やたらにお堅い本からマンガ雑誌やアニメまでを好き嫌いなく食す文化的雑食性は寛容のしるしであるが、気をつけないと見落としてしまうこともある? ぼくらの教養たる大衆文化|てれまこしhttps://note.com/telemachus/n/n690ecda281c8
生物学的個体としての人間は自己完結していない。ぼくらは他者に外から差し込まれ、また外に向かって突き出していかないと生きていけない。その哲学的意味とは何か。ぼくらの体に穴や隆起があることの意味|てれまこしhttps://note.com/telemachus/n/n07b1652
唯物史観というと決定論になりがちなんだけど、そうなる理論的必然性はないと思うんだよな。むしろ自由の領域が広まる。ぼくらのやってることの大半は自由な遊びじゃないのかな。無関心な世界に生きる自由なぼくらhttps://note.com/telemachus/n/n7b45de54afe
自分を売り込まないと生きていけない社会において、宣伝広告的コミュニケーションは必須となったんだけど、他の種類のコミュニケーションの大切さもまた忘れんようにしないとな。宣伝広告じゃないコミュニケーションなんてあったの? /てれまこしhttps://not
世界に対して「私」を持ちこたえることは、かつてはむずかしい課題であったし、今でもそうである。陰謀論への需要はこの課題に関連しているところがあるんじゃないかと思う。知性と教養は陰謀論を根絶できるか|てれまこしhttps://note.com/telemachus/n/n907
言語能力は文化資本として親から子に受け継がれるようだが、何がどのような経路で伝えられるのか。文化資本としての言語能力はいかに受け継がれるのか/てれまこしhttps://note.com/telemachus/n/n7d899d84c3b5
数多くのなんとか力が推される世の中でも、「阿呆になる力」については言及されることが少ない。だが笑いの文化の衰退がぼくらにもたらしたものを総合的に考えると、阿呆の効用についても何かしら次の世代に伝えておくことがあるんじゃないか。阿呆になる力/
自分の世代では珍しく、自分は両親ともが戦中派。自分が奇人変人とも言えるような人生を歩んだのも、この事実と浅からぬ関係がありそうである。どうやら親ガチャというのは親の学歴や資産だけとは限らんらしい。 戦争の子たちの子|てれまこし https://note.c
いつの時代でも子は育つのだが、子どもたちの生活にも歴史があって、必ずしも親と同じような育ち方をしていない。だが親は自分の子ども時代を忘れがちである。ときどきは自分の経験を振り返って、何が変わったのかを認識することも大事だと思うぞ。 子ども時
「笑いの文化」にはどうも共感者が少ない。消費者の嗜好に逆らっても個人的にはよいことはないんだが、これもまた笑いの文化の衰退の一徴候であるならば、世のため人のためである。しつこく笑いの文化の再生と説いていこう。知性を笑う知性たち|てれまこしht
「グローバル教育」と「国際政治経済」は普通はつながらないが、教室でのある学生の放った質問によって、そのつながりを考えさせられた。 グローバル教育とリベラリズム/てれまこしhttps://note.com/telemachus/n/nbe297a87d580
笑う門には福が来るはずなのに、ぼくらは笑えなくなった。あるいは笑いが福を持って来なくなった。それはなぜなのか。それを知らずにぼくらは子どもたちを幸せにできんのだから、放っておけない問題じゃないか。大人は笑わない以前からひとつ気になっていたこ
店員さんを大声でしかりつけるモンスター・クレーマーたちをもう一回人間に戻してやるために、「客」という日本語の意味についてもう少し知る必要があるかも。カスタマーもおだてりゃ「客」になる|てれまこしhttps://note.com/telemachus/n/n9f2132746d07
あんまり売れないから、マーケッティングとブランディングをやってみた。ひとは売れない商品をどうやって売ったのか https://note.com/telemachus/n/ncefbccc1e060
時代は変わる。ひと一人が生きてるあいだにでさえ価値観が逆立ちしたりする。凡人たちはこの偶然に翻弄されるしかない。せめてあまり変わらないところを探して出して自分を保つ足場とするしかない。昔の愛煙党と今の嫌煙党が似てるとこ /てれまこしhttps://n
