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2021年10月27日21:18

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中世思想原典集成 (3) 上智大学中世思想研究所 平凡社 1994年8月

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p.91
〔パウロは〕実際にどのようなことを述べているのでしょう。〔次のように述べています、〕「あなたがたのあいだでこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られることです。〔キリスト〕は神の姿形でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」――一言一言引用するのはやめます――「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順なものとなられました」〔フィリ二:五-八〕。実に、師について言及しようとするときには、それによって神である言ロゴスが苦しみうるものであると思われないように、単一のプロソーポンにおける苦しみうる本質ウーシアと苦しみえない本質を表示するものとして、「キリスト」という名称を掲げているのです(2)。それは、何の危惧もなしに、キリストは苦しみうるものであり、かつ苦しみえないものであると称することができるからです。つまり、神性によって苦しみえないものであり、肉体の本性フュシスによって苦しみうるものだからです。
 (5) この点に関して私は多くのことを語ることができますし、まず第一に彼ら聖なる教父たちは救いの営みオイコノミアにもとづく誕生について言及しているのではなく、受肉について言及していることを指摘できるでしょう。しかし、冒頭で簡潔に述べると約束したことを覚えておりますので、敬愛する貴殿が指摘された第二の点に進むことにいたします。
 (6) そこでの、人間性と神性という概念にもとづく〔二つの〕本性フュシスの区別と、一つのプロソーポンにおける両者の結合(3)、そしてまた、神なる言ロゴスは女からの第二の誕生を必要としたとは言えないこと、神性が苦しみに服することはないという宣言に私は賛同いたします。実に、そのように表明することはまったく正統なことであり、主の〔二つの〕本性フュシスに関する、あらゆる異端者たちの謬説に反対するものです。しかしながら、その他の点は、たとえ何らかの知恵が隠されているにせよ、聴衆の耳には理解しがたいものであり、それを理解するには貴殿の綿密な研究を俟たなければなりません。私にとりましては、先に述べられたことを覆すものと思われます。実に、初めの個所で苦しみえないと宣言された方、第二の誕生を受け入れることはないと宣言された方が、ここでは、どうしてか私にはわかりませんが、苦しみうるもの、ごく最近造られたものとして提示され、その結果、本性フュシスに即して神なる言ロゴスに固有な事柄が、神殿との結合によって壊滅されてしまっておりますし、あるいは神的な本性フュシスと分ちあえない、何の罪もない神殿が罪人たちのために誕生と死を甘受したことが、人々にとって大して意味がないかのようにみなされておりますし、あるいは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」〔ヨハ二:一九〕と言われたのであって、「私の神性を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われたのではない、ユダヤ人に対する種の言葉を信じてはならないかのように見受けられるのです。
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 (7) ここでもまた、長々と論じてしまったようですが、〔初めに〕約束したことはしっかりと覚えております。簡潔を旨としていますが、これだけは言わなければなりません。
 聖書のあらゆる個所で、主の救いの営みオイコノミアに言及されるときには、私どものための誕生と受難はキリストの神性ではなく人間性に帰されているのです。その結果、精確を期した呼称に従えば、聖なる処女は「神の母」ではなく「キリストの母」と呼ばれなければなりません。では、福音書記者の言葉を聞いて下さい。こう言っています、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」〔マタ一:一〕。神なる言ロゴスがダビデの子ではなかったことは確かです。よろしければ、他の証言を受け入れて下さい。「ヤコブはマリアの夫ヨセフを儲けた。この〔マリア〕からキリストと呼ばれるイエスがお生まれになった」〔マタ一:一六〕。次のように私どもに証言する別の言葉にも注目して下さい。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。彼の母マリアはヨセフと婚約していたが、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」〔マタ一:一八〕。独り子の神性が聖霊による被造物であると考える人が誰かいるでしょうか。「イエスの母がそこにいた」〔ヨハ二:一〕という言葉については何と言うべきでしょう。さらに、次のようにも言われているのです。「イエスの母マリアとともに」〔使一:一四〕、「〔マリアの胎〕の子は聖霊によって宿ったのである」〔マタ一:二〇〕、「子供とその母親を連れて、エジプトに逃げよ」〔マタ二:一三〕、「子に関するものです。〔子は〕肉によればダビデの子孫から生まれた」〔ロマ一:三〕。
