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2025年07月21日12:31

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1,2,3セイトーは正統な政党なのか

参院選は予想通り自民党大敗で終結。
前回躍進した国民民主党、前々回躍進した維新にかわって今回の大躍進は参政党だった。

今回大躍進した参政党の党首である神谷氏は大阪吹田市の市議だった。あの森友学園の職員だったこともあり、安倍昭恵や統一教会との関係もあったようである。政党を立ち上げたころは、「学校給食をすべてオーガニックに」などと訴え、北摂の意識高い系の主婦が熱心に応援していたのを覚えている。

今回の参政党の「日本人ファースト」というスローガンを聞いて、アメリカズファーストと言って大統領選に勝ったトランプや、都民ファーストといって東京都知事選に勝った小池百合子を誰もが思い描くと思うが、ではその結果どうなるんだ?との想像力が参政党の支持層にしっかりあるのだろうか。
選挙日前夜の東京芝公園での神谷代表を囲む大集会をニュースで見て空恐ろしくなった。トランプとその熱狂的な支持者の光景のデジャブ。まさか日本でその光景をみるとは。

世界的に各国で極右政党が台頭している流れがあり、マスコミでは参政党を危険視する報道が多かったが、それが逆に炎上効果となって爆発的に得票を上げたようだ。

なかでも東京でトップ当選した参政党候補・さや氏の発言——
日米安保と核武装に関する彼女の持論=「米国にみかじめ料」「核が最も安上がり」——はその表現と論理に、賛否両論が噴出していた。

が、今まで政治に関心がなく今まで投票に行かなかったような層(それでも生活苦などで日常的に政治不信を感じている)が、参政党の名のとおりわかりやすく参政(政治に参加している)気持ちになれたことが大きいのではないか。一般市民の身近な不満に対して誰かのせい(外国人)や現政権のせいにして分断をあおるポピュリズムの先鋭ともいえる。
意識高い系のリベラルの人たちは参政党に熱狂する大衆を「参政党の正体を知らずに投票している」「自分の頭で考えないアホばかり」というがそのアホが固まりになると、このような現象を起こしアメリカのトランプ現象のデジャブをみることになることが証明された。

私は今まで選挙をパスしたことないが自民党公明党に入れたことはなくて(自民党公明党は私が入れなくてもどうせ勝つから)、若いころは今の現役世代の人たちと同じ気持ちで、どうせ選挙に行くのはじじいばばぁばっかりだから政党も年寄りの方しか向いてない(私たちが一票投じたところでなんら変わらない)が、せっかく与えられた一票だからと、自民公明以外の政党に入れてきた。
大阪維新が変革を全面に打ち出して台頭してきたときは(地元発祥だし)期待して維新に投票した。最近は維新にがっかりすることが多いので戦争Noや原発Noで一貫している社民党や共産党に投票することが多いが、彼らが万年少数派で政治手腕がないことはわかりきっている。知り合いと政治の話をしていると、彼ら(リベラル)の政治理念は脳内お花畑の理想論でまったく現実的ではないと一蹴される。それもよくわかっている。私のリアルな友人(特に男)は、保守の人が多いので、真剣に議論をするほどエネルギー政策と防衛の話でいつも物別れに終わる。夫とは政治の話はしない。喧嘩したくないから。
そして今、共にじじぃばばぁになった。

今回、私は大阪選挙区でれいわの椛田(かばた)健吾に投票したが、参政党の女性候補;宮出千慧氏(40)もなかなかしっかりした人で、もし彼女の主張をしっかり聴いていたら彼女に投票したかもしれない。
私の周りの幾人かれいわを熱心に応援している人が多いのでれいわの活動の様子がSNSにあがってくるのだ。
同じく参政党を熱心に応援している知り合いが多ければ、アルゴリズム的に参政党の情報ばかりが送られてきたと思う。参政党は極右であり自民党の安倍派の流れをくむと分析されている。ならば、私のリアルな知り合いの多くは参政党の主張に賛同していると思う。でも彼らはあまりSNSをやらないか、やるとしても賢明なので自分がどこを支持するかはSNSには書かない。

