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2022年02月22日16:22

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インドシナ仮説

 今年からの私的な、一人称多様性問題だが、写真の先生が興味深い事を仰った。写真の先生がなぜそんな事をなどと言うと、その言葉はまっすぐ私に跳ね返って来て前頭葉だかそこらに炸裂する。
 曰く、中国にインドカレーはなく、インドにチャイナタウンがない。中国・インドはヒマラヤ山脈により隔絶されていて両国の交流はない。そしてインドシナ、そこが中国文化とインド文化が融合する場所だという。中国のシルクロード、インドの海のシルクロード、その両者が合流する地点だという。
 なんという符合!インドシナとはヴェトナム・カンボジア・タイなど日本語同様、一人称が多様化している地域だ。
 そこで1つの仮説が立てられないだろうか?中国文化とインド文化の融合が化学反応的効果をもたらしたのではないだろうか? 

 カンボジアのクメール語と日本語の人称名詞の類似性については以前も述べたが繰り返したい。日本語の「ぼく」は僕で下僕が語源でクメール語やヴェトナム語の一人称も同様だという。そして特筆すべきは2人称のクメール語での扱いだ。目上の人には人称名詞が使えない。上司に対して「あなた」とか言える?言う時は喧嘩腰の時だ。通常、職名や親族称(苗字)で呼ぶ。クメール語でも同様だという。

 日本語とインドシナ諸言語は言語的に同系の言語ではない。一人称多様化現象は言語的な事象ではなく文化的事象とみなすべきであろう。

 印欧語で人称名詞が1つしかない言語に代替機能があるはずだと思っていたが、マイミクの聡明な女性から回答をいただいた。
 英語でもハニーとかmy sweetyとか二人称に呼びかける言葉があり代替機能となってる。ただ、その後youを使う。英語には言語的不寛容性があり、それが人称多様化への障壁になっているのではなかろうか?
 いかなる言語であろうとも、ある事象を表現したければ例えば一人称多様化をしたければ何らかの表現方法で実現する筈である。

 中国の影響はどうしても気になる。「名を呼ばず」は儒教ではなかったか?三国志演義でも見て、関羽や張飛が劉備を何と呼んでいたか見てみよう。玄徳と呼んでいたのは明らかだが、その後、你が構文上あるのかないのか?

 新たに読み始めた「世界言語のなかの日本語」で、今回どうしても書きたいことがある。
 語彙の消失率は1000年で20%であるという。だから、ある言語が分岐したら両者の語彙が共通するのは0.8の自乗、すなわち64%である。2000年後で40%、以下同様で6000年後で7%。そして、いかなる言語間でも偶然に音と意味が類似する語彙は5%ほど存在するという。例えば英語のkillと斬る、walkと歩く。そんな事をしても同系語である事の証明にはならないという。

 ここで脱線しなくなる。ケニアとりわけナイロビで、こちらが日本人と知るとニヤニヤしながら「熊本か?」と訊いてくるヤカラがいる。そんな時は元気よく「Ndio!nini 熊本 sana!」(はい!私はとっても熊本です!)と応えてあげましょう!スワヒリ語でmotoは熱いでkumaは男女共用で陰部だ。
 まあ、クスコ王国の初代国王とか、オマーン国際陸上競技とかでニヤニヤしている日本人も似たようなものだ。
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