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2021年10月29日23:15

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中世思想原典集成 (3) 上智大学中世思想研究所 平凡社 1994年8月

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p.112
 さらに、普通の人間の内に〔宿られる〕ように、聖なる処女から生まれた者の内に神の言ロゴスは宿られたなどとも私どもは言いません。キリストは神を担う人間であると考えられることのないためです。…本性フュシスに即して〔個別者として(5)〕合一され、しかも肉に変わらずに、人間の魂が〔魂〕自身の肉体の内にあると言われるように、〔肉体を〕「住まい」(κατοικησις)とされたのです。
 (5) したがって、子であり主であられるキリストは唯一であり〔一コリ八:六参照〕、単に、栄誉と主権の合一によって、人間が神との結合(συναφεια)を有しているためではありません。実に、栄誉が等しいということは本性フュシスが合一されているということではありません。たとえば、ペトロとヨハネとは〔二人とも〕使徒であり、聖なる弟子であるということに準じて栄誉を等しくしていますが、だからといって、二人は一人ではないのです。さらにまた、私どもは、結合シュナフェイアの様式を〈併存〉(παραθεσις)としては考えていません。その〔表現〕は本性フュシス的に〔個別者として〕合一されていること〔を表現する〕には不十分だからです。また、修得的な参与(μεθεξις σχετικη)とも〔考えません〕。聖書によれば、主に結びつけられた私どもも〔主〕と一つの霊になるようなものだからです〔一コリ六:一七参照〕。
p.113
すでに述べましたように、基体ヒュポスタシスに即して〔個別者として(6)〕肉と合一された神の言ロゴスが、万物の神、万物の主であられるのです。…
…「とられた者は、とった方の呼称を用いて神となづけられる(7)」。実に、このようなことを言う者は、再び〔この唯一の方を〕ふたりのキリストに区別し、人間を別に一方に置き、神を同じように〔もう一方に置くのです〕。…すなわち、父なる神から生まれた子、独り子である神ご自身が、その固有の本性フュシスによれば苦しみを受けえない方であり続けられたが、聖書に記されているように、私どものために肉において苦しみをお受けになったのです〔一ペト四:一参照〕。
p.118
 (三) 本性フュシス的な〔個別者としての〕合一ヘノーシスによる一致シュノドスではなく、栄誉による、すなわち主権と権威による結合のみによって両者を結びつけて、合一の後、唯一であるキリストを〔二つの〕基体ヒュポスタシス〔個別者〕に分ける者は排斥される(9)。
p.120
したがって、われわれの使徒、大祭司となられたのは、肉〔となられ〕、われわれと同じ人間となられた言ロゴスではなく、〔言ロゴスとは〕別の者、別に女から〔生まれた〕人間であると言う者、あるいは、この方は、われわれのためだけでなく自分自身のためにも自分を供え物として捧げた――罪を知らない者は供え物を捧げる必要はないので――と言う者は排斥される(10)。
p.123
 また、神学者たちが、〈主〉に関する福音および使徒の発現のうちにあるものを、共通のもの、すなわち、ひとりの人物プロソーポンに関わるものとし、あるもの〔発言〕らを区別し、すなわち二つの本性に〔それぞれ帰されるものとして区別し〕、神にふさわしい〔諸発言〕をキリストの神性に帰し、低次元の〔諸発言〕をその人間性に帰しているのをわれわれは知っている(15)」。
p.124
 (7) しかしながら、常々非難するのを好み、野生の雀蜂のように正義の周りをうるさく飛び回る者たちの一部が、私に対して卑劣きわまりない言葉を触れ回っていると知らされましたので――キリストの聖なる肉体は、聖なる処女からではなく、天から降られたものであると私が言っているというのです――、これについて彼らに対してわずかなりとも述べる必要があると考えた次第です。
p.125
実に、たとえその〔二つの本性〕から名状しがたい合一ヘノーシスが実現されたと私どもが主張しています、〔二つの〕本性の相違は無視されないとしても、主イエス・キリストはただおひとりなのです。
p.130
 (5) ところが、ある人々はアプリナリオス(22)の考えを私どもに帰し、「完全にして緊密なる合一ヘノーシスに即して(καθ' ενωσιν ακριβη και συνεσταλμενην)ひとりの子、人となり受肉された父なる神からの言ロゴスをあなたがたは主張するのなら、かならずや言ロゴスと肉とのあいだに生じた混同、混和もしくは混合、あるいはさもなければ神性の肉への変化をあなたがたは考えているとみなされ、またそのように考えることを認めたことになるであろう」と言いつのっているのです。
p.131
むしろ、教父たちが言っておられるように、私どもも、ひとりの子、そして受肉された言ロゴスの一つの本性フュシス(23)を主張しているのです。
…実に、私どもは魂と肉体から構成されており、肉体の〔本性〕と魂の〔本性〕という別々の二つの本性フュシスを認めております。
p.132
しかし、双方〔の本性〕が一つになっていることに即して一人の人間が存在し、二つ〔の本性〕から構成されているということは、二人の人間を一つに調達するということではなく、すでに述べたように、構成することで魂と肉体から成る一人の人間を調達するということです。
p.136
5――キュリロスにおいて、フュシス(φυσις)、ヒュポスタシス(υποστασις)、プロソーポン(προσωπον)は同義語であり、具体的な個別者を意味する。したがって、「本性フュシスに即した」と訳することに問題がある。ただし、この表現は、その後キリスト論論争でたびたび掲げられることになる。このため、あえて「本性フュシスに即して〔個別者として〕」といった訳し方をした。