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そしてまた、受難については〔次のように言われています〕、「神は、罪〔を取り除く〕ために子を罪深い肉と同じ姿で〔この世に〕送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」〔ロマ八:三〕、「キリストは、私たちの罪のために死んだ」〔一コリ一五:三〕、「キリストは肉によって苦しみをお受けになった」〔一ペト四:一〕、「これは、あなたがたのために裂かれた」――私の神性ではなく――「私の体である」〔一コリ一一:二四〕。
 そして、他の無数の〔聖書の〕言葉が、子の神性は最近のものではなく、肉体的な受難に服したのでもなく、神性の本性フュシスと一つに結ばれた肉が〔最近のものであり、受難に服した〕ことを人類に証言しているのです。〔肉が神性と一つに結ばれたこと〕から、キリストはダビデの主そのもの、〔ダビデの〕こと呼ばれうるのです。「〈あなたたちはキリストのことをどう思うか。誰の子だろうか〉。彼らが〈ダビデの子です〉と言うと、イエスは言われた。〈では、どうしてダビデは、霊を受けて、〔キリストを〕主と呼んでいるのだろうか。「主は私の主にお告げになった。私の右の座に着きなさい」と〉」〔マタ二二:四二-四四〕と述べられています。肉に即して絶対にダビデの子であり、神性に即して主であられるのです。それゆえ、肉体は子の神性の神殿、気高く神的な結合に即して一つにされた神殿であり、その結果、神的な本性フュシスが〔神殿の本性〕をご自分のものとされたと表明することは、福音の伝承に適う、正しいものです。しかしながら、兄弟よ、この取得を名目にして、結合された肉に固有な事柄、すなわち誕生、受難、死といったことをも〔神性に〕帰すことは、異教徒の誤謬、あるいは常軌を逸したアプリナリオスやアレイオスや他の異端者たち、否、むしろ彼らよりもずっと邪悪な者たちの病んだ思いによって欺かれることにほかなりません(4)。実に、取得という言葉に引きずられた彼らは、必然的に、取得のゆえに、神なる言ロゴスは乳で養育され、少しずつ成長し、受難にあたって恐れを覚え、天使の助けを必要としたとせざるをえないのです。割礼、犠牲、飢え、渇きについては何も言いますまい。それらは肉に付随することであり、私どものために生じたこととして崇むべきことではありますが、それらが神性に帰されるなら、間違って解釈され、冒瀆を犯したものとして私どもを正しく断罪する原因となるのです。
p.94
 (8) 以上は聖なる教父たちの伝承であり、聖書の教えていることです。同様に、神の人々への愛と威光についても語ることができるでしょう。「これらのことを熟慮しなさい。それに励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。」〔一テモ四:一五〕と、パウロも皆に対して語っている通りです。ですから、貴殿が躓いた人々の対し十分配慮して下さるのであれば、神的な事柄を気遣い、私どもに関わることをも考慮なさる貴殿の魂に、私は感謝を捧げることでしょう。しかしながら、貴殿はマニ教徒とみなされて聖なる教会会議によって断罪された者たち(5)、あるいは貴殿の権威の下にある聖職者たちによって惑わされてしまったことを知って下さい。実に、教会の状況は日ましに進展しており、キリストの恵みによって民は、その盛況を目にして、預言者とともに「大水が海を覆うように、地は主の知識で満たされるであろう」〔イザ一一:九〕と叫ぶまでに増大しているのです。皇帝がたは、正しい教えが光を放っている現状にしごく満足しておられますし、簡単に申せば、神と教会の正しい信仰に敵対するあらゆる異端者に関して、「サウルの家は次第に衰えていき、ダビデの家はますます勢力を増していった」〔サム下三:一〕という言葉が、私どものあいだで、日ごとに実現されているのを看守することができるのです。
 (9) 以上は、兄弟から兄弟に向けた、私どもの勧告です。パウロが私どもの口を通して叫ぶことでしょう。「異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、私たちにも神の教会にもありません」〔一コリ一一:一六〕。私と、私と共にある者一同より、貴殿と共におられるキリストにおける兄弟の皆様に、心よりご挨拶申し上げます。いとも尊く、敬神の念篤い君よ、いつまでもご健在であられますように。私どものためにお祈り下さい。

