京都方面へ出かけた際に、ぜひついでに足を伸ばしたい場所が二か所あった。
しかし、京都旅行に「ついでに足を伸ばす」なんてチャンスは、まず訪れない。
だって、京都へ行ったなら、とにもかくにも京都を満喫してしまうに決まっているからね。
京都まで行って、京都の外に出るんは、むつかしおすえ。
ある日、スケジュール帳を見ながら相棒が声をかけてきた。
5月の終わりに京都戦があるでしょ?
京都のスタジアムに行ってみない?
え、ああ、あの評判のスタジアムね。
行ってみたいとは思うけど、まぁでもわざわざ行かなくてもいいかなぁ。
次の日に大阪で横浜FCの試合もあるんだよ。
土曜は京都、日曜は大阪で、二試合観るチャンスだぜ。
な〜んだ、そういうことか。
一泊なら猫もそのまんまで大丈夫だよね。
試合は何時だっけ?
――土曜の京都はナイトゲーム、日曜の大阪は午後2時キックオフなので、東京から一泊で往復するにはちょうどいい塩梅だった。
なら前後のアクティビティはどうしようか。
大阪で行きたい場所はほとんど無いのだが、京都は観光地の一大集積所。
今回はどこへ行こうかね。
そうだ、継体天皇陵は?
たしか京都から電車一本で行けるはず。
前々から行ってみたかったんだ。
そうと言われてお分かりになる方は少なかろう。
継体(けいたい)天皇陵こと今城塚(いましろづか)古墳は、発掘の際にザクザクと出てきた埴輪で有名な古墳だ。
京都から電車で25分の摂津富田(せっつとんだ)から歩けば30分、駅前にはレンタサイクルもあるらしい。
昼頃京都に着いて、これまた京都郊外の亀岡(3月に死亡事故が起きた保津川の渓流下りの起点だ)にあるスタジアムで夜7時キックオフの試合までの時間を過ごすのにちょうどいいではないか。
――でも天皇陵でしょ?発掘しちゃいけないんじゃなかったっけ??
と思われたかもしれないが、宮内庁は継体天皇陵としては茶臼山古墳を比定しており、そこから1.5キロ離れた今城塚古墳は、学者たちによってほぼ確実に継体天皇陵であることがわかっているけれど、国の定めに縛られていないので、ばんばん発掘がされていて、いろいろなことがわかっているのだ。
公園として整備されていて、誰もがずんずん登って行ける天皇の前方後円墳。
しかも、発掘された埴輪が、当時を再現してその場にズラリと並べられているんですよ。
ええい、とにかく写真をご覧ください。
ありえない!でしょう?
嘘〜!と思うでしょう?
でも、こういう所なんです。(もちろんここに並んでいる埴輪はレプリカですが。)

ぼくも お馬さんに 乗ったのさ
一部を除けば、こうして埴輪行列の中に分け入ってペタペタ触ることができます。
小学生がよじ登って遊んでいて、ちょっとビックリしちゃった。
ここで継体天皇についてちょっと。
この天皇は、歴史上、かなり特異なポジションにいる。
いつ頃の人かというと、有名な仁徳天皇の没後百年くらいに即位、聖徳太子が生まれる30年ほど前に亡くなっている。
彼が即位した背景は、猛烈な暴君として知られる先代の武烈天皇が子を残さぬまま亡くなったため、次の天皇となるべき人物を探して探して、10代前の応神天皇の五世の孫(!)にあたる北陸の実力者に「どうか天皇として立ってください」と礼を尽くしてお願いして即位してもらった、ということになっている。
ほかに次代天皇となるべき候補者が、都を見渡しても一人もいなかったその理由は、5代前のワカタケル大王(雄略天皇)が、ライバルとなる周囲の男子を殺し尽くしてしまっていたから、というのが大きい。
だから、天皇家の血を引いているなんて作り話では?とか、つまりここで王朝の交代が起きたのだ、とか、皇統は完全に途切れましたね、なんて解釈が可能になる。
神代の昔から脈々と続いてきた天皇家が、北陸から突然やってきた男によって継がれた、という、これは大事件だったのだ。
そしてこの事実は、古くからの大和朝廷の人たちにはとうてい受け入れられなかったため、継体天皇は即位後20年もの間、ヤマトに宮を建てて住まうことができなかった。
・・・ここまでお読みいただく前から、ちょっとちょっとヨシモトさん、そいつはちと違うんですよ!と言いたくなった方がいらっしゃると思う。
そうなんです。
継体天皇は、研究対象として極めて興味深い存在ゆえに、今ではもっといろいろなことがわかってきている。
継体天皇ことヲホド王は、越前という異社会から突然現れた人物ではなく、恐らくは成人した頃から大和朝廷に出入りして、皇族や重臣らとはとっくに顔なじみであったであろうこと。
両親や先祖のこともかなりわかってきていて、天皇家との血のつながりも、言われてきたほど遠くはなかったであろうこと。
20年間ヤマトに宮を建てなかったのも、旧来の勢力に拒絶されたために入れなかったというドラマチックな理由以外に、いくつか興味深い仮説が提示されているようだ。
な〜んだ。
だけど、父から子へ、兄から弟へといった妥当なバトンリレーでなかったことは確かだ。
◎◎天皇という天皇の名前は、奈良時代後期になってから過去にさかのぼってつけられたが、ヲホド王を「継体天皇」とつけたのなんて、やっぱりそれまでとそれからを「継ぐ」天皇であったことは、共通の認識であったようだし。
そんな継体天皇を葬った墓は、絵に描いたような前方後円墳だ。
もちろん、上から見た形は写真でしか確認できないわけだが、二重の堀に囲まれた墳丘は長さ180mもあり、堂々たるザ・古墳。
その内堤から外濠に向かって突き出した長細い一角に、さきほどご覧に入れたように、たくさんのハニワが展示されている。
これは、今の時代の人がホラすごいでしょと並べたわけではなく、実際にこの場所から掘り出されたそのまんま、当時の再現であるそうだ。
再現、って??
