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2022年10月03日10:28

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人生意気に感ず「猪木は闘魂を最後まで貫いた。ブラジルの猪木の姉夫婦のこと」

◇猪木が79歳で世を去った。ほぼ同世代の私は、プロレス全盛時代に少年時代を過ごした。テレビが全家庭に普及していない時で村のテレビのある家や前橋公園のテレビに押しかけ熱狂した。鉄人ルーテーズ、神様といわれたカールゴッチ、メキシコの巨象オルテガ、鉄の爪キラーコワルスキー、鳥人アントニオロッカ等数えれば切りがない。猪木はいつも馬場と対照的な存在だった。馬場は力道山に最初から大事にされたので、プロレス漫画などでは猪木は力道山に差別され、猪木はねたみを原動力にした。燃える闘魂はその現れと描かれた。猪木はそれを強く否定し「世間やマスコミがつくりあげたストーリーだ」と一笑に付した。猪木の長い人生を振り返ってこれが真実だと思う。猪木は腕力だけの男ではなかった。懐が深く哲学を持った武人であったと思う。国会議員となっても自分を卑下したりせず独自の存在感を発揮したことは見事であった。湾岸戦争前、イラクを訪れ人質になった邦人解放に尽くしたり、北朝鮮の拉致問題解決に奔走した姿は燃える闘魂の現れであった。あれだけの戦いの連続は身体に想像以上の無理を課したに違いない。難病におかされ死のうと思ったと述懐する。入院中歩行器で歩いた姿を想像するのは辛い。
◇猪木は少年の頃家族とブラジルへ移住し、興業でブラジルを訪れた力道山にスカウトされてプロレスの道に入ったことは有名である。私は県会議長の時ブラジルの県人会を訪ね猪木の家族の事績に接して驚いたことがある。
 2005年の8月、サンパウロのグランメリアホテルに泊まり、近くのイビラプエラ公園の慰霊碑及び日本館を訪ねた。日本館は桂離宮にならった建物で、池には沢山の錦鯉が泳いでいた。現上皇・上皇后が、皇太子・同妃殿下のころのお手植えの松があり、その説明をした書はアントニオ猪木の姉の御主人が書いたものであった。また、当時の小泉総理が植えた松もありその説明文は猪木の姉のものであった。猪木の姉夫妻はかの池で初めて書を教える教室を開いたと言われる。闘魂が燃え尽きた今、猪木の人生を振り返るにつけ、文化的な家族環境が彼の人格に影響していたのかと想像した。右に触れた慰霊碑は開拓で苦労した人々の過去帳が保管されている。私たちはそこに立つ仏像の前で線香をたいて祈った。グランメリアホテルの味噌汁や納豆にほっとしたことを今鮮明に思い出す。(読者に感謝)

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