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2024年03月30日12:07

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女と社会

芥川龍之介に雌蜘蛛の生を描いた短篇がある。庚申薔薇の陰に潜んで、何も知らずに蜜を吸いにくる蜂に背後から襲いかかり、その体液をチューチューと吸いとる。見るからに醜くいやらしい、悪の権化とも呼べそうな蜘蛛。

ところが、その蜘蛛は母でもあって、自らの体液を絞って巣をつくり、そこに卵を産み付け、子らが生まれるまで、弱った体で飲まず食わずでじっと番をしてる。そのうちに、蜘蛛の子がうじゃうじゃ生れてきて、弱った母のことなど振り向きもせずに、花々に散っていく。それを満足げに眺めながら母蜘蛛は死んでいく。

「女」と題されてるところを見ると、芥川はこの雌蜘蛛を女の象徴として描いたらしい。人間を醜いムシにおとしめてるわけで、女たちにとってははなはだ面白くない話である。だけども、女を蜘蛛にたとえるのは芥川だけの発明でない。自分が覚えてるのは、何十年か前にベストセラーになったある精神科医が書いた本で、そこに蜘蛛をひどく怖がる若い女性患者が出てくる。

その精神科医の分析によれば、蜘蛛は母の象徴として恐れられてる。娘を自分の友人にように扱う人で、子どもの前で亭主の悪口を平気で言う。自分も自由奔放に生き、子にもそうするよう勧めてくれる。だからその患者も母と仲がよくて、父を軽蔑してた。ところが、いざ自立する年齢になると、父はこっそりと支援してくれるのに対して、母がいろいろと介入してくる。それで気づく。母が今まで自分によくしてくれたのは、娘を自分の友人、子分としてつなぎとめるという利己的な目的ではなかったかと。それで、母の愛がねっとりと絡みつく蜘蛛の巣のようなものに感じられて、逃れられない束縛のように感じられるようになった。だけども母への憎しみは心理的に抑圧されてるから、蜘蛛がその代替物とされた。

芥川の短篇にもそういう意地悪なたとえの要素がなくもないが、だけども、そのような解釈とは異質な、むしろまったく逆の要素がある。醜いと思われた雌蜘蛛の営為が、実は完全な自己放棄をともなう愛によるものであり、それがわれわれのみんなの生命を支えている。そういう事実に対する驚嘆と畏敬の念が窺えるんである。このマクロな視点から見れば、確かに人間の母たちがやってることもそう変わらないとも言える。

母たちは自分の子らを産み育てるために、自らの生を犠牲にする。いや、自分だけではなくて他人の子だって取って喰いかねないところがある。子らになるべく栄養あるものを食わせようとし、子どもらの安全を脅かす変質者に死を叫び、それなのに子らの心を病ませるほど受験競争に駆りたてるのだって、自分、そして他人の子を犠牲にしてでも自分の子を生かすための闘争だ。

そして、母はこの闘争に精魂を使い果たして干からびていく。母の体液をチューチューと吸いとって生まれてきた子らは、そんな母の脱け殻には頓着しないで、各々好きなところに散っていく。それが生存競争をさらに熾烈なものとする。しかし、その子らもまた母となり、その生の繰り返していく。あたかも母の経験から何も学ばなかったかのように。他人の子を捕えて、チューチューと体液を吸い栄養とし、頃合いを見計らっては卵を産みつけ、そうしてうじゃうじゃと自分の分身を増やすんである。

そう言われると侮辱されてるとしか思えないんだが、芥川の文章には、このような「女」に対する恐れと敬いみたいのが感じられる。生命の営みというものは真剣勝負、大真面目な事業であり、それは女たちのものである。このような恐ろしい事業をなんの迷いももたずに行なえる女たちは、真に恐るべき存在、「恐れない女」であり、知り過ぎたゆえに「恐れる男」が到底太刀打ちできるものではない。

これに比べれば、政治やビジネスや学問・芸術なんてものは、男たちの戯れにすぎない。雄蜘蛛が登場しないのも、罪を雌にだけ押しつけたいからというよりは、男なんか出る幕がないという自己卑下がありそうだ。雄アリや雄バチののように雌を孕ませるまでがその役割で、それがなくなるともう用なしになる。あとは、女たちが子育てで忙しいのをいいことに、政治やビジネスや学芸のような閑事業で無聊を慰めるしかない。そのような思想が背景にありそうで、ちょっと母権社会論っぽい感覚が芥川の「女」には感じられる。

続きは↓
https://note.com/telemachus/n/n43e8814c9712
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