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■『チ。』作者・魚豊が語る、“主観的な熱中”の尊さと危うさ 「気持ちに逆らえない人たちの姿を描きたい」
(リアルサウンド - 02月15日 10:01)
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 いま、目利きの漫画読みたちの間で話題になっている衝撃的な作品がある。『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて連載中の『チ。―地球の運動について―』(魚豊・作)だ。舞台は異端思想が過激に弾圧されていた中世ヨーロッパ、第1集の主人公・ラファウは、“合理性”に従って生きている天才児だが、本来学ぶべき神学よりも天文の研究に惹かれている。そして、ある時、この世界を動かしている美しい“真理”を知ってしまい……。


 「地動説」をテーマに、己の信念に嘘をつくことができない人々の姿を描いた同作は、間違いなく2021年を代表する漫画のひとつになるだろう。そこで今回のインタビューでは、この『チ。』の作者に、デビューまでの経緯や、物語やキャラクターに込めた想いなどを熱く語っていただいた。(島田一志)


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■「個人と世界」がテーマの物語に惹かれる


――魚豊先生は、もともと漫画家志望でしたか。


魚豊:はい、小さい頃から絵を描くことが好きだったので、将来は漫画家になれたらいいなと漠然と思ってはいました。ただ、どうやったら漫画家になれるのか、具体的な方法がわからなくて困っていたのですが、中1の時に偶然観た『バクマン。』のアニメがすべてを教えてくれました(笑)。まずは持ち込みや投稿をして、担当さんがついてくれて、読切を何作か描いたのちに連載へ……という一連の流れですね。それで、中1の頃から本格的に漫画の投稿を始めました。年に1〜2作は描いていたと思います。


――どういうジャンルの漫画を描いていましたか。


魚豊:かなり出来の悪いギャグ漫画を(笑)。ネームも描かずにぶっつけ本番で描いてました。しかも、漫画用の原稿用紙があるなんてことは知りませんでしたから、作文を書くB4原稿用紙の裏に描いてました(笑)。


――描いていたのは不条理系のギャグですか。


魚豊:不条理といえば不条理なんでしょうけど、具体的にいえば、すごくどうでもいいことを真剣にやるキャラの話をよく描いていました。福本伸行先生の『(賭博黙示録)カイジ』が昔から好きなんですけど、あのノリをストーリー漫画でなくギャグに活かせないかと考えまして。たとえば、引っ越しの際の隣人への挨拶を延々と悩む主人公の話とか(笑)。いまでもギャグ漫画への憧れはあります。『魁!!クロマティ高校』みたいな漫画は本当に凄いと思います。


――映画や小説など、漫画以外の表現ジャンルで影響を受けたものはありますか。


魚豊:映画です。漫画を読むよりも映画を観ることのほうが多いと思います。『インターステラー』、『第9地区』、『セッション』、『桐島、部活やめるってよ』……。ジャンルを問わず観ますが、強いていえば「個人と世界」がテーマになっているような物語が好きかもしれません。ただの一個人がある日突然、世界そのものと関係するような物語に惹かれます。また、それとは別に、クエンティン・タランティーノ監督の映画は全部大好きです。会話劇が多いところにも惹かれますし、登場人物たちが妙に理屈っぽかったりするのも楽しくて。そういうところは目指せたらなと思っています。最初にいったように僕は昔から絵を描くことが好きなんですけど、同様に、漫画においてセリフもとても重要だとも思うので。


■担当編集者がついてデビュー


――学生時代の投稿はうまくいきましたか。


魚豊:中学時代はずっとダメだったんですけど、高1の終わり頃に描いたギャグ漫画が某少年誌の月例賞の最終選考に残り、担当さんがついてくれました。これでようやく『バクマン。』の世界に一歩足を踏み入れたぞと思いながら、高2の時に新しく描いた作品を持ってその編集さんに会いに行ったら、あまり良い反応がなくて……。高校生でしたのでそれで結構落ち込みました(笑)。本当はそこで「なにくそ! 認めさせる!」とか思って頑張るべきなんでしょうけど、僕はもともと被害妄想ぎみなので、「ああ、この人とはもう一生やれないな……」と(笑)。


――それで『マガジン』へ?


