自分が今、なににリアルを感じているのか分からなくなるときがあります。
いや、正確に言うなら、これまでアンリアルで、リアルの生活の隙間にあったものが急にリアルな生活よりも大きくなるような感覚があるのです。
私にとってのリアルは単なる会社員であることで、アンリアルは小説を書いたりDAOのコミュニティでの活動の様に金銭的な価値を産んでいない活動のことでした。
でも、最近は気がつくと、それらが入れ替わるようになってきました。
仕事がアンリアルで、DAOで新しい挑戦を続けたり、人に出会ったりすることがリアルに感じられるのです。
それまでリアルだと感じていたことが、急にどうでもいいことのように思えたり、逆にアンリアルだった世界が急に身近に、むしろ逆にそこにリアルさを感じたり。
まるで、昼と夜が急に逆転するようなそんな、世界が切り替わった感覚を感じるのです。
あるいは、それまでリアルだった夢から覚めて、それまでがアンリアルな夢だったと気づくような。
またあるいは、物語の世界に没頭していたけれど、ふとした拍子に本から顔を上げて、周囲のリアルさに頭が冷えるような、そんな感覚。
特に内容のない話でしたが、この感覚を書き起こして置きたくて、同じことをちょっとずつ表現を変えながら書いてきました。
この文章がなにかの変曲点を捉えられているかも知れないと思いながら。
以上
P.S.
この週記を書きながら、昔見たゲームのエンディング”とある少女のアンリアルライフ”を思い出しました。残酷な現実から逃げた先のアンリアルな世界を彷徨う少女の物語。少女にとってのリアルとアンリアルが交差するその物語の深みを歩いた気がしました。
【最近のComic】
・ウスズミの果て
物語を読んでいて深い物悲しさを感じるときがある。例えば、もう二度と出てくることはないであろう建物や場所、人物、それらが、あるいはそれらと別れを告げるようなシーンだ。死ぬわけじゃない、でも役割を終えて物語のスクリーンの中から消えていく感覚に物悲しさを感じる。
朽ちた人気のない建物、何も言わずに遠ざかっていく後ろ姿、孤独な物音。そこに深い情感を感じる。
【最近のGratitude】
・A girl
I found out that my child will be a girl. It feels as though the imagined outline of my child, whose form is not yet known, is beginning to take shape. When I watch videos of fathers with their daughters, I realize that I am trying to see myself and my own daughter in them. My child is becoming a little more real to me.
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