9――これは、最も強くアンティオケイアのキリスト論に反対する条文である。ここで用いられる「本性的な合一」(ενωσις φυσικη)という表現は、包括的な意味で「真の」(αληθης)合一を意味すると、キュリロス自身説明している(Thesaurus desancta et consubstantiali Trinitate, PG 75, 300; 332; 405)。しかし、アポリナリオスの言う意味で取られかねないものである。
10――この条文はキュロスのテオドレトスの考えを拒否するものである。
p.137
15――第四節からここまでに引用されたものが、いわゆる「合同信条」と呼ばれるものである。これを起草したのはキュロスのテオドレトスであったと考えられている。ここではキリスト(受肉した言ロゴス)の二つの本性フュシスが強調されているが、「二つの本性フュシスの合一ヘノーシスが実現した」(δυο φυσεων ενωσις γεγονεν)と明記されていることから、キュリロスは合意したものと考えられる。
p.138
23――ここでの本性フュシスは「一個別者」の意味。キュリロスはこの「受肉された言ロゴスの一つの本性フュシス」(μια φυσις του λογου σεσαρκωμενη)を正統教父に由来するものとして用いているが、実際にはアプリナリオスのものであった。これは、その後のキリスト単性説派において標語とされることになる。
p.160
なぜなら、彼は本性フュシスに即して主であり子であることは明らかであり、われわれの救いのために受け取られた〔人間〕は、彼との分かちがたい結合を有するがゆえに、子ならびに主という名称と栄誉にまで高められるということである(4)。
p.165
合一という語は、そのように言われるものらを少しも混同することなく、むしろ合一されたと考えられるものらが一致していることを示しているというのに(5)。
p.169
しかしながら、キリストの内にあっては、知性を超え、思いもよらない方法で、混同(συγχυσις)も変化(τροπη)もなしに統一されたものとして一致しているのである(6)。
p.198
少なくとも、互いに区別され、双方が他から完全に切り離されたふたりの人物プロソーポンならびにふたりの個別者ヒュポスタシス(7)について語る場合が問題なのである。
p.203
何としても十字架上での受苦を神から生まれた言ロゴスに帰してはならないと、彼らは主張するのである。
p.222
このとき、〔その金属〕になんらかの攻撃が加えられると、その金属は損害を被るが、火の本性フュシスは打撃を加えるものによってなんら傷つけられることはない。これに似たようなことが、子は肉において受苦したが神性においては受苦しなかったと言われる場合に考えられよう(10)。
p.225
したがって、われわれは、父なる神の子はひとりであると信じ、言ロゴスとしてあらゆる代と時とに先立って神的に父なる神から生まれ、かつまた世の終わりの時にあたって肉に即して女から生まれた、われらの主イエス・キリストを一つの様相プロソーポンのものと考えなければならない(11)。
p.226
4――アンティオケイアのキリスト論では、キリストの人間性と神性とは区別され、人間性は言ロゴス・知恵・神性の神殿・幕屋と定義され、イエスは「神を宿した人間」、「神を担う人間」と呼ばれる。モプスエスティアのテオドロスは「フィリピの信徒への手紙」二:六-七を踏まえて、次のように述べている。「ここでもまた、〔二つの〕本性の区別を明らかにしており、一方は神の姿形であり他方は人間の姿形であり、一方はとった方であり、他方はとられた方であり、とった方はとられたものであった人間の姿形になったと〔言うのである〕。とられた方は真に人間の姿形であったが、その方の内にそれをとった方がおられたのである。また、とった方は人間ではなかったが、非物体的で純なその本性によって、本性によって身体をもち構成物である僕の姿形になったのであり、人間の身体の法に則して人間であるとみなされたのである。この世にあったあいだ、ご自身を隠し、この方を見る者たちが皆、彼を人間とみなし、他の何者でもないと感じ、単なる人間にほかならないと思うまでに、人々と交わられたのである。……/実に、神的な本性は死に服することはなかったが、神である言ロゴスによって神殿としてとられた人間は、明らかに死んだのであり、それをとった方によって復活させられたのである。
p.227
十字架〔に付けられた〕後、高く上げられたのは神的な本性ではなく、とられた神殿であり、それが死者のなかから復活させられ、天に上げられ、神の右の座に着かされたのである。すべての人がこの方を礼拝するようになるといったことは、万物の原因である神的な本性に付与されたのではない。なぜなら、この〔神的な本性〕の前にすべてのものが跪いているからである。その本性によって、そのような〔資格〕を有していなかった僕の姿形が礼拝されるようになったのである。/人間的な本性について述べたことが皆明らかにされ、確認された後、〔パウロは、〕結合のゆえに、神的な本性に属するものとして〔礼拝〕について述べているのである。それは、このような驚くべき主張が聴衆に受け入れられるためである。実に、すべてのものによって礼拝されるということは人間的な本性をはるかに超えたことであるから、ここで述べられたことはひとりの方のみに属するものでなければならない。このため、〔二つの〕本性のあいだの緊密な結合のゆえに、このような主張が信じられるものとなるのである。実に、〔パウロは〕とられた方がどこからこのような誉れを得たのか、すなわちそれをとり、そこに住まわれた方の神的な本性からにほかならないことを、はっきりと悟らせようとしているのである」(Homiliae catecheticae VI, 5-6)。
5――キュリロスが「ヒュポスタシス(υποστασις)に即した合一ヘノーシス」を語るのに対して、アンティオケイア学派は「プロソーポン(προσωπον)における結合シュナフェイア」を掲げる。ここで用いられた「シュナフェイア」(συναφεια)という語は、当時の用語としては二つの異なったもの、たとえば男女の結婚における一致を表すものであった。つまり、彼らに神性と人間性とが併存しており、その一性が共通のプロソーポンとして現れる。つまり言ロゴスが人間の内に住んでいることから、その現れとして一つのプロソーポンとなっていることになる。しかし、キュリロスにすれば、キリストの一性を表すにははなはだ不十分に思われた。
6――カルケドン公会議(四五一年)の宣言文では、二つの本性は「混合されることなく、変化することなく、分割されず、引き離されることがない」(ασυγχυτως, ατρεπτως, αδιαιρετως, αχωριστως)と定義されることになる。
p.228
7――この時代にあって「プロソーポン」、「ヒュポスタシス」、「フュシス」(φυσις)といった語は多義的であり、論争において双方の用法が異なっている。この明確な定義が後代の課題となる。最終的にダマスコすのヨアンネス(Ioannes 六五〇頃ー七五〇年頃)によって明確に定義されることになる(本巻収録『知識の泉』参照)。