魚豊:ええ。我ながら安直だとは思いますが、その少年誌がダメなら、じゃあ次へって感じで『マガジン』に投稿しました。「全校集会で体育館の硬い床に長時間座っても、お尻が痛くならないためにはどうすればいいか?」みたいな話を描いて送ったのですが、なんの賞にも引っかかりませんでしたね。でも、そこで担当についてくれた編集さんがいて、その方から「セリフはいいところがあるから、一度ストーリー漫画を描いてみたら?」というアドバイスをいただいて、結果的に、そうやって描いたストーリー漫画が、月例賞の佳作をとって、初めて自分の作品がネットに掲載されました。


――『ひゃくえむ。』はその流れで?


魚豊:そうですね。


■『チ。』に出てくるそれぞれのキャラクターの生き方


――ここから先は、『チ。』についてお聞きしたいと思いますが、この作品にコロナ禍は影響していますか。


魚豊:『チ。』は中世ヨーロッパをイメージしてる話ですけど、描いている僕が「いま」を生きている以上、影響はあるかもしれません。具体的な致死率などは置いておいて、観念的な意味で新型コロナウイルスの流行で「死」というものが、身近になった瞬間はあったと思います。一見それはただ単にネガティヴなことのように思えてしまいますが、個人のレベルで考えると、そうでもない要素もあると思います。死について考えると逆説的に人生の意味についても考えるし、多分それは無駄ではない。確かに死ぬことは怖いけど、ではなぜ私は生まれたのだろう、とか、いつ来るかわからない死を前に、いかにして自分に嘘をつかずに自分らしく生きられるのか、とか、それらの推論は死という事実を受け入れることによって始まる気がして。そういった感覚は『チ。』のひとつのテーマであると思いますし、それはコロナの登場によってより濃くなってるのかもしれません。繰り返し作中で描いている、死ぬ時の顔、というのはそういう諸々を表現してるつもりです。


――それでは、主要キャラについてお話しください。まずは第1集の主人公・ラファウについて。彼は合理的で、少々チャラい面もありますが、もう少しストイックな感じで天文と向き合う、真面目なキャラにするという選択肢はありませんでしたか。


魚豊:真面目な主人公が天動説と地動説の間で苦悩するよりも、彼みたいなどこか世渡り上手で合理的な少年のほうが、身近だし、多くの読者が感情移入してくれるんじゃないかと考えたんです。たしかに、部分的に見れば嫌なやつなんですけど、僕としては、真面目なだけの人間よりもラファウみたいなキャラのほうが好きです(笑)。


――モデルはいますか?


魚豊:特定のモデルはいませんが、僕の考える「器用な人」というのがラファウのようなキャラなんです。合理的にスキルを磨いてひたすら「上」を目指すという、それは良い面もあり悪い面もあるわけですけど、そんな彼が、あるとき宇宙の真理を知ってしまい、それまでの合理性や恵まれた未来に背を向けて、自分が本当にやりたいことに向き合おうとする。そのギャップに面白みがあればなと思いました。


――一方、派遣異端審問官のノヴァクもなかなか濃いキャラですよね。冷酷な悪役ではありますけど、ある意味では、本作で描かれているのは彼の目から見た世界の姿だともいえますし、作品全編を通して最も印象に残るキャラかもしれません。


魚豊:そういっていただけるとうれしいです。彼が本作の最重要キャラのひとりだと思いながら描いています。人物造形にあたってヒントにしたのはナチスのアドルフ・アイヒマンです。アウシュヴィッツ強制収容所へ無数のユダヤ人を送った人物で、彼についてはいろいろ見解があると思いますが、よくいわれるのは、彼はモンスターでもサイコパスでもなく、「仕事」としてそれを淡々とこなしていた。どうせ自分には決定権がないので、歯車の一部として上司にいわれるがままに粛々と仕事をしていただけ、というものです。要するにノヴァクもそういう人間なんだと思います。別にファナティックなわけじゃなく、ただ毎日、生活の一部である仕事として、異端者を拷問し、処刑している。理由は上から命令されたから。ただそれだけ。だからこそ、生活として家族や友人を大事にするという一面もある。ある意味で最も普通な価値観のキャラクターだと思います。人間はちょっと疑うのをやめれば、すぐに仕事として平然と残酷なことをやれるのかもしれない。そういう怖さを出せればいいなと思っています。