以下は、参政党の躍進について分析したれいわ支持者の作家の文章。なるほどと腑に落ちたので参照する。
↓
参政党「現象」に巣くっているおぞましい本質こそ、「大都市」東京選挙区に如実に現れている。東京に限らない。大阪は醜悪な維新の牙城だ。大都市東京選挙区では参政党の女性候補がトップをうかがう勢いだという。参政党への熱狂は大都市が中心だ。
その点では維新と共通している。
私は、れいわ新選組が出現した時には、大都市に狙いを定めた選挙戦術で、勢いがつけば爆発的に議席数を伸ばすだろうと想像していた。
が、先の東京都議選で示された東京都民の民意は、れいわ新選組にとっては冷や水をぶっかけられた観がある。
真っ当な思考力のある者なら気づいているが、参政党は意図的に、れいわ新選組の政策をパクっているのが明確だ。
そればかりか、既存政党による談合まがいの永田町の政治を批判し、永田町の政治の打破をさえ口にしている。
更に、何の支持基盤もなく、組織票もなく、何の勢力とも紐付いていない、民衆による草の根政党であるかのような偽りの「衣装」まで身にまとっている。
れいわ新選組を丸呑みしているのだ。
露骨なれいわ新選組の支持層の切り崩しであり、無党派層を掘り起こしてきた、れいわ新選組の吸引力を認めた上で逆利用しているのだ。
だから、れいわ新選組の支持者が参政党へと鞍替えする現象もみられた。
れいわ新選組との違いは、極右色(参政党は保守主義と言っている)を前面に押し出していることだ。
れいわ新選組にも、「保守主義」の要素がある。
が、その保守主義の要素は不鮮明だし、曖昧模糊としている。
曖昧だから、れいわ新選組は保守だと言われたり、左翼と言われたりするのだろう。
れいわ新選組に宿る「保守主義」の要素の不鮮明さは、どこからくるのか?
最大の理由は、れいわ新選組が誠実で真摯な政党だからなのだろう。
誠実で真摯とはどういう意味かというと、れいわ新選組が三文芝居でしかない永田町の政治の世界に見切りをつけて、民衆が生きて在る大地に根を張って、民衆の命と暮らしを守っていくという結党の精神と、誠実に、そして真摯に向き合っているという意味だ。
民衆の命と暮らしと向き合っているから、初めに「思想」を掲げることはない。
それが日本共産党との決定的違いであり、おぞましい一神教的国家神道という妄想にがんじがらめになっている参政党との決定的違いだ。
どうしたら、生活苦の地獄をさまよい歩いている民衆の命と暮らしを守っていけるのか、その問いと、頑固なまでに向き合っている。だからブレることがないのだ。
れいわ新選組をポピュリズム政党などと言っている自称・政治評論家とリベラルと知識人の知性とやらは使い物にならない(嗤)。
それがまったく見えていないからだ。
れいわ新選組ほど、山本太郎ほど、頑固で、融通が利かないものはない。
民衆の生きて在る大地に根を張り、そこで蠢く生きた民衆の命と暮らしと頑固なまでに向き合っているのだ。
この姿勢こそが、れいわ新選組の原点であり、ある意味では「思想」といえるのだろう。
この頑固な姿勢は、日本共産党が信奉するマルクス主義とはまったく違うし、参政党が抱きついて陶酔し、うっとりとしている一神教的国家神道の化け物でもない。
「思想」であって、思想ではないのだ。
いわゆる思想ではないから、ウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争という発想からも自由だったのだ。
私はウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争の論理の絡繰りこそ、欧米至上主義にどぎつく彩られた西欧近代主義の本質だと想っている。
欧米が人類の普遍的価値と豪語する自由と平等と基本的人権と民主主義に宿っている欺瞞性でもある。
欧米至上主義を本質としてもつ人類の普遍的価値でしかないから、西欧近代主義は日常的に戦争を拡大再生産してきたのだろう。
私は自由と平等と基本的人権と民主主義を全否定しているのではない。欧米至上主義が作り出した神話でしかない「人類の普遍的価値」というおぞましい宗教から自由になって、誠実に、そして真摯に再検討する必要性を強調しているのだ。
その際に忘れてはならないのは、基本的人権とは虫とカエルからみれば、人間中心主義でしかない。
地球は人間様だけのものではないはずだ。