9――キュリロスは『ネストリオスへの第二の手紙』(本巻収録)で、「神の言ロゴスは、ご自身の本性フュシスにおいて苦しみを受けたのではなく、……この方ご自身の肉体が苦しみを受けた」と述べている。キュリロスは、唯一の神的な主体(受肉した言ロゴス)が人間として生まれ苦しむことを主張することになる。このような表現は、ネストリオスにとって神的本性を侵害することになる。彼は、神性と人間性とに共通するキリストという名称を用いての、「キリストは死んだ」あるいは「生まれた」という表現は容認する。メイエンドルフは「ネストリオス主義の本質的な曖昧さは、まさに言ロゴスとキリストとのあいだに暗黙のうちに認めた主体の二元性にある」と指摘する。
10――火と鉄の譬えはオリゲネス(Origenes 一八五頃ー二五四年頃)『諸原理について』(De principiis 小高毅訳、創文社、一九七八年)でも用いられる(II, 6, 6)。ただし、そこでは受肉における言ロゴスとキリストの魂の緊密な一致を示すものとして用いられている。ここに見られるような用例は、オリゲネスの弟子グレゴリオス・タウマトゥルゴス(Gregorios Thaumatourgos 二一三頃ー七〇/七五年)『テオポンポスへ――神における受苦と不受苦について』(Ad Theopompum de passibili et impassibili in Deo 本集成第一巻『初期ギリシア教父』収録予定)に見られる。
p.229
11――「一つのプロソーポン」を認めることはキュリロスの考えと異質のものに思われる。彼が好んで用いたのは「受肉した神なる言ロゴスの唯一の本性フュシス」という表現であり、『イコニウムの司教ウァレリアノスへの手紙(第五〇書簡)』([Epistula 50] Ad Valerianum episcopum Iconii)では、ネストリオス一派は「〔キリストの〕プロソーポンは一つであると言うが、彼を区分し二つのヒュポスタシスに切り離している」と述べている。本訳の底本の校訂者ド・デュランは、ここで意味しているのは、キリストがわれわれの精神に一つの容貌を提示することとしている(cf. Cyrille d'Alexandrie, Deux dialogues christologiques, Paris 1964, p.513, n.1)。これを踏まえ、ここでは「プロソーポン」を「様相」と訳した。

