mixiユーザー(id:345319)

2008年01月27日16:37

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他人に読んで欲しい日記

 最近味をしめたのが、面白いニュースが出たときにmixiでその記事に関する日記を読むことだ。普段は公の問題については寡黙な日本人が本音を語っているが垣間見えて楽しい。とはいうものの、ときどきあまり気持ちのよくないコメントややりとりに出会うこともある。普段は面と向かって言えないようなことを誰に向かってともなく言えるというのがネットのいいところであるが、他方で独り善がりの大言壮語にはしるきらいがなくもない。

 これにはネット上で公開される「日記」というのが公なものなのかプライベートものなのかはっきりしないということがあると思う。本来「日記」というのはプライベートなものであるが、それをネット上で誰かに公開している以上ある程度の聴衆を期待しているはずである。この聴衆が誰かというのは、この日記機能に何を期待するかによると思う。ある人の日記は純粋にプライベートなひとり言みたいな感じだし、ある人は特定の友人や同類の人たちとの通信やネットワーク作りの手段に利用しているし、またある人は私人を越えた公の立場で不特定の聴衆に語りかけるという目的で日記を書いているみたいだ。ニュースに関する日記はこの第三の使い方に属すると思う。

 もし、この「日記」というのが純粋にプライベートなものなのであれば、そこに何を書こうが勝手である。公開されているとはいえ、それは同じような意見や好みを共有する人たちを対象としているのであって、不愉快だという人は読まなければいいということになる。各メンバーのホームページは私有地みたいなものであり、各々が入れたい人と閉め出したい人を決める権利を持っている。

 他方で、日記を「公開」するという行為自体が、私有地から公の場に出るということであるとの解釈もできる。不特定多数の者がアクセスできる場で発言する以上、潜在的な聴衆にもそれなりの敬意を払い、また各々の発言の結果に責任を持つべきであるという議論も可能である。個人的な欲求不満を発散するために、匿名性を利用して不特定の聞き手に対して自分でも本当だとは思っていないことをがなり立てているだけというだけでは困るということになる。

 いちばん多いのは、やはりネットを通じて気の合う友人とコミュニケーションをとるという使い方だと思う。時間と距離を気にせずに効率よく多数の人と通信できるというのが理由であろう。でも、やっぱりそこでも自分の考えとか感じたことを文章にして出すというのは、単に情報の交換とか同類であることの再確認を越えた面があるような気がする。普段は面と向かってはなかなか出せない自分を他人にさらけ出して評価を乞うというのは、潜在的には自分の言動に対する挑戦があるかもしれないという前提がなければ意味がない。日記を公開する人たちは、単なる機械的な同意だけではなく自分に対する挑戦を何となく期待しているのではないだろうか。

 インターネット自体は道具なので、その使用目的を一つに限定する理由はない。ひとそれぞれ使っていればいいじゃんということなのであるが、誰でも気軽にアクセスできてしかも双方向の通信が可能という特性を考えると新聞やテレビ以上に公器としての性格も否定できない。うまく使えば日本の市民が気軽に参加できる公の場が広がり、それを通じて「愛国心」を強化することもできるかもしれない。下手に使えばかえって、ネット上のスペースがそれぞれ偏狭な見方を持った個人とか集団に割拠されて社会の断片化を助長することになるのかも。
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