人間中心主義の行き着いた果てに地球破壊があり、地球破滅の断崖絶壁にまで追い込まれてしまったのではないのか?
もう一度言おう。
れいわ新選組は、頑ななまでに、民衆の生きて在る命と暮らしと向き合ってきた。
その過程で、れいわ新選組の中にぼんやりと姿を現した「思想」ともいうべきものが「新しい保守主義」なのだろうと私は考えている。
思想ではないので、これまでのこの国の思想としての保守主義とは切れている。
民衆が生きて在る命と暮らしと向き合うとは、ある意味では、生き方と向き合うことではないのか?!
当然にあるべき生き方を模索することにならないか?!
山本太郎のストイックな生き方は求道者の姿と私の中では重なってみえる。
一部ではあるが、若者の地方への回帰がみられるようになった。
二十年ほど前に私は、長編小説『風よ、安曇野に吹け』(Kindle電子書籍として出版)で、こうした若者群像を描いている。
こうした現象は、従来の価値観から解放されて、あるべき生き方を模索するものではないだろうか。
大都市東京にはそうした「生き方の模索」はない。
根無し草の状態で、あっちにフラフラ、こっちにフラフラと、都会人の心は何処へでも漂い出す。
まさしく群衆社会だ。
群衆社会とはCMの世界を生きているのと同じだ。
Aという度肝を抜くCMで、Aが宣伝する商品に心が飛びついたと思ったら次の瞬間には、Aを否定するBというCMに切り替わって、お色気たっぷりの美女が誘惑するBという商品に心が飛び移っていくのだ。
それもBという商品が、Aという商品と真逆のものであってもお構いなしなのだ。
これが根無し草の群衆社会の本質だ。
つまり、整合性も、脈絡性もない。
デジタル式にスイッチが切り替わればAからBへ、からCへと飛び移っていく。
群衆社会とは資本主義の理想とする社会なのだろう。
そうでないと、新たな商品への欲望は生み出せないし、資本主義の本質にある拡大再生産などできない。
こうした「生き方」と、れいわ新選組は真逆だ。
あくまでも拘り続ける。
民衆が生きて在る命と暮らしと向き合い、民衆の命と暮らしを守ることにだ。
AからBに飛び移ったかと思えば、あっという間にCからDへと飛び移っていく群衆社会にあって、その命と暮らしと向き合い続けるのは、余程の頑固でないと無理だ。
群衆に向かって、民衆の命と暮らしと向き合い、だからこそ「あるべき生き方」と向き合っているれいわ新選組が頑固なまでに訴えたところで、根無し草の心を生きている群衆は心を揺さぶられるだろうか?!
大都会ほど群衆社会だ。
東京都議選でれいわ新選組が一つも議席をとれずに、この参議院選で参政党の女性候補がトップ当選の勢いだというのには、こうした理由があるのではないかと、私は想像している。
大阪という大都市で維新が王国を築けた理由もCMの世界を生きる群衆社会なればこそであり、だから流行としての、モードとしての維新が大阪で翳りを見せ始めたのも、維新を消費することに飽きたからではないのか?!
そして出現したのが参政党だ。
CMの世界なればこその現象なのだろう。当然にCMの世界だから、そのCMを意図的に作って流行らせている勢力がいることになる。
れいわ新選組が、地方でサウンドデモを繰り広げているのは理にかなったことなのだ。
地方は大都会ほど根無し草の群衆社会ではないからだ。
れいわ新選組の頑なさに共感する素地があるし、大都会ではマイナス評価しかされない、一途さと、ひたむきさと、誠実さと、真摯さに、地方を生きる人々の心の目に映るのではないだろうか。
一部の若者に地方回帰の心が芽生えつつある。それは新しい価値観の芽生えでもある。
私のいう、れいわ新選組に宿り始めた「新しい保守主義」とは、そうした若者の心と結びついたものだ。
だから希望であり、これまでのおぞましい保守主義とは切れたものなのだ。
これまでの保守主義は、参政党をみれば分かる通り、大都会の群衆社会で意図的に作られたCMであり、流行であり、モードでしかなく、群衆の心を操って好き勝手にする、支配層の道具でしかない。
だから、日本人ファーストだの愛国心だの祖国愛だので着飾ってくることになる。
そんな保守主義を真っ向から切り捨てられるのは、左翼思想でもなく、リベラル思想でもなく、「新しい保守主義」でしかない。
そう想うから、私は断固として、れいわ新選組を支持する!!!

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