませてるらしい。

先日、日本語補習校に講演に来られた米国の教育の専門家によると、幼稚園の時から人前に立たされて発表させられるそうだ。最初は自分の好きなおもちゃなんかの話なのであるが、ちゃんと聞いている人に分かるように説明しないといけない。

そして、小学校中学年くらいから作文の書き方の訓練が始まる。しかも米国の作文(エッセイという)は日本の作文と違って形式があるそうだ。

形式といっても単純なもので、5つの段落のうち最初の段落ではっきりと自分の意見を述べて、その次にその意見が正しいと思う3つの理由、そして最後の段落にまた自分の考えを再度述べるというものなのだそうだ。

ここで重要なのは意見の部分ではない。どんな意見でもいいけど、それを他人が納得いくような理由を説明しないと行けない。発表を聞く方も意見の自体の是非の前に、ちゃんと筋の通った理由であるかどうかを問う。

発表する方も聞く方も、意見の是非に議論が集中して水掛け論にならないような訓練がなされているのだ。

そして、こうした訓練は「国語」という狭い範囲ではなく、教科をまたがって行われる。理科だろうが社会だろうがやたらエッセイを書かされる。

その分、細かい知識を教える暇がないのであるが、自分で文献を調べて、それを批判的に分析し、そして結果をまとめて人前で発表しデフェンスできるという能力が身に付けば、後は自分一人で勉強していけるようになるという前提で教育が行われている。

もちろん、米国でも学力低下が騒がれて久しいし、大学生のエッセイでさえ私の目から見てもかなりお粗末なものがある。でも、全体としてはあきらかに日本人よりは論理的なことが言えるような(フリをする)訓練がされている。

日本人は何か言いたいことがあってもそれがうまく言えない人たちが多い。作文の書けない小学生の辛さをそのまま引きずっている。日本人の学生でまともな文章が書ける人にはほとんどお目にかかったことがない。

もちろん、言葉を単なる知識や議論の媒体と捉えがちな米国人の書く文章は、往々にしてドライで深みのないものが多いと言えるかもしれない。

でも、国際標準語としての英語の役割というのは、文化的に共通性の少ない人たちに分かりやすいように物事を説明したり、自分の立場を相手が受け入れ可能な理由を与えて理解してもらうという機能なのだ。

こうした状況では、「美しい日本語」というのは身内ネタにしかならないので、あまり役に立たない。

英語を早いうちに教えるのも大事だろうけど、まずは「美しい日本語」に加えて「使える日本語」の教育にも力を入れるべきではないだろうか。

国語は日本人の美しい心の現れであるというのはそうなのかもしれないけど、それに加えて我々が日常生活で他人との関係を媒介する役割もする。

「国語」や「道徳」を通じてお仕着せの美意識や道徳観を植え付けるのではなくて、科学や社会問題などについて自分で考えさせて人前に発表させることにより、道徳や文化についても自分の言葉で語れるような子供が育っていくのではないだろうか。

言葉は人間が使われるものじゃなくて、使うものなのだ。理屈っぽいのはグローバル化する世界では悪いことじゃばかりじゃないのだ。
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