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不気味すぎる実写映画『ほんとうのピノッキオ』 大人たちに搾取される社会的弱者を描いた寓話
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 嘘をつくと鼻がぐんぐん伸びる木彫り人形を主人公にした児童文学『ピノッキオの冒険』は、誰もが子どもの頃に絵本やアニメーションなどで親しんだ作品だろう。とりわけディズニーアニメ『ピノキオ』(40)は有名だが、ストーリーもキャラクターもディズニー作品らしくソフィスティケイトされたものとなっていた。19世紀のイタリアで書かれた原作のピノッキオはもっと欲望の赴くままに動く悪童であり、残酷描写も少なくない。そんなピノッキオの物語を、原作に忠実な形で実写映画化したのが『ほんとうのピノッキオ』(原題『Pinocchio』)だ。イタリア本国では2019年に公開され、大ヒットを記録している。

 主人公であるピノッキオの造形がまず不気味だ。木目の肌をしたピノッキオは、目だけはつぶらな少年の瞳となっており、まるで大映の特撮時代劇『大魔神』(66)のよう。ジェペットじいさんが作ったあやつり人形のはずのピノッキオが突然しゃべり、動き出し、「不気味の谷」を渡ってこちらへと近づいてくる。ホラー映画の始まりを思わせる。

 本作を撮ったのは、イタリア映画界の鬼才マッテオ・ガローネ監督。ナポリを拠点にする犯罪組織の内情を生々しく描いた『ゴモラ』(08)、イタリアに伝わる不条理系お伽話を映像化した『五日物語 3つの王国と3人の女』(15)などで知られる監督は、主題歌「星に願いを」が印象的だったディズニーアニメ『ピノキオ』のイメージを完全に払拭させる、ダークファンタジー映画に仕立ててみせた。

 ピノッキオを溺愛するジェペットじいさんに、アカデミー賞外国語映画賞&主演男優賞などを受賞した『ライフ・イズ・ビューティフル』(98)のロベルト・ベニーニ。ピノッキオの窮地を救うターコイズブルーの髪をした美しい妖精に、フランソワ・オゾン監督の『17歳』(13)や『2重螺旋の恋人』(17)に主演したフランスの人気女優マリーヌ・ヴァクト。ピノッキオが紛れ込む人形劇団やサーカス一座には個性的な俳優たちが配役されており、ビジュアルを追っているだけでも飽きない124分間となっている。

 リアリズムを重視するマッテオ・ガローネ監督らしく、19世紀のイタリア庶民の生活がリアリティーたっぷりに再現されている。ジェペットじいさん(ロベルト・ベニーニ)は木工職人だが、その暮らしはビンボーそのもの。あまりに貧しすぎ、ずっと独身のまま。ひとり暮らしが寂しいジェペットじいさんは、不思議な木材を刻んで精巧なあやつり人形を作るが、完成した人形のピノッキオ(フェデリコ・エラピ)は家を飛び出してやりたい放題で、ジェペットじいさんは精神的にも経済的にもボロボロになる。

 ジェペットじいさんは食事を我慢し、一着しかないコートと上着を売って、ピノッキオが学校に通うための教科書を購入する。だが、誘惑に弱いピノッキオは、即座に教科書を売り、楽しそうな人形劇団を観に行く。さらには詐欺コンビである足の悪いキツネと目の不自由なネコに騙され、金貨を巻き上げられてしまう。