ツイッターのフォロワーさんがお勧めしてた『趣味の社会学』という本を読んだ。ブルデュー理論の日本における実証研究だが、そこで自分は今まで知らなかった自分を発見した。勉強しかしない「野蛮人」とその妻たち /てれまこしhttps://note.com/telemachus/n
「農民文化」とか「大衆文化」という言葉はかなり新しいもので以前にはなかった。なぜなかったのか。どうしてそういう言葉が生まれたのか。それらの言葉を使うとき、ぼくらはいったい何を言っている?農民文化とか大衆文化とか(「文化」とは?)/てれまこし
専門家のしかつめらしい顔では語れない哲学・思想があるという話だったんだが、読まれたわりには反応が少なかった。自分の書き方が悪いせいかと思って、もう少し親切に書き直してみた。ネコのいる天国(普及版)https://note.com/telemachus/n/n1a09c542f9b3
note更新。「こうである」という現実認識と「こうあってほしい」という希望。過ぎ去ったものと未まだ来ぬものを媒介したいという現在の関心からさまざまな思想の必要が生じるし、そうでなければ生じない? ネコのいる天国/てれまこし。 https://note.com/tel
農民と国家の衝突は二つの文明の衝突であり、農民文化と都市文化の架橋なくしては国民統合はありえない。日本はイタリアのような国よりもこれをうまく成し遂げたように見えるんだけど、本当にそうであるか。農民文明と国家(カルロ・レーヴィ『キリストはエボ
note更新。人は場所につながれてるけど、場所によって人につながってもいる。で、場所から活力を得てるけど、場所に活力を与えるのもまた人である。なんだか一筋縄でいかない弁証法的な関係なんである。人は場所につながれ、場所でつながる https://note.com/
私がもっとも私らしいと思えるのは、群衆に埋もれるのでもなく、孤塁を守るのでもないような自立のしかたができたとき。「私」は他人とつながることによって強くなるんでないか https://note.com/telemachus/n/n0498722ac503
今年の夏休みの課題図書として、・マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』・高橋和巳『邪宗門』をぜひみんなに読んでもらいたかいから、宣伝もかねて自分の感想を書いてみた。世界全体を敵に回す人々(マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』) https:/
限られた範囲の比較であるが、日本人と自分が知ってる外国人とのあいだの最大のちがいは家族観にあって、それが働き方や男女関係のちがいにもつながっていて、今日の日本の苦境とも関係がある。家族を大事にする人々の働き方と男女関係|てれまこしhttps://no
「むしゃくしゃしてた、誰でもよかった」系の通り魔事件と政治的な意図をもったテロ。おとなしく並ぶ日本人の怨みはどこへ行ってしまうのかを考えると、その距離はそれほど遠くないかもしれない。通り魔とテロリストの距離/てれまこしhttps://note.com/telem
誰もが嫌いなクソリプは、いったいどこからわいて出るのか。元から断つことはできんのか。この大問題を解かずしてわれらに心の平和は訪れない。ノーベル平和賞ものの研究だ。 なくならないクソリプをいかに減らすか|てれまこし https://note.com/telemachus
気づいてみたら自分の子がネットにヘイトスピーチを書き散らしてる。ある日とつぜん、性犯罪者や通り魔になってる。そんなことは絶対にないって言い切れる親がどれくらいいる? 絶望の朝|てれまこしhttps://note.com/telemachus/n/nebb90a3f9cf5
近代社会は孤独な個人で満ちている。これが近代批判の大前提の一つであったが、SNSの普及でそうとも言えなくなってきた。常に人目を気にしてるような人が増えてきた。だがこの「人目」が昔の「人目」とちがう。バズらないツイートと広告的人間|てれまこしhtt
「今どきの若者は政治への関心が低くて怪しからん」と言うオヤジ連が抱いている「政治への関心」とはいかなるものか。オヤジの一人が告白してみた。最近の若者にはなくて昔の若者にはあったらしい「政治への関心」の正体 /てれまこしhttps://note.com/telema
日本では野党が育たぬ。野党が育った国と比較してみても、その理由がよくわからぬ。かなり深いレベルに、ぼくらの無意識の政治観に、その理由があるかもしれない。日本で野党が育たぬ理由|てれまこしhttps://note.com/telemachus/n/n630cc9bf7f08