――ネタバレになるので詳しくはいいませんが、第2集では、主人公がラファウからオクジーという青年に変わりますね。この思い切ったストーリー展開も衝撃的でした。


魚豊:ひとりのキャラクターの主観による物語を描くよりも、むしろ、大きな時代の流れの中にいる人々の姿を描きたいと思っていました。ですので主人公が変わることについてはさほど抵抗はありませんでしたね。


――オクジーの「代闘士」(依頼者の代役として「決闘」を行う仕事)という職業も興味深いですね。


魚豊:仕事で人を殺すという、そういう意味では、オクジーはノヴァクと表裏一体のキャラだともいえます。ただ彼は、ノヴァクと違って、いろいろと「死」や「生」について悩みます。そこに、主人公としての成長の余地があるんだと思います。肩書きを代闘士にしたのは、単純に取材の過程でその職業自体をおもしろいと思ったというのもありますが、学者肌のラファウとはまた違うタイプのキャラを出したかったのもあります。空を見るのが怖い、というのも、星を美しいと思っているラファウとは正反対のキャラですし。


――修道士のバデーニはどうですか? もちろん、オクジーに対するメンター(導き手)のような役割もあるかと思いますが。


魚豊:そうですね。やはり天文の知識のある人間がいないと、オクジーだけでは物語が展開しませんしね。バデーニのあの傲慢な感じは個人的に気に入ってます(笑)。あと、「世渡りが下手な、大人になったラファウ」みたいなイメージも少なからずあります。ただ、バデーニは、ラファウと違って、純粋な好奇心もあるにはあるんですけど、それと同時に俗っぽい名声欲みたいなものも強い人物だと思っています。世界の真理を知るのも大事だけど、それ以前に「特別な人間」になりたい人、といいますか。


■最終回までの構想はすでにある


――3月30日に発売予定の第3集以降は、オクジー、バデーニの他に女性の視点も加わり、作品世界はより深くなっていきますが、この『チ。』という漫画は、「たとえ異端者だといわれようとも、世界を変えようとしている人たちの物語」だと考えていいですか?


魚豊:「変えよう」というのはちょっと違うかもしれません。どちらかといえば、「自分が“これだ”と思ったことを貫く人たちの物語」ですね。とにかく『チ。』という作品では、「世界」が突然立ちはだかってこようとも、「自分がこれをやりたい」という気持ちに逆らえない人たちの姿を描きたいんです。ただそれは、何を選ぶかによって大変危険にもなりうる姿勢だと思いますので、その危うさも内包して意識的に描けたらなと思います。日常的なレベルでいうと、他人から「なんでそんなこと本気でやってんの?」といわれてる人はたくさんいるだろうし、僕も他人に対して「なんでそんなこと必死でやってんだ……」と思うことはある。なので、そういう無理解や拒絶反応自体は悪いことじゃなくて、ある種当然の反応だし、時には必要なことだと思います。しかし、例え側から見たらどうでもいいことだとしても、それは自分が愛するものに真剣にならない理由にはならないし、その主観的な熱中こそが、ある種の自分として生まれたことの意味、というような気がする。ただ繰り返しますが、この情熱は悪い方向に行く時はとことん悪い方向に行ってしまう、という留意が必要です(笑)。しかし『ひゃくえむ。』で描いたのも大まかにはそんなようなことでしたし、もちろん『チ。』もそう。きっとこれから先の作品でも、同じような人々を飽きもせずに描くかもしれません


――それでは最後に、読者のみなさんにひと言お願いします。


魚豊:昨年末に『チ。』のコミックスが出て、予想以上の反応をいただけて嬉しい限りです。本当にありがとうございます。最終回の展開まで大まかには考えているので、それまでなんとか打ち切られないよう努めます。今後とも何卒よろしくお願いします!


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