 死にそうな目に遭ったピノッキオは自分のあさはかさを反省し、一度は学校に通うようになるものの、学校の教師は容赦なく子どもたちに体罰を加える。やがてピノッキオは、学校を休んで泥棒稼業に精を出す少年と仲良くなり、一緒に「おもちゃの国」へと向かうことに。この「おもちゃの国」は実は人身売買グループが用意した巧妙な罠で、ピノッキオは哀れなロバに変えられてしまう。生まれてまだ間もないピノッキオの目には、貧困、暴力、犯罪が世界中に溢れているように映る。ピノッキオを飲み込む大ザメは、高利貸しのメタファーでもある。美しい妖精(マリーヌ・ヴァクト)と過ごす時間だけが、ピノッキオの喜びだった。

 本作でジェペットじいさんを演じたロベルト・ベニーニは、主演&監督作『ライフ・イズ・ビューティフル』が絶賛されたが、続く『ピノッキオ』(02)は海外では大コケしたうえにゴールデンラジー賞を受賞している。当時すでに50歳のおっさんだったベニーニが、大人になれないピノッキオを演じた痛々しい作品だった。ピノッキオに振り回されるジェペットじいさん役に回って、今回は大正解。本作を観てしまうと、ベニーニ版のおっさんピノッキオがいつまでも童心を忘れずにいるという解釈は甘すぎたと感じずにはいられない。

 ガローネ監督が描くピノッキオは、無知ゆえに次々と不幸な事件に巻き込まれていく。所持金を騙し取られた上に、被害者でありながら裁判所では有罪判決を下されてしまう。大人たちに迫害され、搾取される社会的弱者としてのピノッキオがいる。寄生できる親がいる家庭に生まれた子どもなら、ずっと子どものままでいたいと思うかもしれないが、ピノッキオのように迫害され、犯罪者やサーカス団から搾取され続ける立場でいたいと考える人は今の格差社会にはいないだろう。いつまでも子どもままでいられたら幸せ……。そんな底の浅い幻想を『ほんとうのピノッキオ』は粉々に打ち砕いてみせる。

 原作となる『ピノッキオの冒険』を19世紀に執筆したカルロ・コッローディは、貧しい家庭に生まれ、神学校を中退し、第一次イタリア独立戦争に従軍した経歴の持ち主だ。理想の国家が誕生することを夢想したコッローディだが、統一国家となったイタリアの現実に失望し、社会風刺を込めて「子ども新聞」に連載したのが『ピノッキオの冒険』だった。ギャンブルにハマり、酒好きで、借金を重ねたコッローディの分身として、ピノッキオは誕生した。当初はピノッキオが首吊りにされて物語は終わるはずだったが、読者から抗議が殺到し、連載が再開されたという逸話が残されている。

 各国で翻訳されたピノッキオの物語は、多くの末裔を生み出してきた。手塚治虫の人気漫画『鉄腕アトム』のアトムも、その一人だ。天馬博士は交通事故で亡くなった息子の代用品として高性能ロボットのアトムを開発するが、アトムが成長しないことに怒り、サーカスに売ってしまう。スタンリー・キューブリック監督の遺稿をスティーブン・スピルバーグ監督が映画化したSF大作『A.I.』(01)や、是枝裕和監督がぺ・ドゥナ主演で撮ったセクシャルなファンタジー映画『空気人形』(09)も、ピノッキオの遺伝子を受け継いでいると言えるだろう。

 ピノッキオはいたずら好きで、学校には行きたがらないが、その分とても自分の欲望に正直な存在である。つまらない嘘もつくが、嘘をつくと鼻が伸びるので、妖精にはすぐにバレてしまう。そんな人間くさいピノッキオが物語の最後に人間の子どもになるのは「いい子」にしていたからではない。大人たちに搾取され続け、社会の理不尽さを経験してきたピノッキオが、自分で主体的に考えて行動し、自分よりも弱い立場の他者をいたわることができるようになったからだ。もはやピノッキオは不気味な人形ではなく、人間以上に人間らしい。

 さんざん酷い目に遭いながらも、ピノッキオは真っ当な生身の人間へと成長を遂げる。誰しも真っ当な人間になりたいと願うが、社会に抑圧されているうちに次第に歪んだ心を持つようになってしまう。ピノッキオのように、純真なまま大人にはなれない。とても身近な存在だが、永遠に同化することもできない存在。それがほんとうのピノッキオではないだろうか。



『ほんとうのピノッキオ』
監督・共同脚本/マッテオ・ガローネ
出演/ロベルト・ベニーニ、マリーヌ・ヴァクト、フェデリコ・エラピ
配給/ハピネットファントム・スタジオ 11月5日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国公開
copyright 2019(c)ARCHIMEDE SRL-LE PACTE SASLE PACTE SAS
https://happinet-phantom.com/pinocchio


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