説明によると、この前方後円墳は、陵墓が完成した後で、何かの儀式を再現するかたちでここに据えられたらしい。
巫女、兵士、盾、エリアを仕切る柵、力士、馬、イノシシ、鶏、水鳥、そして千木や鰹木を乗せた大きな屋根を持つ家がいくつも、多くは判明していないが何かの規則にしたがって、また何かの意味を持って整然と並んでいる。
ヲホド王の死後、本物の人や馬などが、巫女に先導されるようにして何らかの儀式を行ったということなのだろうか。
発掘の際には、ここにまるでカーペットを敷いたように真っ白な砂が敷き詰められていたことがわかっている。
そして一部の埴輪は立った状態で、つまり当時とまったく同じ位置で見つかっているという。
どれもこれも興味深い埴輪ばかりだったけれど、私はこの手前の小さな中野サンプラザ風の建物が何なのかが気になって仕方がない。
この御陵は少なくとも13世紀には盗掘されていて、地下透過レーダーで探ったところ、石室や金銀財宝の類は見当たらないそうだ。
しかし、遠く阿蘇から船で運んできたと思しき通称「阿蘇ピンク石」をはじめとした3種類の石棺の一部が見つかっており、ここにはヲホドを含め3名が埋葬されていた可能性があるという。
そして中世には砦として使われており(だから「今城塚」という名前がついたのだろうな)、調査の結果、武者だまりや土塁などの遺構は判明している。
さらに、1596年の慶長伏見地震で、一部が大きく崩れてしまったこともわかっている。
古墳の外堀の中は芝生が植えられていて、家族連れが何組もお弁当を広げていた。
堤の一部をくりぬいたトンネルをくぐって内堀に入ると、前方部の半分くらいは水が張られてカモたちが泳ぎ、残りは埋め立ててシロツメクサに覆われ、そこから丸太階段を上って古墳の上まで歩いて行けるようになっている。
ヲホド王が眠る墓には、一体どんな副葬品が入っていたのだろう。
淀川や琵琶湖水系を押さえる実力者でもあった彼のことだ、大陸や朝鮮から渡ってきた品々や、北陸の翡翠、いやいやもっと広範囲から送られてきたさまざまな産物がたくさん供えられていたのではなかったかと想像している。
古墳の脇には立派な資料館があり、さらに西へ1.5キロほど行った高台には、ここや茶臼山古墳のために埴輪を焼いて焼いて焼きまくった工房の遺構が、「はにわ工場公園」として整備・公開されている。
古墳と埴輪、そして資料館をじっくり見学してちょっとくたびれてはいたが、せっかくレンタサイクルを借りていることだし、はにわ工場(正しくは「史跡新池埴輪製作遺跡」)へも足を伸ばしてみた。
ここでは、高台の狭いエリアに十数基の登り窯が見つかっており、当時の登り窯の再現、発掘最中の現場の再現、そしてむきだしの登り窯など、いくつものパターンで古墳時代の登り窯のようすを見せている。
ここでは5世紀から6世紀にかけて150年ほどの間、淀川水域の古墳のための埴輪を製作し、ために周囲の山々は、薪をとるために完全にはげ山になってしまったらしい。
こうして、土器や埴輪の工場は、一定の期間が過ぎると燃料を求めてどんどん移転していくわけだ。
ここは自然の力を利用した登り窯なので、当然見晴らしのいい、風のはいる高台であり、たどり着くには冗談のような急坂を自転車で登ったわけだが、その苦労に見合う大規模工房跡だった。
遺構をそのまま利用して、市民のための埴輪づくりイベントも開かれており、子供たちに交じって一心不乱に泥をこねて埴輪を作っている歴史オタク風の女性もいたりして、さりげなく、心の底からエールを贈ったことであった。
さて。
ではそろそろ亀岡のスタジアムへ参ろうか。
と、その前に。
スタジアムの反対側には、明智光秀が築いたという丹波亀山城がある。
今その城跡は、大本教が買い取って本部を置いているのだが、昨年読書会を行った高橋和巳の『邪宗門』のモデルとなったのがまさにここである。
というわけで、時間の都合で本丸付近までは行けなかったものの、差し障りのない程度に見学させてもらった。
新宗教にありがちな気持ち悪さは少しも感じられず、むしろ静かで居心地のいい場所であった。
作中に何度も象徴的に出てくる公孫樹(イチョウ)の巨木が遠くに見えた。
主人公が行き倒れていたのはこの辺りだったろうか、堰を切ったらこの辺りはすべて水没したのだな、などと考えながら堀を一周した。
目下見やすさと駅からのアクセスで日本一とも称されるサンガスタジアム by KYOCERA。
足湯やら、会員制のコワーキングスペースもあって、なんと保育園も開業している。
この保育園に通う子供たちは、試合のない日には、スタジアムの芝の上で思う存分遊べるらしいのだ。
京都の人たちは、このスタジアムを誇っていいと思うよ。
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