化学反応というものは、究極的には、原子核に束縛された電子群どうしの相互作用として記述できるのだろうか。
もしそうなら、それを量子化学的モデルとして計算機上に実装し、電脳空間のなかで、任意の解像度と任意の時間分解能をもって「観る」ことは、いつか可能になるのだろうか。
それは結局のところ、多粒子系のシュレーディンガー方程式を、十分な精度で近似的に解くことと、ほぼ同型の問題なのだろうか。
だが、そう単純にはいかない気もする。
現実の実験系には、反応物そのものだけでなく、溶媒があり、温度があり、圧力があり、容器壁すら影響するかもしれない。
それらは外場として与えれば済む話なのか。
それとも、外から与えるという整理自体がすでに近似であって、場合によってはその外場の側まで計算に繰り込まねばならないのか。
もしそうだとすれば、「反応をシミュレーションする」とひとことで言っても、実際には何を系に含め、何を系の外に置くかという切り分けそのものが難問になる。
たとえば、水分子しかない系ですらそうだ。
水はただの水ではなく、温度と圧力の条件によって、液体にもなり、氷にもなり、しかも氷には複数の相がある。
高圧下では氷�擦里茲Δ柄蠅�現れ、高温でも固相が保たれる領域さえある。
こうした相図は、どこまで理論計算だけで導けるのだろうか。
量子化学的、あるいは統計力学的な演算モデルから予測された相境界は、実験結果とどの程度まで一致しているのだろう。
もしかなりの精度で一致するのなら、人間はすでに「物質が取りうる姿」を、かなり深いところまで計算で見通せる位置に立っていることになる。
しかし逆に、たとえ単純な物質系であってもなお理論と実験のあいだに大きな隔たりがあるのなら、私たちはまだ入口に立っているにすぎないのかもしれない。
そこからさらに考えが飛ぶ。
仮に、原初の生命を構成した物質系が何であったかを、ある程度まで定義できたとしよう。
しかし、それだけで生命の起源に近づいたことになるのだろうか。
むしろ本当に難しいのは、その物質系が、どのような温度、圧力、素材、環境勾配のもとで、どのような反応経路をたどって生じたのか、という逆問題ではないか。
ある生成物が存在しうることを示すことと、それが現実にどのように生じたかを示すことのあいだには、深い溝がある。
前者は「可能性」の証明であり、後者は「歴史」の復元である。
可能であることと、実際に起こったこととは、同じではない。
そう考えると、生命起源論の難しさは、単に複雑な分子を合成できるかどうかではなく、膨大な候補のなかから、どの経路が実際の地球上で走り得たのかを絞り込むことにあるのだろう。
反応ネットワークは無数に分岐し、環境条件もまた無数にありうる。
順問題ですら難しいのに、逆問題となればなおさらである。
現在ある生命の痕跡から、冥王代の化学的履歴を逆算するというのは、途方もなく条件の悪い推理なのかもしれない。
ここでドーキンスの比喩を思い出す。
盲目の時計職人。
生命は設計者の一挙の意志によって生まれたのではなく、無数の試行錯誤の蓄積のなかから、選択によって形を取ってきた、という見立てである。
この発想は、神や der Alte を前提しなくても秩序の生成を考えられる点で、やはり優れた見取り図だと思う。
だが、その「無数の試行」は、本当に地球の初期環境において十分に確保されていたのだろうか。
冥王代から太古代にかけての数億年という時間は、化学進化にとって「ほとんど無限」に近い試行回数を意味したのか。
それとも実は、私たちが思っているよりはるかに狭い窓のなかで、ほとんど奇跡に近い連鎖がたまたま成立しただけなのだろうか。
もし前者なら、生命の発生は宇宙においてそれなりに普遍的な出来事でありうる。
条件さえ整えば、盲目的試行の集積から、どこかでまた似たような秩序が立ち上がると期待できる。
しかし、もし後者ならどうか。
もし生命の起源が、宝くじが一億回連続で当たるような、ほとんど絶望的な幸運の重なりだったとしたら。
そうであるなら、地球外生命探査という営みそのものが、統計的にはほとんど見込みのないものになるのかもしれない。
宇宙は生命を宿しうるが、ほとんど宿さない。そんな冷たい像すら浮かんでくる。
では、私たちは何を知りたいのだろう。
生命が「理論上は可能」だということなのか。
生命が「現実にどのように生まれたか」なのか。
あるいは、生命が宇宙にありふれているのか、ほとんど絶無に近い偶然なのか、ということなのか。
化学反応を計算機のなかで観るという夢は、単なる計算能力の問題に見えて、実はそのまま、生命観や宇宙観にまで通じている。
私はそこに、科学の技術的限界以上のものを見る。
つまり、われわれが知りたいのは、物質がどう動くかだけではない。
その動きのなかから、なぜ「生きているもの」が現れたのか、そしてそれが宇宙の必然なのか、ほとんどありえない例外なのか、という問いそのものなのである。
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